1.過去の夢
そこは光にあふれた庭園だった。
大人たちの目を盗んで抜け出した僕は、そこで友達を待ちながら歌っている。歌詞は知らない。こんな歌が実在するのかさえ。この<天使>の邸で僕たち<天使>に与えられるのは、必要と判断される教育のみ。絵や歌や物語や……不要と判断された娯楽には一切触れさせてもらえない。だから、いつか偶然に聴いた誰かの歌を、正しいかどうかも分からずに歌う。親友は僕の歌が好きだから。
いつもなら昼下がりのこの時刻、友達は僕に会いにくる。しかし、今日は違った。彼は現れない。
温かな光あふれる庭園は、日が傾いて茜色に染まりはじめる。
いったいどうしたんだろう。もう僕と遊ぶのは飽きたのだろうか。物語を与えられない僕のために、スケッチブックに絵を描いて、おとぎ話をしてくれた親友。続きは明日と約束した――それを破るような相手ではない。
――でも、でも、でも。もう僕と遊びたくないと思ったら?
何とか抑えつけていた不安が大きく膨らんで、僕は木陰から立ち上がった。そのときだ。どこかから怒声が聞こえてくる。
「放せよ! お前たちはあいつを閉じ込めてるんだろ! そんなの犯罪だ――」
親友の叫び声だった。
僕は慌てて声のする方に走っていく。木々が伸ばした小枝に引っ掛けて、腕や膝の服や破れ、細かな傷がついた。けれど、構っていられない。騒がしい外との境界の壁の辺りへ向かえば、そこに大人たちと友達の姿があった。友達は大人に取り囲まれながらも、怯えを見せず気丈に振る舞っている。
「家に帰ったら警察に通報してやる! お前らみたいな犯罪者、捕まってしまえばいい……」
そのときだった。大人たちの一人が友達を殴りつける。僕は木陰から飛び出して友達の前に立とうとした。
「やめてっ! この子を……リアンを傷つけないでっ……!」
「お前、泣き虫なのになんで出てくるんだよ……」
「だって、僕たち友達でしょ? リアンが友達でいてくれるなら、ぜんぶ我慢できるよ。怖いことも、苦しいことも、痛いことも」
けれど、僕らの抵抗は続かなかった。大人の一人が親友を拘束して地面に押さえつける。僕も複数の大人たちに囲まれ、無理矢理に腕を掴まれた。大人たちに引きずられながら、振り返って彼の名を繰り返す。彼は泥まみれになりながら、僕の名を呼ぶ――。
***
――誰……? 泣いてるのは……?
どこの子? 名前は? お父さんやお母さんか生まれたとき、名前をつけてくれたでしょ?
え? 親がいないの?
……そう。じゃあ……俺が友達になってあげる。名前、付けてあげるよ。俺が呼ぶための名前。
お前の涙はきれいだから……名前は、涙。
***
「――……イ……ルイ……起きて……、ルイ!」
騒がしい声で目が覚める。とっさに身を起こそうとして、僕はひどい頭痛に見舞われた。うぅ、とうめきながら再びベッドへ撃沈する。十年以上前の夢を見ていた。頭痛に身悶えているうちに、その夢の名残が搔き消えていく。
「また頭痛なの? どれくらいひどい?」
僕を覚醒させた声は落ち着きのある女性のものだった。彼女は確認しながら、枕に逆戻りした僕の頭を撫でる。その優しい感触に少しだけ癒された気がして、僕はゆっくり瞼を開けた。白い素っ気ない天井を背に、こちらをのぞき込むのは四十歳前後に見える女性――ローザだ。シンプルなTシャツの上から白衣を羽織っている。彼女の左首筋には羽根の形のタトゥが刻まれていて、白衣の襟の奥へと続いていた。
「ローザ……。大丈夫です。薬をもらえませんか? 今日の頭痛は薬で収まりそうです」
「薬を渡すのは構わないけれど。今のあなたは無茶をしすぎなのよ。身体に負担の掛かるギフトを積みすぎてる。そのせいで、Domのダイナミクスが不安定なの。少しギフトを減らして、負荷の軽減を考えなくてはね、ボス」
「無理しますよ。僕はもう守られる側じゃないから。ボスってそういうものでしょう?」
僕の言葉にローザは苦笑してみせる。
「そうね」
僕らの住む区域は、海上にあるとある島だ。人々はこの場を<アイランド>とか<天国>とか呼ぶ。定期的に遺伝子操作で生み出された被検体の子どもたち――<天使>が連れて来られる。親も名前も何も持たない彼らは、この島で初めて名と住む場所を得ることになる。
