9.孤高
車で走ること四十分ほどでオクルスの支配区域にある劇場へと到着した。車を劇場裏の駐車場に停めて玄関を訪ねる。表には休館日の掲示がしてあったが、スタッフに用件を告げてエナからの挑戦状を見せるとすぐに中へ通してくれた。エナはホールで待っているという。
観客の入らない劇場のホールのすり鉢状の底の舞台に、エナが佇んでこちらを見ていた。さらに観客席の最前列にはユアンと彼の護衛らしき人物が座っている。よく見ると護衛は先日、邸で僕の付き添いをしてくれた青年だった。
僕ら三人は観客席の間の通路を通って、舞台へと近づいていく。最前列付近まで来たときに、僕は思わず声を発した。
「ユアン、どうしてここに?」
「――わたしがボスを呼んだの」エナが舞台の上から声を発した。その声の響きには、どこか感情的なものが混じっているように感じられる。「どちらの歌が優れていて、ボスの庇護を受けるのにふさわしいか判断してもらうためよ」
「エナ、だから、オクルスとしても俺としても君を後援することはすでに決めているんだ」
ユアンが困ったように言うが、エナは聞こうともしない。
「わたしは、いちばんの歌姫になりたい……! たとえボスにだって同情や哀れみで後援してほしくないんです。もしもわたしを超えるほど歌が上手い人がいるなら、その人が後援されるべきです。――この勝負は、わたしのプライドの問題でもあるんです」
そう言うエナの目は真剣だった。僕はそっとリュートの様子をうかがう。彼は意外にも冷静な表情でエナを見つめていた。いったい何を考えているのか、リュートの感情は読めない。
――この子もちょっと変わった子だな……。
そう思いつつも、とにかくリュートが怯えていないことにほっとしながら僕はエナに向き直った。
「あの、本当に僕は後援とか必要ないんです。君のように歌手として活動する気もないし。勝負なんかやめませんか?」
「いやです! あなたと勝負するの……!」
今日はいやに感情的だったエナの声が、いっそう強く怒りを帯びる。その様子に僕はわずかな違和感を覚えた。エナは確かに勝気な少女だが、歌姫として人気を得たということは頭がいいはずだ。少なくとも自己プロデュース力は持っているだろう。歌姫としての評判にも関わるだろうに、彼女が必要以上に感情的な揺らぎを見せるのはなんだか妙だ。
「エナ、我ままを言うな。ルイを困らせるんじゃない」
ユアンがたしなめるような声を発した。やや圧がある、けれどダイナミクスは含まれていない声音。あくまでエナ向けに手加減している。ユアンはちらりとこちらへ目を向けた。いつもの色つきの丸眼鏡のせいで視線が合うことはないが、いったん任せろと言いたげな雰囲気を感じる。僕が小さく頷くと、彼はふたたびエナに向き直った。
「オクルスの支配区域に住む者は、皆、俺の身内だ。ボスっていう身分を得ても俺にできることは少ないし、皆を救うことはできないんだろう。でも、できる限りのことをしたいと思ってる。――俺はお前の歌がいちばん優れているから、価値があるから後援するわけじゃない。皆に歌を聴いてほしいっていうお前が思ってるから、手助けするんだ」
「うそ、うそ、うそ!」
エナは顔を歪めて叫んだ。まるで駄々をこねる子どものようだ。僕はとっさに便利屋時代に身につけた感知系のギフト<セレンティエ>を発動させた。そうして、エナから伝わってくるダイナミクスに息を呑む。彼女のダイナミクスは極端にSubに傾いていたのだ。さながら、僕やユアンのような首領クラスのギフトを積んだ者の正反対といったところだろうか。かといって、周囲にいるDom性の強いユアンや僕のダイナミクスの影響を受けている様子もない。
周囲に人がいるのに、まるで無人の空間に一人で立っているかのよう。僕が<セレンティエ>のギフトを手に入れてからもう十年近く経つけれど、今までこの島でそんな状態の人間を見たことはなかった。Domの性質が強い者、Sub傾向の者、いずれにせよ周囲のDomやSubからいくらかはダイナミクスの影響を受けながら生きているものだ。今のエナの状態は究極の安定と言えるだろうか。けれど、他人の影響を受けていないはず彼女の中では、しかしダイナミクスがぐらぐらと不安定に揺らいでいた。
