好きな人がいてもいいから付き合ってくださいと言って、交際を初めた嘘つき男子大学生の末路
「ごめん。俺には、もう……愛衣ちゃんと……一緒にいられる勇気がないです」
彼女が住む二階建てのアパートの前。
ようやく絞り出した俺の言葉に、彼女は目を見開いた。
「どういう……意味?」
戸惑いに揺れる声を無視して、俺は何も説明しないまま、握り締めていた彼女の部屋の合鍵をその手に押しつけた。
「ねえ、どうしたの?」
「本当に…ごめん、ごめんなさい」
「水斗君?」
「ごめんなさい……俺は……嘘つきだ」
ぽかんと小さく口を開けたまま立ち尽くす彼女の姿を置いて、踵を返し、彼女が声をかけてくる暇すら与えないようにその場からさっと走り去った。
どれほど走ったのかわからないくらいで、息が切れ、つい足を止めてしまう。
彼女が追いかけてくるはずなんてないのに。それでも、ほんのわずかな期待を抱きながら振り返る。もし追いかけてきたら、謝ろう。謝って、また彼女のために尽くそう。
例え、彼女が俺以外の男性を愛していても。
だが、振り返った先に彼女の姿はなかった。そんな都合のいい話があるはずもない。
⭐︎⭐︎
「俺と付き合ってほしい……です」
人気のない大学の講義棟の裏手にあるベンチに座る同じゼミの彼女。その彼女に俺はたった今、告白をした。せわしなく鳴き続ける七月の蝉の鳴き声が遠くなっていく。
彼女は塩義愛衣。ゼミ内ではよく話す。
とはいえ、もともと口数が少ない塩義さんに普段は俺が一方的に話しかけているという具合で、内心では面倒くさいと思われている可能性だって十分あった。
だからこの告白も半ば記念みたいなものだった。期待はしていなかった。
「私、好きな人がいるんだけど」
大きな切れ長の瞳をぱちりと瞬かせながら、彼女は立ち尽くす俺を見上げた。
整った顔立ちは相変わらず涼しげで、その表情から感情は読み取れない。
「こないだ告白したばっかで……まあ振られたんだけどさ」
「あ…えと……ごめん」
なんとか謝罪を口にしたものの、その先が続かない。
慰めるべきなのか。何か気の利いたことを言うべきなのか。
答えが見つからず、俺は口を開いたり閉じたりすることしかできなかった。そんな情けない俺を見て、塩義さんは淡々と言った。
「謝罪はいらないんだけど、失恋した私に躊躇なく告ってきた速水くんに訊きたい」
そう言って立ち上がった彼女は、肩の上で揃えられた髪をさらりと揺らしながら俺に一歩近づく。
「私は速水くんの告白を受け入れて、あの人から離れるべき?それとも諦めずにあの人にもっと近づいていくべき?」
「それは…」
「ちなみに前者の場合でも、私はあの人のことを好きである気持ちはちょっとやそっとでは消えないと思うし、チャンスがあれば速水くんを捨ててあの人の元にいくかもしれない」
試されているのか。それとも諦めろと言われているのか。どちらにせよ、俺の気持ちは変わらなかった。
本気で好きになってもらえなくてもいい。ただ少しでも近くで、できるだけ長く彼女を見ていたい。
その権利が欲しかった。
ただ、それだけだった。
「塩義さんに好きな人がいても、俺はかまわないないよ。それに、付き合ってもらえるなら……そうしてくれるだけで、すごく嬉しい」
塩義さんは不思議そうに首を傾げる。
「私、デートとかしないよ」
「うん」
「面倒だし、その時間があるなら家で漫画を描いていたい」
「それでもいい」
「あとエッチもしないから」
「いらない」
「じゃあ、最後に訊くけど。速水君には何一つメリットがないと思うのだけれど、それでもどうして私と付き合いたいの?」
その問いに対する答えは口からさらっと出た。
