プロローグ
新連載を始めました。カテゴリがホラーでいいのか微妙です……。
ストックがあるのでさくさく更新できると思います。
よろしけばお付き合いください。
わたしは、自己紹介が苦手だ。
そう告げると、知り合いはたいてい「ああ」という顔をする。その「ああ」には、納得や、ときには同情が含まれている。わざわざ「仕方ないよね」と共感を口にだしてくれるひともいる。
わたしは、自己紹介が苦手だ。
わたしが名乗ると、初対面の相手はたいてい「えっ」という顔をする。その「えっ」には、驚きや困惑が含まれている。次に相手はだいたい、わたしの全身を確かめるようにまじまじと眺めてくる。わたしは身じろぎひとつしないように息を殺して、心を無にして、その視線をやりすごす。そして検分が終わると、ひとによっては愛想笑いに似た曖昧な表情を浮かべながら、「ごめん、もう一度教えてくれる?」と言ってくる。わたしはとても居心地の悪い思いをしながら、ふたたび自分の名前を口にする。
わたしが大嫌いな、それでもとても大切な、わたしの名前。
「姉さんはあのとき、完全にキレちゃったのよ」
教えてくれたのは美代さんだった。美代さんはママの妹で、母ひとり子ひとりのうちを心配して、しょっちゅう遊びにきてくれる女のひとだ。仕事はジュエリー関係だというけれど、具体的にどんなことをしているのか、わたしにはわからない。美代さんはいつも明るい色のおしゃれなスーツを身にまとって、髪もお化粧も爪の先まで、ビシッと隙なく整えている。おしゃべり好きで朗らかな美代さんは、わたしがとても小さかった頃から、ママが教えてくれないことを──ママはいつだってわたしになにひとつ教えてはくれないのだけれど──いいことだって悪いことだってなんでもあけすけに、隠すことなく教えてくれた。
美代さんいわく、わたしのパパは、わたしが生まれる直前に、前触れもなく、断りもなく、突然行方をくらましてしまったらしい。
「大がつくほど生真面目で、誠実で、優しくておおらかで、なにひとつ悪いところなんてないひとだったんだけどねえ」
美代さんはパパについて、そんなふうに言った。
「まさかそんなことするようなひとだなんて思ってもいなかったのに、身重の妻を置いて、予告ゼロ、連絡ゼロでドロンでしょう。おかげで姉さんは、完全に怒り狂っちゃったのよね。それで、その大っ嫌いな男の血を引く娘に、憎くて憎くてたまらない男の名前を──」
「美代!」
テレビのほうを向いたまま、ママがぴしゃりと言った。美代さんとわたしは、鞭で打たれたように身をすくめた。ママが美代さんのおしゃべりを遮るのは、これまでの例から考えると、なにか本当のことを言いすぎてしまったときだ。わたしはそう見当をつけていた。そしてそれっきり、美代さんの話はおしまいになった。
それでも、わたしは考える。ママが激しく憎んでいるというパパ。それでも、生真面目で誠実で優しくておおらかだったというパパ。それなら、パパがママとわたしを置いていなくなってしまったのには、なにか仕方ない理由があったんじゃないの? その理由はパパにすらどうしようもないもので、なにも告げられず姿を消さざるを得なかったんじゃないの?
そうして、わたしは夢想する。もしパパがいたのなら、わたしの生活はどんなふうになっていただろう。いまとは違って、ママとも普通に話すことができたのかな。うちのなかが沈黙と緊張でギスギスするようなこともなかったんじゃないかな。パパにも、ママにも、たくさん甘えて、絵に描いたように幸せな家庭で育ったんじゃないのかな。
──だから、わたしが大嫌いで、それでも大切なわたしの名前。
誠泉女学院高等科一年C組十六番、菱川清治郎。
それが、わたしだ。
誤字脱字ほか、ご指摘ありましたらお願いします。
2012.01.21:誤字脱字他修正