この島の住人の大半はDomやSubという性質を持つ。Domの性質の持ち主は他者を支配したり導いたりする傾向がある。逆にSubは支配を受けたり導かれたりすることで安心する性質だ。さらにこうした傾向は個人の特性ではなく、相手との関係や自身の状態、能力によって変動する。さまざまな法律や支配から切り離されたこの場所で生きるには、さまざまな力が必要だ。子どもたちは生きるために科学的、あるいは外科的処置によってギフトという特殊能力を手に入れるのだ。ギフトの組み合わせによってダイナミクスが変動し、DomやSubの性質として表れる。また、新たなギフトを身に着けたり、既存のギフトとの兼ね合いによって、DomになったりSubになったりするのだった。
さらに、島には人々が生き抜くために作り上げた組織――<クラン>がある。僕の属するクラン『インフィニス』は、初代の天使の一人であったローザが築き上げた。クランには抗争があり、ときに吸収されたり、壊滅させられたりするが、インフィニスはずっと生き残り続けた伝統あるクランだ。
創設者であるローザの方針の元、平和と慈悲を第一とするインフィニスの支配地域は、基本的に情勢が安定している。インフィニス独自のルールがあり、争いごとはボスが公平に裁定するため、暮らしやすい。そのため多くの者がインフィニスの名の下に集まっているのだった。
また、インフィニスは島に連れて来られた<天使>たちを積極的に受け入れもしている。彼らには能力次第で戦闘員になる道もあるが、市街地で商店を営んだり、畑を耕したりするという暮らし方も可能だ。そんなインフィニスの庇護下に入っても、環境がつまらないからとか様々な理由で出奔してしまう者も、たまに存在するが。
「――さぁ、鎮痛剤を飲むなら食事を摂ってからよ。起きて食堂に行きなさい」ローザが命じる。
「頭痛がひどくて食欲が出ないんです。先に薬が欲しい」
「だめ。あなたは鎮痛剤を頻繁に使っているでしょ。きちんと用法を守らないといけない。……先に食堂に行って、あなたの好きなオレンジを出してほしいと言っておくから」
「ありがとうございます」
妥協点として示されたオレンジに、僕はちょっと笑った。インフィニスに僕が加入したのは四年前だが、ローザとの面識そのものは十年前からある。彼女にとっては、僕はまだ十代の子どもみたいなものなのだろう。年齢差が十五歳近くあるからかもしれない。
ローザは先に部屋を出ていった。僕は頭痛と吐き気に酔いながらも、緩慢な動作で身支度を整える。パジャマを脱いでふと振り返ると、傍の僕の背中が映し出されていた。背中の全面に浮き出た羽根のタトゥーは、ローザからインフィニスのボスとしてのギフトを受け継いだときに現われたものだ。強力なギフトはこんな風に身体に変化をもたらす――それがそのままクランの首領としての地位を示すのだ。僕の場合は背中だから、衣服を脱がない限りは気づかれないが。
羽根のタトゥーを隠すようにして、シンプルなシャツとスラックスを身に着ける。およそボスらしくない身なりだ。本来、ボスとして人前に出るならば、威厳を示す必要があるためそれなりの衣装をまとう必要がある。けれど、今のところ僕はクランの幹部以外にボスとして顔を見せないことにしているから、問題はない。
僕は階下へ降りていった。
「おはようございます、ルイ。また島の外から輸入した娯楽本を読んでいて夜更かししたんですか?」
庭にいた使用人の一人がくすくす笑いながら挨拶をしてくる。彼らにとって、僕は以前と変わらず幹部の一人なのだ。
「あはは、とても面白かったから、途中で止められなくて」
本当は深夜までボスとして書類仕事をしていたからなのだが、明るく笑ってごまかしておく。
「ローザ様に叱られちゃいけませんから、程々になさってくださいね。……ああ、子どもたちも今日のあなたの講義を待っていますから、急いで」
「そうですね。早く食堂に行きます」
軽く会釈をして、僕は食堂へ急いだ。そこでは料理人が朝食の用意をしてくれている。小さめに切ったパンとオレンジ、それからヨーグルト。ローザが食べやすいものを出すよう、頼んでくれたようだ。遅くなったことを謝って、僕は朝食を済ませた。最後に頭痛薬を飲んで、しばらく料理人と雑談してから食堂を後にする。その頃には頭痛薬の効果で、ぐらぐら頭が揺れているかのような痛みと吐き気はかなり軽減されていた。