「俺はただ、塩義さんを誰よりも近くで見ていたいだけ。その権利がほしいだけ」
だいぶ気持ちの悪い発言をしているのは自覚している。だが撤回する気はない。本心なのだから。
「だからデートもいらない。セックスもいらないし、キスだってしなくていい。それでも漫画は応援したい。だから邪魔はしないし、なんなら頑張って、塩義さん漫画がたくさん描けるように役に立つから」
恥ずかしさから早口になってしまったが、伝えたいことを全て伝えると塩義さんはくすりと笑った。
「速水くんって、私より変わってるね」
「変わってるのはだめ?」
そう返すと、塩義さんは少しだけ眉を上げた後、目を細めて笑った。
初めて彼女の笑顔を見た。
真顔ですら見惚れるほど綺麗なのに、彼女の笑顔は息を呑むほどに、形容し難いくらいに魅力的だった。
そんな彼女の笑顔を見た瞬間、俺は確信した。
何があっても、この人と付き合いたい。
「変わってるのがだめなら、まともになるよ」
「いやいや」
彼女は笑みを残したまま首を横に振る。
「変わってないと、私を好きになるのは無理だと思うよ」
「てことは」
「まあ速水くんと付き合って、漫画一筋だった私に戻るのもありかもね」
こうして大学二年の七月二十八日。俺は幸運にも塩義愛衣と付き合うことになった。
そして三日後の彼女の誕生日から、俺は一人暮らしをしている彼女のアパートへ押しかけ女房のように可能な限り通い詰め、勝手に世話を焼くようになる。
⭐︎⭐︎
告白してから一年、愛衣ちゃんから振られることなく、まだ恋人という関係を維持していた。
そんな関係をフルに活用して、一年前の彼女の誕生日以来、アルバイトのない日は許可をもらって彼女のアパートへ通い続けた。
掃除、洗濯、料理。最初こそ遠慮されていたものの、今では合鍵まで預けてもらっている。愛衣ちゃんが不在の日でも部屋に上がり、家事をこなすのが当たり前になっている。
少しでも彼女に自由な時間を作ってほしい。
少しでも長く漫画を描いてほしい。
それが愛衣ちゃんの彼氏として、誰よりも近くで彼女を見つめるための対価だと思っていた。
だが実際は足りないくらいだった。
愛衣ちゃんは漫画を描く時、百面相をする。嬉しそうに笑ったかと思えば、次の瞬間には眉間に皺を寄せる。悲しそうな顔をしたり、悔しそうに唇を噛んだりもする。きっと漫画の登場人物になりきっているのだろう。
大学では決して見せない表情。
誰も知らない愛衣ちゃん。
そんな彼女を、家事をしながらこっそり盗み見る時間が好きだった。そんな瞬間は、自分だけが彼女を独り占めしているような、そんな錯覚に浸れた。それだけで胸が満たされ、幸せなのだ。
そんな愛衣ちゃんは今日、二十一歳の誕生日を迎える。当の本人は用事があるからと朝から出かけている。
詳しい用事は聞いていないが、夜には帰ってくるらしいので、二回目の二人きりの誕生日会をしようってことになっている。俺は今朝から愛衣ちゃんが不在の部屋に上がり、張り切ってご馳走を作った。
プレゼントも用意した。あとはケーキを取りに行くだけ。
喜んでくれたら嬉しいな。そうしたら、もう少しだけ、愛衣ちゃんを独り占めできる気がするから。
⭐︎⭐︎
ケーキを受け取り、店を出た瞬間、車道を跨いだ反対側の歩道で愛衣ちゃんがあの人と手を繋いでいるところを見てしまった。
あの人、それは愛衣ちゃんが片想いしている俺たちの大学の卒業生である二つ上の先輩。
名前は八宮律という。
二年前、漫画同好会の代表になった八宮先輩は、当時一年生だった愛衣ちゃんの漫画を読んで惚れ込み、自ら声をかけた。
そこから二人は親しくなり、一年間、友人として交流を重ねるうちに、愛衣ちゃんは彼に恋をした。
