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鏡に映らない君は

作者: 小娘
掲載日:2025/11/26

今月の短編です

 その日の朝は息苦しかった。小さな咳が出て、僕は嫌な気分で身体を起こした。風邪を引くのは嫌いだ。障子を開けると、日は昇ってまもなく、そよ風が心地良かった。山の麓での暮らしは何かと不便だけど、空気はよく澄んでいて、景色も都会よりはましだった。縁側に座って目を覚ますのが、僕の日課だった。


 いつも通りぼんやり外を眺めていると、どこかから風鈴の音が聞こえてきた。そういえば、もう夏が迫ってきているっけ。風鈴は小さい頃から好きだった。その可憐な音も、華奢な見た目も。よくこのじいちゃんの家に遊びに来ては、風鈴の下で氷菓を齧ったものだ。それも、遠い昔のことのように思える。事実に反して。


 懐かしい日々を瞼の裏に映し出していると、心が安らいだ。ここに来てから、夏を迎えるのは初めてだった。そういえば、まだあの風鈴はあるだろうか。探してみようかと思い立ち、僕は家の中に戻った。だけど、そのときに気付いたんだ。あの鈴の音は、家の外から聞こえてきているわけじゃないって。


 少し怖くなって、僕は音のするほうへと足を速めた。場所はすぐにわかった。押し入れだ。それも、僕が最初から風鈴を探そうと思っていたところ。中でぶら下げているわけでもなし、音が鳴るはずはない。なのに、押し入れの前に立った今、弱々しくてほんの少し不安を煽るその音は、確かにそこから聞こえてきていた。


 僕はゆっくりと襖に手を伸ばした。躊躇しなかったと言えば、嘘になる。だけど、このおかしな状況に置かれたまま気を揉みたくはなかった。僕は引き手に指を引っかけ、一気に押し入れを開け放った。それから、目の前の光景に意識を吸い取られたみたいに、呆然と立ち尽くした。


 女の子だった。高校生くらいで、着ているのは真っ白なワンピース。鎖骨の辺りまである黒い髪が、三角座りをした膝に垂れている。わかりやすすぎるくらい、幽霊じみた格好だ。片手で風鈴の紐を摘んで眺めていたその子は、僕に緩慢に目を移し、そっと風鈴を揺らした。氷が時折響かせるような、冷たくて軽やかな音が鳴った。


 一体、この子は誰なんだろう?何で人の家の押し入れに?僕は困惑して、じっとその子を見つめ返すことしかできなかった。すると、その子は当然のように中から這い出てきた。僕の前に立って、なおも目を逸らさない。僕はむせるように咳をした。その子は立つと頭一つ分くらい僕より小さいのに、奇妙な威圧感があった。僕が思わず後退っても、詰め寄ってくるだけ。風鈴を持った手を胸元に掲げているせいで、動く度に鈴が可愛らしく声を上げた。


 そうこうしているうちに、僕は壁際まで追い詰められた。女の子は無表情というより呆けたような顔をして、かつどうしても譲る気はないようだった。ただ、僕に危害を加えるつもりはないみたいだったけど。僕が身構えて怒らせていた肩の力を抜くと、その子は一歩後ろに退いた。そして、じっと僕を見上げたまま、風鈴を僕の顔の前に掲げた。戸惑いつつも、僕は風鈴を受け取った。女の子は満足したように微笑み、手を下ろした。


 わけがわからなかった。僕が麻痺したみたいに突っ立っているうちに、女の子はその部屋を出ていった。裸足で床を歩く子どもっぽい音がした。玄関に向かったわけじゃないらしい。好き勝手されても困ると思って、僕は慌てて後を追った。


 その子はさっきの縁側に座って僕を待っていた。両手を身体の横に突いて、真上を向いてぼんやりとしている。僕はその子が見ているほうに目を向けた。……ああ、いつもじいちゃんが風鈴を飾っていた場所じゃないか。僕が目線を下ろすと、女の子は半分くらい振り返って俺を見ていた。つけろってこと?


