第11話 わたしと、夜
今までぼんやりと生きてきたツケが回ってきたように、考えることがたくさんできてしまった。パパのこと。『人口管理委員会』のこと。『巡回部隊』のこと。大貫さんのこと。
そしてまた、無慈悲に朝日は昇り、翌日はやってくる。わたしと篠塚は、今日は大貫さんと約束してしまっていた。『宇都宮二名』のうちの片方、大貫さんが取材をした姉妹の姉のほうに、会いにいってみようと。質問サイトであんな情報を得てしまった今、大貫さんと会うのはもうやめたほうがいい気がした。けれど、だからといって約束を破るのはよくない。それに、エンデバーに行かなかったとしても、大貫さんはわたしの住所くらい知っているだろう。直接うちまで迎えに来られてしまう可能性もある。そして、わたしはそのひとに──わたしと同じ生還者に、会ってみたかった。
わたしと篠塚は学校が終わったあと、エンデバーで大貫さんを待った。マスター特製のコーヒーとシフォンケーキを楽しみながら、言葉少なに大貫さんや殺人鬼さんのことについて話しながら。けれど、待っても待っても大貫さんは現れなかった。少し遅くなるとか、そんな連絡もなかった。時計の針がどんどん進んでいく。窓から見える外が暗くなっていく。そうして時計の針が、夜八時をまわった。宇都宮のひとは、普通の主婦だと大貫さんは言っていた。それじゃあ、こんな時間に訪ねていくのは迷惑じゃないの?
「……今日は、来ないのかな」
「だったら早めに連絡入れろってんだよ。エンデバーの電話番号くらい、アイツ、知ってるはずだろ」
三切れ目のシフォンケーキをぺろりとたいらげて、篠塚が言った。わたしのシフォンケーキも三切れ目だ。このままじゃ、マスターのシフォンケーキが夕飯になってしまう。すごく美味しいけれど、それは身体によくない。それに、うちに帰ったらママの夕ご飯が待っている。
「帰ろうぜ。あーあ、待ち損だ」
そう言って、篠塚がカウンターの椅子から滑り降りた。そのとき、タイミングを見計らったかのように、エンデバーの飴色の扉が開いた。チリリン、と鈴が軽やかに鳴る。
「待たせてごめんよ。他の仕事がたてこんでしまってね」
入ってきたのは、大貫さんだった。こんな時間になったことにも悪びれずに、穏やかな表情で笑っている。困ったように頭を掻きながら。それは、わたしたちがよく知っている大貫さんだった。けれど、わたしは質問サイトの回答を思い出す。いつもの穏やかな大貫さん。それがなんだか怖くて、わたしは胸のペンダントをぎゅっと握りしめた。
「遅えよ。見ろよこの時間!」
わたしと比べて、質問サイトで同じ情報を得ているというのに、篠塚の大貫さんへの態度は変わらなかった。内心でどう感じているかはわからないけれど、それを態度に出すようなことはしない。篠塚は強いな、とわたしは思った。わたしだって、しっかりしなくちゃ。
「こんな時間におうちにお邪魔するなんて、迷惑じゃないんですか?」
ペンダントの力を借りて口を開くと、なんとか普通の声が出せた。ほっとしながらペンダントから手をはなして、カウンターの椅子をおりた。
「それに、こんな時間に未成年の女の子を連れ回すというのも感心しませんね」
落ち着いた声で、マスターが援護射撃をしてくれる。パパもいる。篠塚がいる。マスターがいる。わたしの大切なひとたち。大丈夫。だから、わたしは大丈夫。
ようやく落ち着いた気持ちで見上げた大貫さんは、それがですね、と両手を広げて苦笑した。
「今日だったら旦那さんが会社の飲み会でいないし、子供は寝かしつければいいので、できれば夜に来てほしいと言われていたんですよ。説明していなくて悪かったね」
「別に」と言って、篠塚はツンと顎をあげた。篠塚はそんな高飛車な仕草すら似合って見えるほど美形だった。わたしは、もしかして、と思った。もしかして大貫さんは、わたしも篠塚も、夜遅くに出歩いたとしても、とがめるひとがいないことを知っているんじゃないの? わたしのママは夜はお仕事だし、篠塚はひとり暮らしだ。
「さあ、どうぞ。乗って」
エンデバーの扉の外に、大貫さんの車があった。わたしは車には詳しくないので種類なんかはさっぱりわからないけれど、赤くて、丸っこくて、小さい、かわいい車だった。それは大貫さんに──柔和で人がよさそうな大貫さんに、とても似合っているように感じた。その後部座席の扉をあけて、大貫さんはエスコートするようにわたしたちを迎え入れた。
なんとなく、嫌な予感はしていた。一瞬だけ、大貫さんの車の前で立ちすくんだ。それなのに、促されるまま、わたしは車に乗ってしまった。そして篠塚もまた、乗ってしまった。エンデバーの扉のところで、心配顔のマスターがわたしたちを見守っている。わたしは笑顔を作って、マスターに手を振ってみせた。大丈夫だよ、というふうに。マスターの存在は心強かった。今晩、もしも篠塚とわたしの身になにかがあったとしても、それは大貫さんが原因なのだと、マスターは知ってくれている。