実際、一度だけ八宮先輩と会ったことがある。愛衣ちゃんと大学構内を歩いていた時だった。俺を忘れて、八宮先輩と話し込む愛衣ちゃんは頬を赤くして、終始笑っていた。
でもその時、先輩の隣には恋人らしき女性がいた。だから大丈夫だと思っていた。
この先輩の隣りは既に埋まっていて、愛衣ちゃんが入る余地はない。だから愛衣ちゃんが俺を置いて先輩のところへ行くことはないと勝手に安心していた。
今、八宮先輩の隣にいるのは愛衣ちゃんだった。その愛衣ちゃんは笑っている。恋する女の子そのものの顔で、心の底から幸せそうに先輩だけを見つめて。
俺といる時には見せない笑顔で、漫画を描いている時とも違う笑顔で。
胸が締めつけられる。
いつかこうなるのは分かっていたし、覚悟もしていたはずなのに。そもそも最初から、その可能性を受け入れた上で付き合ったはずなのに。
俺はただ都合の悪い現実から目を逸らしているだけだった。
そして現実を目の当たりにして、俺は八宮先輩に嫉妬している。そして同時に、愛衣ちゃんにさえ苛立ちを覚える。
だがそんな自分を醜く、悍ましく思う反面もあった。愛衣ちゃんの幸せを願っていたはずなのに、その幸せの相手が自分ではないと思い知らされた瞬間、心が濁っていくのがわかった。
もう彼女のそばにいてはいけないと思った。
俺はケーキの箱が入ったビニール袋の持ち手を握りしめながら、踵を返した。
早歩きで街からアパートに向かう中、現実をかき消すために今まで見た自分だけの愛衣ちゃんの表情を思い出した。でもそれらの表情も、自分だけに向けられたものではないと現実を思い知らされると、息の仕方さえ忘れるくらいに苦しくなった。
帰宅後、俺はケーキを冷蔵庫に入れ、リビングのローテーブルの上にメモを残した。
それから彼女の家にある数少ない私物を、プレゼントを入れてきた紙袋に詰め、すぐに部屋を飛び出た。
もうここは俺のいるべき場所ではないと、そう思ったから。
⭐︎⭐︎
夕星が淡い群青の空に光輝き出した頃、愛衣ちゃんは帰ってきた。
アパートの前で立ち尽くす俺を見つけると、眉をひそめ、小さく首を傾げる。
「何をしてるの?」
俯いていた顔を上げ、視界に愛衣ちゃんを入れるが、すぐに全体が滲んですぐに顔を引っ込める。
喉が塞がったように言葉が出ず、立ち尽くすしかできない俺に彼女は何も知らないまま手を差し伸べてきた。
「早く部屋に入ろ」
その手を取ろうとした。取ってしまえば、きっといつも通りになれる。手を伸ばしながら、顔を上げて再び滲んだ視界に愛衣ちゃん入れる。だがその瞬間、昼間に見た八宮先輩へ向けられていた、愛衣ちゃんの笑顔が視界の中に映る愛衣ちゃんと重なる。
胸の奥が掻きむしられるように痛む。
そして怖くなった。このまま隣にいて、自分がもっと醜くなってしまうことが。
「ごめん。俺には、もう……愛衣ちゃんと……一緒にいられる勇気がないです」
ようやく振り絞って出た俺の言葉に愛衣ちゃんは目を見開く。
「どういう……意味?」
俺は戸惑う愛衣ちゃんの手に、握っていた愛衣ちゃんの部屋の合鍵を押し付けた。
「ねえ、どうしたの?水斗君」
「本当に…ごめん、ごめんなさい」
「水斗君?」
「ごめんなさい……俺は……嘘つきだ」
そう言い残して、俺は彼女からも、自分からも逃げた。
⭐︎⭐︎
愛衣ちゃんの誕生日から一か月が経った。俺はあの後すぐに彼女のSNSをブロックして、連絡先を消した。
たったそれだけで愛衣ちゃんとの恋人としての繋がりはなくなった。
彼女を想起させるものも身の回りにはない。あげたものしかなく、もらったものはない。もらったものであると強いて言えるものは、彼女との思い出のみ。
