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ひらりひとひらその花びらを

作者: 暁 京

 あの夜世界はあまりにも美しかったから。美しすぎたから、だから、予感がした。哀しい予感だった。



 確かにそれは瞼の裏側が薄紅色に染め尽くされる程の光景だった。


「トール! 見て見て、ほんっとにすごいね、桜!」


 彼女は僕を、『とおる』とは一度も呼ばなかった。『瀧川君』が気付けば『トール』になっていた。僕の事をそう呼ぶ人は、後にも先にも美桜みお一人。吉野美桜。彼女一人。


 その夜は美桜の二十歳の誕生日だった。何度も何度も美桜は、あたしは大人だけど透葉はまだ子供だね、と嬉しそうに言った。四月の初めに生まれた美桜と、三月の終わりに生まれた僕。一歩間違えれば学年が違ったんだと、時折笑いあった。まだお互いに幼かった十五歳の頃から、僕らはたくさんの時間を共有した。

 あの夜のような咲き誇る桜も、空に散る花火も、踏みしめた木の葉も、浜辺にシンと積もる雪の深さも。学校のチャイム、昼休みの図書館、放課後の教室、キスした夕闇、喧嘩した梅雨の土砂降り、初めて一緒に眠った朝日のまばゆさ、美桜の長いまつげに降り積もる静かな過去、つないだ手のぬくもり、声のなめらかさ、足首の細さ、美桜をかたちどったすべて。僕が感じてきたすべて。

 たとえば美桜がもう何日か早くに生まれて僕より年下だったとしても、僕らは付き合っていたんだろうか。

 答えはYESだと、美桜は言った。そういう星の元に生まれて来たんだから、と。


「写真撮って写真!」


 僕にカメラを投げて渡し、美桜は桜並木の真中で笑った。

 あたり一面、この日を逃せばもう来年まで見れないだろうと思わせるほど桜が満開で、花びらが一枚一枚音も無く、雪のようにはらはらと散っていた。藍色の春のけだるく濃い闇に、淡い桃色の花びらはけぶるようによく映えた。

 僕らが育った町はずいぶん田舎で、舗装されていない並木道に植えられた桜の一本一本は土の栄養を十分に吸収して太く、特にその年は数十年に一度と言われるほどに花も美しかった。

 人使い荒ぇよ、と言いながらもそのインスタントカメラのフィルター越しに見た光景が忘れられない。

 狂ったように咲き誇る薄紅色の桜に挟まれて、白いニットワンピを着て微笑んだ美桜はまるで春の女神みたいだった。でも、今にもかき消えてしまいそうだった。

 行くぞー、三引く一はー? 途端に吹き出した美桜の、澄ましていない笑顔にほっとして僕はシャッターを切った。


「トール、古ーい!」


 ほっとけ、と笑ってカメラを手渡す。その時かすかに指先が触れ合って、何故だか僕はどきりとした。

 その時美桜の携帯が鳴り、彼女は僕に舌を出した。


「いっけない、お母さんだ! 門限過ぎちゃってるもんね」


 日が変わるまでに帰ってくればいい、という厳しいんだか甘いんだかわからない美桜の家の門限を、僕らはその日初めて破った。

 夜桜を見よう、もう二十歳なんだからお酒でも飲みながら夜桜を見よう。そう言い出したのは美桜だった。僕らはチューハイで誕生日を祝った。人気のない、真夜中の桜並木の元で。季節限定の桃風味のチューハイはジュースみたいに甘ったるくて。最近は何でもかんでも限定品ばっかりと、二人で笑った。

 半分くらい空いた美桜の缶の飲み口に、花びらが一枚舞い降りた。悪怯れる事無く美桜はそれを口に含み、ゆっくりと笑った。それは本当に花がほころびてゆくような、闇に光が刺すような明るさで。


「甘い! ね、トール。これ、ちょっと甘いよ! 試してみて」

 

 幾千枚か幾億枚か、降り続ける花びら達を指差して言った美桜に、アホ、食い物じゃねぇだろ、腹壊しても知らねぇからなと、軽く拒否した僕の言葉は今もまだ僕自身を縛り付ける。ほんの一瞬陰りを帯びたあの時の美桜の白い顔。今もしも同じ事を美桜がその甘いアルトで言ったなら、僕はたとえ真冬でも地球の裏側までだって、桜を探しに行くのに。