 夢でも見ているんじゃないかとは思った。けど、とりあえず、僕は風鈴をいつもの場所にさげた。どうせ、初めからこうするつもりだったから。もう一度女の子の様子を窺うと、その子は穏やかな表情を返してきて、それから、外の景色を眺め始めた。気が済んだらしい。


 さて、どうしようか。この子、何を当たり前のようにくつろいでいるんだろう?僕は用心深く女の子の隣に座った。女の子はさっきまでと打って変わって、僕には見向きもしなかった。僕はいくつか質問を投げかけた。どこから来たのか?ここで何をしているのか?名前は?何一つ、答えは得られなかった。ため息をつこうとしたら、また咳が出そうになった。それを飲み込むようにしながら立ち上がり、僕は朝食でも取ろうと台所に向かった。


 女の子は尻尾みたいについてきた。すぐ後ろをひたひたと歩く音がしたから、振り返る必要もなかった。僕は無視をされたわけだし、相手をしてやる必要はないように思われた。そこで、僕はその子に見向きもしないで朝食の支度を進めた。冷蔵庫にはろくなものが入っていなかった。僕は二つ残っていたうちの片方の卵を手に取った。卵かけご飯で十分だ。


 僕が食べ始めると、女の子は僕の正面に座って、じっとこちらを観察し始めた。気まずい。さすがに無視しきれなくて、僕はお腹が空いているかと尋ねた。その子はかろうじて首を振った。意思疎通ができることが確かめられただけましかもしれない。


 僕はもう少し質問を重ねてみた。ずっとここにいるつもりか?その子は頷いた。誰も君を心配しないのか?また頷く。何故?無反応。どうも、口を利くつもりはないみたいだ。僕は少し考えた。やっぱり、どう考えてもおかしい。ともすると、もう一度寝れば、普通の朝が始まるかもしれない。


 そう思って、僕は飯を掻き込んだ。勢い余ってむせそうになったけど、息は鼻からか細く飛び出しただけだった。皿を無造作に流しに置いてから、僕は寝室に使っている部屋に向かった。まだ布団は片付けていなかったから、そのまま横になった。女の子は枕の傍に座った。覗き込まれると寝づらいけど、僕は何とかその子を気にしないようにした。目さえ閉じてしまえば、あとはそこまで気にならなかった。そうして、眠気が舞い戻り、僕の意識は深く沈んだ。


*


 目が覚めた。少し暗い気がする。日が落ちるくらいまで寝ていたのか……なんて思いながら目を開けて、僕は思わずぎょっとした。まだそこに女の子がいた。障子の前に座って、日光を遮っている。風鈴の音を聞くみたいにそっぽを向いて。僕はその子から身を引きながらゆっくりと身体を起こした。まだ昼だった。


 僕がたじろいでいるのを、女の子はきょとんとして眺めていた。僕が目を擦ってからもう一度見てみても、同じ顔つきをしてそこにいた。とにかく、この子がいるのは現実らしい。僕はしたくもない咳をしながら考えた。いい加減、交番にでも行くべきなんじゃないか?


 僕は一度頭をすっきりさせようと思って、顔を洗いに立ち上がった。すると、女の子もやっぱりそうした。何でついてくるんだか。そう思いながらも流しのところに向かった。置きっぱなしの皿が、しつこくこれは現実だと指さしてくるみたいだった。僕は髪まで濡らす勢いで顔を洗い、近くにあった布で水気を拭いた。伸びすぎた髪から水滴が落ちる。外に出るには、髪がぼさぼさすぎるかもしれない。


 そこで、僕は鏡台がある部屋に向かった。この家のおかしなところは、鏡がそこにしかないところだ。といっても、僕がその昔に大きな鏡を割ってしまって以来、新しいのを買わなかっただけらしいけど。もうじいちゃんもばあちゃんも他界したから、買うかどうかは僕次第だ。それで、僕は結局買っていない。


 女の子の気配を背後に感じながら、僕は普段は使わないばあちゃんの部屋に入った。長いこと放置されていて、ちょっと埃っぽかった。鏡も汚くなっている。僕は服の袖で鏡の表面を拭った。それはすぐに、綺麗とは言わないまでも、十分によくこちらを映してくれるくらいにはなった。僕は腕を下ろした。


 鏡に映ったのは、髪が肩に届きそうで、年齢の割にやつれた男。つまり僕だ。人生に何の楽しみもないと言いたげな顔をしている。人生は自分の選択の結果でしかない、みたいな話を聞いたことがあるけど、僕はそんなことを信じたくない。運命って奴も、きっとある。


 なんて、鏡に映る自分を見ながらぼんやり考えていると、女の子が僕と鏡台の間に割って入ってきた。心なしか口角を下げて、放っておかれたことに怒っているみたいにも見える。僕は苦笑しながらも、気付かないわけにはいかなかった。その子の背中が鏡に映っていないことに。


 ああ、やっぱりそうか。そんな乾いた感想が口から出た。それでも、背筋が引きつるような、嫌な感じがした。女の子は不思議そうに首を傾げる。そこで、人間じゃないのか、と尋ねてみると、その子はこくりと頷いた。幽霊なのか?その子は首を傾げた。この際、幽霊でも妖怪でも一緒か。確かなのは、交番に行っても仕方ないということだ。