それを鑑みると、いかに自分勝手な振る舞いをしていたかよくわかった。
夏休みはまだ三週間ばかり残っている。その間、俺は愛衣ちゃん会わなくて済む。たぶん彼女は俺を軽蔑しているだろうから、ゼミで会っても話しかけてはこないと思う。
これでいい。そう自分に言い聞かせるとふと、一年前の自分の言葉が蘇った。
── 塩義さんに好きな人がいても、俺はかまわないないよ
この約束を盾にして、俺は彼女の隣にいさせてもらっていたはずだったのに、結局最後まで守れなかった。それなのに、今でも愛衣ちゃんを好きでいることがどうしようもなく苦しかった。
そんな時、ゼミの後輩である八幡めぐるからSNSにメッセージがきた。
『塩義先輩を振ったってガチですか?』
『振ったっていうか。まあ別れたよ。てか誰から聞いたの?』
『チカちゃん。速水先輩と話しした時に振られたって塩義先輩が言ったらしいですよwwww』
『笑いどころではないんだが』
『まあまあwwてか先輩、今日空いてます?』
『空いてるよ』
『じゃあ飲みに行きませんか?先輩、今日誕生日ですからね』
『あ、忘れてた』
『自分の誕生日忘れるって、どんなだけへこんでるんですかw』
『うるさい』
『仕方ないから、誕生日と失恋の慰めを兼ねて、あたしが奢りますよ!どうすか?めっちゃ良きでしょ?』
正直乗り気じゃなかった。アパートから出るのも億劫で、断ろうかと思った。でもお酒の力に頼って、一回自分を壊してしまえばどうにかなるのかもしれない。
そんな自暴自棄な気持ちで後輩の女の子と飲んだ。彼女が自分に好意を寄せているのも知っていたけど、どうでも良かった。
そしてその夜、俺は八幡と寝た。
⭐︎⭐︎
目の前のベッドに腰掛けた八幡は、大きな丸い瞳を細めながら頬を膨らませている。
そんな彼女は白のワンポイント入りオーバーサイズのTシャツに、黒の紐パンだけという姿。ブラをつけていないせいで、ふっくらとした胸の輪郭がはっきり浮かび上がり、視線がどうしてもそこへ吸い寄せられてしまう。シルクのように白く滑らかな生足も、目の毒だった。
「先輩サイテー」
俺はこれ以上過ちを繰り返さないために視線を彼女のつま先へと移す。
「ごめん……意識はあったのは、うん、間違いない」
「まあいいですよー。だってあたしぃ、そういう先輩の正直なところが好きだったりするんだよなあ」
ベッドに座る八幡の前で、床に正座をしている俺をにたりと笑う。
「ねえ、先輩。あたしたちって身体の相性はバツグンにいいじゃないすかあ?」
「……何がいいたいの?」
「やっぱ先輩って、塩義先輩なんかじゃ物足りなかったんじゃないかなあって。まだ塩義先輩のことが好きだからって言っても、身体は正直だったし」
昨日、生大を五杯くらいまで飲んだところまでは記憶があった。その次に意識が戻った時には八幡の部屋のベッドの上にいて、いつの間にか服を脱がされ、豊満な胸と硬くなったピンク色の先端を晒した八幡が、俺の両手首を掴んで跨っていた。
そこからは流れに流され、挙げ句の果てに意識が少しずつ戻っていった。
その時の光景が鮮明にフラッシュバックし、顔が熱くなっていく。同時に下半身も。
「でも飲みに行ったのは、そういう目的じゃないから……」
「ええー、あたし一人が悪者ですかあ?」
「意識が戻った時、俺はだめって言った…それなのに…やめてくれなかった」
「よく言うなあ。最後の方、先輩からしてたじゃないですかあ。しかも結構激しかったし」
言い返せない自分が浅ましい。一体俺は何をやってるのだろうか。
「んで、先輩っ!重ね重ね言いますけどね……」
「はい…」
「あたしと付き合ってくださいっ!」