慣れた様子で運転席に乗り込んだ大貫さんは、「じゃあ、行こうか」と言うなり、車を発進させた。今日の大貫さんは、気のせいだろうか。なんだかとても上機嫌のようだった。
狭い住宅街の道を、小さな赤い車はすいすいとすり抜けていく。いくつめかの角を曲がると、ちょっと大きな道路に出た。それから、そこがどこなのかわたしにはもうわからない道を、くねくねと通り抜ける。そうして極めつけに、手品のようにドカンとすごく大きな道路にでると、車線の左側をのんびりと走り出した。
「こういう大きな道路に出ると、とたんに飛ばしたがる人間がいるけど、僕にはそいつの気が知れないね。車はやさしくかわいがって、のんびりと風景を楽しみながら走らせるものだよ」
「こんな時間じゃその風景ってヤツも見えやしねえよ」
運転席の後ろに座っている篠塚が、ドン、と座席を蹴飛ばした。大貫さんが、声をたてて笑う。
「それも一理あるね、失礼。それでもこれは僕の車だからね。イライラするかもしれないけれど、僕の流儀に従ってもらうということで、ご勘弁願いたいな」
ビュンビュンとほかの車が、この車を追い越しては消えていく。わたしはぼんやりと窓の外を眺めた。どうやらこの大きい道路のまわりは住宅街らしい。それにしてもわたしは本当に頭が悪いな、と自分にがっかりした。この大きな道がなんという名前の道なのか、そんなこともわからない。こっそりと落ち込んでいると、「甲州街道」と篠塚がささやいてきた。篠塚は口が悪くて性格も悪いけれど、本当に優しい。いつだってわたしの様子を敏感にくみ取って、適切な答えをくれる。わたしも篠塚に、なにかを返してあげられればいいのに。
そして、そういえば、とわたしは思った。車に乗るのなんて、どれくらいぶりだろう。わたしは学校まで徒歩十分なので、バスに乗ったりもしない。ママはわたしをどこかに連れていくことなんてしないし、運転免許を持っているのかすらわからない。最後に車に乗ったのはいつだろう。中等科の林間学校?
「で、ずいぶん上機嫌みたいだけどよ、なにか収穫でもあったのか?」
ドン、とふたたび運転席を蹴飛ばしながら、篠塚が訪ねた。すると、大貫さんは本当に上機嫌らしい。さっきよりもさらに大きな声をたてて、笑った。
「なにがおかしいんだよ」
反対に、篠塚はみるみる不機嫌になっていく。大貫さんは「ごめんよ」と笑って、ゆるいカーブにあわせてハンドルを切った。
「あれからいろいろと考えてみてね。アプローチのしかたを、少し変えてみることにしたんだ」
「変えてみる? どんなふうに?」
「さて、どんなふうだろうね」
のんびりと、でも確実に、赤い車は進んでいく。調布から宇都宮ってどれくらいかかるの? そう篠塚に尋ねてみたら、二時間ってところだろ、という返事にびっくりした。それじゃ、本当に夜中になってしまう!
その疑問をそのまま大貫さんにぶつけると、大貫さんはいたずらっぽい声で答えてくれた。
「少女時代は宇都宮にいたからって、今でも宇都宮に住んでいるとも限らないと思わないかい?」
「だろうな。どうせ都内にいるんだろ」
あっさりと、篠塚が言った。どうやら予想済みだったらしい。やっぱり篠塚はすごいな、先を読んでいる。そうひとりで感心していると、「ご名答!」と大貫さんが陽気な声をあげた。
「結婚した今は、彼女は成城に住んでいるよ」
「成城!?」
とたんに篠塚が血相を変えて、どんっ、と運転席をまた蹴飛ばした。やっぱりこれはお行儀が悪いよね、やめさせたほうがいいんかなあ。そんな思いは、次の篠塚の言葉ではるか彼方に吹っ飛んでいった。
「成城じゃぜんぜん方向違うだろ! どこに向かってるんだテメエ!」
「そういえばさ」
篠塚の激昂を、私の怯えを、バックミラーでちらりと見てから、大貫さんが言った。いつも通りの優しげな表情で、穏和な声で。
「『大貫浩輔を知っている人いますか?』──あの質問、君たちだよね?」
ぎくり、とわたしの身体がこわばる。けれど篠塚は開き直ったようだった。平らな胸を張って、「それがどうした、相手のことを調べてんのはお互い様だろ?」と言い返した。「だいたい、テメエは得体が知れなさすぎんだよ」などという皮肉な一言をつけくわえるのは忘れずに。
「まあね」
穏やかに、あくまでも穏やかに、大貫さんが言う。
「確かに、僕は菱川さんのことを──君たちのことを調べさせてもらった。まあ、フィフティ・フィフティかな」
私の頭に、その言葉がひっかかる。わたしのことはともかく、篠塚のことまで調べたっていうの? なんで篠塚のことを調べたの? 篠塚のなにを知っているの?