――この状態……覚えがある……。
僕ははっとして顔を上げた。そのとき、リュートが叫ぶ。
「皆、エナから離れて。ダイナミクスが暴走しそう……!」
「暴走だって?」リュートの言葉にユアンはエナの方に顔を向けた。「これまでのエナにそんな兆候はなかったはずだ。昨日、顔を合わせたときも」
と、そのときだった。舞台の隅に控えていたバンドの一人が「そういえば」と声を発する。
「エナはボスが余所のクランの人間にタイピンを与えたと知って、新たなギフトを積むことにしたんです。皆を歌でより深く魅了できるようにって。オクルスの庇護を受け続けるには、そうする必要があるんだって思い詰めてたみたいで――」
だとすれば、エナが新たなギフトを積む処置を受けたのは昨夜のことだろう。
ギフトは基本的に化学的処置で――つまり、薬剤を服用することで身に着けることができる。さまざまな成分の配合の差によって得られるギフトの種類や強さも変わるが、強力なギフトほど副作用が大きい。発熱したり、気分が悪くなったり、薬疹が出たりすることもある。さらにギフトが身体に適合しなければ、最悪、ダイナミクスが狂って廃人になったり、生命を落としたりすることもあるほどだ。
「っ……じゃあ、エナの状態は新たに身に着けたギフトの副作用ってことか。バカな真似を……」
ユアンは鋭く舌打ちする。と、僕の傍らにいたリュートが「違うよ」と声を発した。
「エナはバカなんじゃないよ。<天使>は何も持たないから、無条件に愛してくれる家族もいないから、だから、自分の得たものを失うのが怖いんだ」
不意にリュートは僕の傍らから舞台上に向かって走り出した。慌てて引き留めようとするが、彼は戦闘系のギフトも積んでいるのか、反応が遅れた僕には止めることができない。あっという間に彼は舞台の上に駆けあがってしまった。「エナ」と呼びながらリュートは彼女に手を伸ばす。肩に触れようとする。
――まずい。
舞台の上にたたずむエナの周囲で、ダイナミクスが強く渦巻く気配を感じた。DomからもSubからも影響を受けず、また何の圧力も与えない状態のはずのエナ。DomとSubのダイナミクスというのは、結局のところ人間同士の間にある見えない関係性のようなものだ。けれど、エナの周りに渦巻いているそれはまったく違う――いわば孤立そのものが発する圧力みたいだ。
エナの『孤立』の力がリュートに向かって動き出す。レオが動きかけたが、僕はそれを制した。相手のギフトが不明なため、下手に攻撃すればこちらが傷を負いかねない。僕は舞台に向かって走りながら、とっさにユアンに叫んだ。
「ユアン、援護してください! エナに向けて<グレア>を!」
視界の片隅で、ユアンがわずかに戸惑う素振りを示したのが見えた。けれど、彼はすぐに思い直したようで、丸眼鏡を外して舞台へ顔を向ける。ふわりとユアンの発する空気が重くなった。けれど、二日前にジスを処断したときとはまったく圧力が違う。エナに向けて<グレア>を使うということで、出力を慎重に抑制しているらしい。
「エナ、<stop>」
ユアンのコマンドがエナへと発せられる。エナはそれに対して、メロディの一節を歌うことで返した。バチリ。ユアンのDomのダイナミクスとエナの発する『孤立』の圧力が二人の間でぶつかって、感覚に不協和音を訴える。いくら出力を抑制したとはいえ、ユアンほどの強いDomの力、それもギフトを通したコマンドを打ち消すほどの力は並大抵ではない。もうエナの孤立の圧力そのものがギフト――<ソリュテード>――だと言えるだろう。
何の防御もなしにエナの孤立の圧力を食らって気絶するならまだいい方。最悪、精神的負荷で心神喪失してしまうかもしれない。僕は舞台に飛び乗って、リュートの手を掴んだ。エナがこちらへ顔を向け、口を開く。僕はとっさに<フェリガ>を発動した。すっと透き通る羽根が僕の背に現われる。リュートを腕に抱くようにして守りながら、その羽根で自分とリュートを包んだ。エナの歌に込められた<ソリュテード>の圧力が、幻影の羽根に阻まれる。
数十秒、<ソリュテード>と<フェリガ>のギフトがせめぎ合い、空気中でパチパチと静電気が音を立てた。少しでも押し返せば、エナを傷つけてしまうかもしれない。