ベッドの上で土下座をする八幡は必死だった。思わず苦笑しそうになった。
「あたしは塩義先輩と違って、速水先輩に尽くしますっ!なんでもしますっ!なんだったら生涯養いますから!」
「いや、あの、これ以上はやめて……なんか余計に罪悪感が膨れ上がるから」
確かに八幡は俺に尽くしてくれるかもしれない。愛衣ちゃんが与えてくれなかったものも、八幡ならいっぱい与えてくれるかもしれない。
でも今俺がほしいのは、愛衣ちゃんのあの特別な表情を独り占めできる権利だけだ。その欲望の火は、まだ小さくもならない。
「ごめん。やっぱり、無理だよ」
俺の言葉に、八幡はへなっとベッドに崩れ落ちた。その姿を見て、もう一度深く頭を下げる。
「期待させて本当にごめんなさい。やっぱりどうしても塩義さんのことが忘れられないんだ」
ほんとにごめんなさい。と顔を上げて、目の前で手を合わせた瞬間だった。八幡の表情は落胆の表情から一変した。ぱんっと手を叩きに、そうだ!っと良策が閃いたのか、にやっと両方の口角を上げた。
「だったらさ、先輩」
「ん?」
「いっそのこと、ちゃんと振られたら?」
「え?」
「中途半端に終わらせてるから正しい判断ができないんですよ!あたしと付き合うっていう好機を見失なうんですよ!」
「いや、好機って」
「好機ですよ!自分で言うのもどうかと思うんですが、先輩に対して寛容で、尽くして、しかも結構可愛い部類で、そんな都合のいい女の子を独り占めできるんです!これを好機と言わず、なんと言うんですか!?」
確かに言っていることは間違いない。
愛衣ちゃんとは正反対で、親しみやすい可愛らしさがある八幡。ゼミの活動中も明るく、人懐っこい彼女はゼミ内においては男女ともに人気だ。
性格だけでなく、もちろん容姿もいい。肩にかかるブラウンのミディアムヘアの髪は艶やかで、さらに人の心を虜にするような大きな丸い瞳、薄い上下の唇……は意識せざるをえない。
「八幡…俺は…」
「とにかく善は急げだ!」
俺の話を遮った八幡はベッドから降り立ち、俺の腕を掴んだ。
「ちょいちょいっ!えっ、正気か!?」
「正気です!早く塩義先輩ん家行きましょうっ」
「はっ?」
「白黒はっきりつけてもらいましょ!んで、あたしと付き合ってくださいよ」
「そんな無茶苦茶なあ!」
そんなことを言いながら、一時間後、俺は愛衣ちゃんと一週間ぶりに彼女のアパート前で再会した。
⭐︎⭐︎
「で、なんの用?」
感情の読めない無表情を浮かべる愛衣ちゃんを見て、彼女の隣に俺が居られる権利はもうないのだと気づかされる。
自分で捨てた権利の偉大さとその未練の大きさを改めて思い知らされて、漠然とした焦燥が胸を刺す。そのせいで口から水分を奪われ、言葉を口から出せずにいると、隣にいる八幡が先に口を開いた。
「あの、塩義先輩」
「なに?」
「用があるのは、あたしで…」
「だから、なに?」
八幡は真っ直ぐ愛衣ちゃんを見つめて言った。
「速水先輩をくださいっ」
俺は否定できなかった。違う、と言うべきなのに。まだ愛衣ちゃんが好きだと叫ぶべきなのに。
水分を失った喉が張り付いたみたいに口が動かない。
「そう…そう言うこと」
愛衣ちゃんはため息をつきながら、顔を伏せる。
「急にいなくなって、連絡もつかなくなって。久しぶりに私の前に現れたと思ったら、八幡さんとやけに親しげにして」
そう言って顔を上げた愛衣ちゃんの表情は初めてみる表情だった。
切れ長の大きな瞳は水の膜で覆われて、瞬きをすると目尻から頬へ涙が輝きながら軌跡を残して伝っていく。
初めて見た愛衣ちゃんの哀の表情は、間違いなく俺に向けてのものだった。