そう思ったとき、目の前に巨大なビル群が見えた。
「新宿だ……!」
篠塚の声に、わたしはふたたび、ぎくりとした。大貫さんがしようとしていることが見えてきたような気がして、みるみる顔色が変わっていくのが自分でもわかる。ああ、血の気が引いていく。高層ビルが建ち並ぶ新宿。広い新宿区。──今日の巡回地域は、新宿区第六地域。
「テメエッ!」
篠塚が血相をかえて大貫さんにつかみかかる。しかし大貫さんは、「ほら、危ないよ」と言ってぐらりと車を大きく揺らした。よろりと揺れた篠塚の身体が、どすんと後部座席に舞い戻る。篠塚が唸った。
「──テメエ、実験でもしようってのか」
大貫さんは、からりとした声で笑った。
「ああ、実験。そうだね、これからするのは実験だ。一度目は偶然という可能性も捨てきれない。けれど二回目があったとしたら、それは偶然ではなく必然にぐっと近づく。ちなみに三回目になると、それはもう必然だね」
「わたしたちを、ここに置いてくつもりですか……」
「ここじゃあないね。もうちょっと建物が少なくて、もうちょっと駅から遠いところにご案内するよ」
「ひとでなし……!」
わたしの声に怒りがこもる。篠塚はギラギラとした瞳で、バックミラーごしに大貫さんをにらみつけていた。
それでも、大貫さんの柔和な仮面は外れなかった。まるで、ちょっとこれから君たちをお散歩に連れ出すよ、という程度の話でもしているような表情だった。わたしにはわかった。きっとこのひとは、あの質問サイトで『A』さんが言ったように、今までもずっと、こうやってきたのだろう。手段もなにも選ばずに、誰かを犠牲にしながら、それでも平気で。
「お父さんが行方不明って、本当に嘘なんでですか」
怒りに声を震わせながら、わたしは『A』さんの書き込みを見てから、どうしても聞いてみたかったことを尋ねてみた。すると、バックミラーの大貫さんが、上辺ばかりの申し訳なさそうな表情になった。
「ああでも言わなきゃ、協力してくれなかっただろう? ちなみに僕の両親は、過疎地活性化条例にのっかって、今頃は新潟の山奥にある村で楽しく農作業しているよ」
もしも、大貫さんがああ言わなければ──「僕も父の行方を知りたいんだ」というひとことがなければ、わたしは大貫さんに心を開くことはなかっただろう。わたしと同じように、パパに会いたいんだ。そう思ったから、わたしは大貫さんに気を許した。だからこそ、私の怒りは大きくなる。わたしの真剣な気持ちをもてあそんで、お腹の中では舌を出していたのだ、このひとは。
「ひとでなし!」
「ひとでなしで結構。まだぬくぬくと学生生活を送っている君たちにはわからないと思うけど、働いて自分の食い扶持を稼ぐというのは大変なことなんだよ。フリーならなおさらね。それに、あいにく僕はジャーナリストだ、取材の時には、ちょっとしたフェイクのひとつやふたつは使ったりもするさ。アハハ、君たちの質問サイトの書き込みと一緒だね。……さて、この辺でいいかな」
──車が、止まった。
わたしはあたりを見回した。そこは大きな道路が複雑に交差する場所だった。外灯ひとつなく、道ばたに植えられた背の高い木は黒々として、なんだか不気味な雰囲気だった。
「さあ、降りて」
運転席から降りて、篠塚のほうの扉をあけて、大貫さんはにっこりと笑った。まさか逆らうはずがないよね。笑顔から、そんな意図が透けて見えた。
「誰がこんなとこで……帰せよ! 俺らを家へ帰せ!」
「ふうん、おうちに帰りたいのか。じゃあ帰してあげようか──自由が丘の、君の本当のおうちにね」
やめて! わたしは心の中で悲鳴をあげた。
大貫さんはずいっと後部座席に入り込むと、篠塚に覆い被さった。篠塚の身体はすっぽりと、大貫さんの細いけれど長い身体の中に、女の子ではとても太刀打ちできない大きな男性の肉体の中に、収まってしまった。
「キャアァッ!」
悲鳴が聞こえた。それから篠塚がもがくように暴れるのが見えた。篠塚はわたしの方に手を伸ばして、わたしを通り越してドアをあけると、わたしを突き飛ばして、もつれあうように外に転がり出た。
「それじゃ、朝までごゆっくり」