 数分母親と電話を通じてやり合った後、美桜は肩をすくめて笑った。


「やんなっちゃう。今から三十分以内に帰って来ないと、もう瀧川君には会わせないだって。こればっかりは逆らえないや。そろそろ帰るね」


 桜並木の北側が美桜のマンション。南側が僕のマンション。いつも分かれる場所はそこだった。

 送ろうかと尋ねる僕に、美桜はいつもはにかんだように笑って首を振った。歩きながらも振り返って、お互いが家路に着くのを見届けられるから、と。


「明日は十時だよね? 遅刻しちゃ駄目よ、トール。映画十時半からだから」


 一年近く僕より早く生まれた美桜はいつも、どこかお姉さんぶる所があって。そんな彼女が僕はとても愛しかった。

 なのに。

 それなのに。


「何よ、その目つき! 私は絶対寝坊なんてしませんよーだ。あ、じゃあ罰ゲームしようよ。もし明日どっちかが遅刻したら相手の言うこと一個何でも言う事聞くの」


 それ乗った!と、指を鳴らす僕に、からから笑いながら美桜は言った。


「言っとくけどエッチ系なしだかんね!」


 大げさにがっくりと肩を落とす僕に、美桜は笑う。

 まるでエコーが聞いてるみたいに、何度も何度でもその楽しそうな声が手を叩く音が僕の耳には蘇る。


「それじゃ、明日ね!」


 待ってくれと、どうして呼び止めなかったんだろう。例えば待ち合わせを九時五十五分にしようとか、喫茶店じゃなくて駅の改札口にしようとか、今日はこのまま飲み明かしてしまおうとか。ほんの少しでも何かがどこかで変わっていたなら、美桜は。そして僕は。

 

 変わらなくてすんでいたのに。


 その日僕は振り返らなかった。何故? いつもあの細い後姿がマンションに入ってゆくまでを、目を凝らして見つめるのが日課だったはずなのに。だけどもし振り返ったら、きっと僕は美桜を呼び止めていたと思う。そんなのは後からいくらでも思いつく感傷なのかもしれないけど、だけど。


 あの夜美桜はあまりにも美しかったから。美しすぎたから、だから、予感がした。哀しい予感だった。

 

 薄紅色の花吹雪。降りしきるその中で、僕らはやがて手を振って踵を返す。花びらの絨毯が敷き詰められた地面の向こうには、家と、互いのいる明日があると信じて疑わなかったんだ。あの胸に見えない針を突き刺されたような奇妙な傷みも、明日美桜の顔を見たら消えるはずだったのに。



 何が一番悲しかったって、僕がその瞬間を、ただ喫茶店でコーヒーを飲んでいた事だ。暖房の効いたあたたかな店の中で携帯の時計を見て、罰ゲームを何にしてやろうかなんて、のんびり笑っていた事だ。

 窓の外からは道路を挟んで昨日二人で眺めた桜の大木達が集っていた。風もないのにおだやかな空の下、花びらはふりしきる。

 ひらり、ひらり。

 コーヒーを三杯と半分、それにMDウォークマンでアルバム分の曲。

 僕が愚かに過ごした時間だ。

 普段から早起きが苦手な美桜だった。それにしても遅いなと思ったのが十一時をとっくに回っていたのだから笑える。携帯は繋がらず、それでも僕は何やってんだ、あいつ。ぐらいにしか思っていなかった。

 突然鳴り出した僕の携帯の聞きなれた着メロが、静かな店内に鳴り響いた。着信は美桜。空虚な音だった。何かが圧倒的に欠けていたのだ。


「おい、美桜? おっせーよ、今何時だと……ぇ?」


 数秒後、高校で陸上部を引退してからほとんど駆使していなかったその両足を、僕は壊れてばらばらになるんじゃないかという程、走らせた。後ろの方でお客様、お勘定は、という声が聞こえた気がしたけど振り向きもしなかった。

 ひらり、ひらり。

 降りしきる花びらの向こうで美桜が笑って待っているような、気がした。



 白い布の向こう。死に顔は穏やかだった。今にも起き出して、遅刻の言い訳をし出しそうな。だけど青白い頬に手を伸ばすと、一気に事実が喉にこみ上げた。

 ――美桜は死んでいる。

 だって氷の方がまだきっと暖かい。

 美桜の両親の嗚咽する声が霊安室にこもる。夜の闇が凝縮されたような場所だった。

 トラックにはねられた美桜の顔にも身体にも、ほとんど傷はなかった。やられていたのは頭だった。

 ひらり、ひらり。

 僕の髪に付いていたらしい花びらが一枚、美桜の鎖骨のあたりに舞い落ちる。その瞬間だった。感情が、思考が、凍りついていたかのようだった僕の目に涙が溢れ出たのは。


「美桜――……約束だろ、罰ゲームだ。生き返れ。……生き返って、くれよ――……」


 だけど時は流れる。残酷に、滞ることなく、澱みなく。季節は巡り、新しい春が来ていた。

 僕は二十歳になり、ようやく美桜と並んだ。だけどもう、彼女がすぐに年上になる事はないのだ。僕がどんどん突き放す。それだけ。

 今年の桜も美しい。ただ去年一緒に歩いた人が、もう永遠に隣にはいない。それだけ。

 それだけなのに、花びらが一枚、揺れるだけで、僕は。

読んで下さった方、ありがとうございました!

私事ですが、この作品はほんま大好きな親友奈々に。彼氏とよりが戻る事を祈って。また四人でお花見行けたらええなぁ(>ヮ<)

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― 新着の感想 ―
[一言] とても素敵なお話だと感じました(*´∇`*)他の作品も読ませて頂きますね。
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