そしてあろうことか、この期に及んでも、俺は愛衣ちゃんがこうした外では見せない表情を自分にだけ見せてくれることに高揚感と幸福を感じている。
謝ろう。遅いかもしれないけれど、精一杯謝ろう。
「愛衣ちゃん、俺──」
「気安く愛衣ちゃんって呼ばないでっ!」
鋭い声が胸を貫いた。初めて見た激昂する愛衣ちゃんの表情も俺だけに向けられたものだが、今度は警鐘が鳴り響いた。早く謝らなければと言葉を探すが、そんな隙を与える暇もなく愛衣ちゃんは口を開いた。
「私といたって、セックスどころか、デートもできなかったもんね。でも、そか。よかったね。八幡さんとなら、そういうことできそうだもんね」
「待って!俺はっ」
「言い訳なんてしなくていいわ……そうね。私だって、水斗君を責めれるような立場にないもの。水斗君の恋人でありながら、私は違う男を好きでいて、あろうことか二人きりで出かけて、手を握った。水斗君にはしてあげなかったことをした。だから、お互い様よね」
「最初からその前提で付き合ったじゃん!今日、俺は愛衣ちゃんを責めるようなことを言いにきたわけじゃないよ!」
「じゃあ何を言いたくて八幡さんとここに来たのよ!?」
言いたいことはただ一つだった。
「ただ……ちゃんと謝りたかった」
ごめんなさい。もう一度、側に居させてください。
これだけだった。
そのはずなのに、愛衣ちゃんをまじまじと見つめた瞬間、彼女の隣にあの人の幻影が見えたのだ。あぁだめだ。そう思う時には、既に俺の中にあの日感じた嫉妬や嫌悪感がまた沸々と生成されていった。
そして俺は自分を抑えきれなくなった。
「でも、もう…そんなこと、意味がないってよくわかった」
「どういうこと?」
「今まで愛衣ちゃんには何も望まず、ただ尽くした。なのに他の男の人と手を繋いで、俺に向けてくれたことのない笑顔を向けてるのを見て、気づいたんだ。最初からそれを了承して付き合ってたつもりだけど、俺はそれを良しとしていなかったってことに」
俺は八幡の手を取る。ぴくりと愛衣ちゃんの肩が震えた。
「本当は尽くされたい。ずっと俺だけを見てほしい。デートもセックスもしたい。だから愛衣ちゃんといるのは正直意味がないってわかったんだ」
「ちょ、何を言って──」
「一年間、好きな人がいるのに、俺のわがままに付き合わせてごめんなさい。これからはあの人…八宮さんと、堂々と手を繋いで、笑顔を向けてほしいから、俺は、ちゃんと愛衣ちゃんから離れるから。だから…幸せになってください」
じゃあこれで。と八幡の手を引いて、最後に愛衣ちゃんの横を過ぎ去ろうとした瞬間だった。
「待って…待ってよ…」
微かに聞こえた愛衣ちゃんの寂しさのこもった声が聞こえた。だけど俺は振り返らず、八幡に構わず歩行速度を上げていく。
その代わりにひしひしと自分への情け無さと後悔が湧き上がってくる。
その苦しみから耐えるように俺は八幡の柔らかく小さな手を力強く握った。
やっぱり俺は嘘つきだった。
今この瞬間も、愛衣ちゃんの、その人前では見せないいろんな表情を独り占めしたいと思っているのに。
追いかけてきて、彼女が俺にあの特別な笑顔を向けてくれたら、俺は都合の良い彼氏でもいいから、愛衣ちゃんの側に居たいと思っているのに。
まだまだ未熟者で勉強中ですので、おかしい点や不明な点、また誤植、誤字、脱字があればぜひ教えてください!
あ、友達のように気軽に教えてくださいね!
もし仮に、上記に当てはまらず、純粋に良かったと思っていただいた場合はお星様★★★★★をお願いします。
めっちゃ喜びます(๑˃̵ᴗ˂̵)
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