トントン、と大貫さんが自分の腕時計を叩いた。時間はもうすぐ、九時になろうとしていた。大貫さんはなにごともなかったかのように後部座席のドアを閉めると、振り返りもせずに車に乗って去っていった──あとに、わたしたちふたりを残して。
「……篠塚」
わたしは転がり落ちたときにスカートについた砂利をパンパンと払いながら、立ち上がった。
「篠塚、駅を探そう。あんなひとの言うなりになる必要ないよ。帰ろう」
そう言いながら篠塚を見下ろして、ようやくわたしは気づいた。篠塚は小さくなって、道路の上で小さく小さく身体を丸めて、頭を抱えて、震えていた。
反射的に地面に膝をついた。ジャリジャリする感触が痛かったけれど、本当に痛いのはそんなところではなかった。わたしは両手を伸ばして、篠塚の身体をギュッと抱きしめた。堅くかたくこわばった身体を、きつく、きつく。
「大丈夫だよ、篠塚。大丈夫」
校則違反ではないとうそぶきながら、頭を丸刈りにして、スラックスをはいて、男言葉で話している篠塚。学校内では王子様扱いをされて、親衛隊までいる篠塚。
だけど、わたしは知っている。篠塚は、別に、男のひとになりたいわけではないのだ。
わたしは知っている。本当は濃くて長いまつげを、自分で切りおとしている篠塚。本当は大きな胸を、締め付けて平らにしている篠塚。初めて生理がきたときに、泣いて取り乱した篠塚。今でも生理がくるたびに、洗面所で吐いている篠塚。長い眠りに身を任せることができない篠塚。夢を見たくない篠塚。変わり者なんかじゃない、わたしの親友。
篠塚は、男のひとになりたいわけじゃない。ただ、女でいたくないだけなのだ。
「大丈夫だよ、篠塚。わたしがついてる。わたしがいるよ」
そう言いながら、わたしは篠塚の背中をやさしくさすった。篠塚のことまで「取材」して、そしてためらうことなく利用した、大貫さんが憎かった。憎くてたまらなかった。けれどそんな感情よりも、篠塚が大事だった。
中等科の頃からひとり暮らしをしている篠塚。実家とは生活費をもらうだけで、ずっと交流がない篠塚。わたしと同じように、わたしとは正反対の理由で、自分の名前が大嫌いな篠塚。篠塚撫子。わたしの親友。
「大丈夫だよ、大丈夫だから」
篠塚の嗚咽が聞こえる。華奢な背中をさすりながら、わたしは淡々とその言葉を繰り返した。大丈夫。ここに篠塚を傷つけるものはなにもない。ここにいるのは、わたしだけなのだから。
──どれくらいそうしていただろうか。ようやく篠塚の、丸まった身体がゆるくほどけた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、篠塚がわたしを見上げてくる。
「ひどい顔」
笑って、ハンカチで篠塚の顔をそっと拭いた。きれいなきれいな篠塚の顔。きれいできれいだから、かつて傷つけられた篠塚の心。今でもまだ傷つき続けている、きれいなきれいな篠塚の心。
篠塚はわたしからハンカチを受け取ると、自分でごしごしと涙のあとを拭いた。それから、ぺたんとその場に座り込んだ。つられてわたしも、道路に座り込む。まだ小刻みに震えている篠塚の手を握った。大丈夫、わたしがいるから。
「駅、探す……?」
掠れた声で、篠塚が言った。
「どうでも、いいよ」
わたしは答えた。
「殺人鬼さんが、来る、かも」
篠塚が言葉の途中でしゃくりあげる。
「うん、来るかもしれないね」
そう言いながら、わたしはまだ震えている篠塚の手を握る指に力をこめた。殺人鬼さんよりも、大貫さんよりも、優先しないといけないものが、いまここにある。
わたしたちはぼんやりと、道路に座っていた。
少し離れたところに見えるビルの群は全部あかりが消えていて、これも殺人鬼さん効果なのかな、と思った。ここには外灯もなくて、月もでていなくて、あたりは本当に真っ暗だ。けれど不思議と、わたしはなにも怖くはなかった。
ザア、と道路脇の木々が揺れる。
車はひとつも通らない。
電車の音も聞こえてこない。
まるで、この世界に存在するのが、わたしと篠塚だけになってしまったようだった。
そうして、わたしと篠塚は手をつないだまま、朝日がのぼるまでそこにいた。ただ、ぼんやりと座り込んでいた。
2012.01.21:誤字脱字他修正