 僕たちは最初にそうしたみたいに、お互い微動だにしないで見つめ合った。せめてこの子が何か言ってくれたら、僕だってどうしたらいいかわかったかもしれないのに。数十秒か数分か、とにかく時間だけが過ぎた。僕は女の子の艶のない髪と光のない瞳を観察した。人間味はない。けど、よくできた偽物だと直感的に思った。


 僕は何となく、指先を女の子に近づけた。本当にそこにあるように見えたから。だけど、触ることはできなかった。指はその子の肌をすり抜け、何の感触も得られなかったのだ。頭ではわかっていたはずなのに、それでも奇妙な衝撃があった。ちょうどそのときに聞こえてきた風鈴の音色が、僕の背筋を指で伝ったようだった。僕がはっとしている間に、女の子はさっと駆け出した。足音があの縁側へと遠のき、また風鈴が揺れた。舌にふと走ったざらっとした不快感に、僕は軽く舌先を噛んだ。


 僕は女の子を追いかけて縁側に出ていった。その子はのびのびと横になっていた。随分なくつろぎようだ。地縛霊か何かで、この家を我が家だと思っているのか?勝手に住み着くだけなら無視してもいいんだろうけど、僕はどうにもその子を放置できなかった。僕はその子の足元のほうに座った。足があるなら幽霊じゃないのか、なんて思いながら。


 僕に用があるのか、と、何となく尋ねてみた。その子は元気良く起き上がったかと思うと、微笑みながら頷いた。その用が何かと聞いても、答えがないだろうことはわかっていた。代わりに、こう質問した。名前はあるのか?さっきも似たようなことを聞いたけど、首を振るだけで答えられる聞き方はしなかったから。女の子は首を横に振った。それは不便だ……そう言うのも妙な気がするけど。


 すると、女の子は唐突に上を指さした。その先には風鈴がある。風鈴?女の子は頷いた。そんなに気に入ったのか、と物思いに耽っていると、その子はもう一方の手で自分を示した。僕はすぐにはその意味を測りかねた。けど、ふと閃く。名前だ。女の子は笑って頷いた。つまり、風鈴にちなんだ名前がほしいのかもしれない。そこで、僕は思いつくままに言った。鈴。それはその子の気に入った。


 そういうわけで、女の子の名前は鈴になった。明らかに物体として存在していない何かに名づけるなんて、我ながらどうかしているとは思うけど、僕もまた満足していた。仲良くなれた気がしたから、僕は鈴に色々と質問を投げかけた。いちいち書き記すほどのことじゃないけど、実体のない会話は何となく心地良かった。


 そうこうしているうちに、ひどく遠いどこかから、十七時を知らせる音色が響いてきた。だから、僕は日課の散歩に出た。鈴はついてきた。あの家にこだわりはないらしい。歩くうちに人とすれ違ったけど、鈴のことは見えていないみたいだった。だから、僕は外で鈴に話しかけなかった。


 いつもと同じ道のりだったのに、今日はやけに疲れた。また咳が出始めたから、僕は嫌々早めに散歩を切り上げた。潰れかけの八百屋で晩御飯の材料を買ってから、家に戻った。その間、鈴ははぐれるでもなくそこにいたけど、時々振り返りたくなるくらいには気配がなかった。


 僕は肉のない野菜炒めを食べた。その間、鈴はやっぱり僕を見張っていた。食べることはできないだろうと思って、食べてみたいか、と僕は尋ねた。鈴は首を傾げた。美味しそうに見えないのは間違いない。僕は苦笑した。


 食事を終えて、僕は流しに皿を置きに行った。けど、そこに朝使った食器が置いたままになっているのを見つけて、がっかりした。というのは、朝か夜どちらかに必ず皿洗いをする、という決まりを作っていたからだ。一回破ると、皺寄せは後に、それもかなりの利子を伴ってやってくる。僕はスポンジを手に取った。流しには、歪んだ形で映る僕がいた。隣の鈴は、当然歪んでいなかった。映っていないから。


 皿洗いを終えて、僕は風呂場に行った。初めは狭くて使いづらいと思ったものだったけど、今となってはちょうど良かった。湯船に浸かる習慣もないし。服を脱ぐとき、僕は鈴がまだそこに立っていることに気付いた。いくら何でも、気にしないわけにはいかない。僕は鈴に縁側で待っているように厳命した。鈴は何とか説得に応じてくれた。


 風呂から上がって、縁側に行ってみると、鈴は大人しくそこに座っていた。僕が来たのに気付くと、微笑んで自分の隣の床を示した。僕はそこに腰を下ろした。涼しい風が風鈴を揺らした。この時期の夜は好きだ。もうまもなく、茹だるような日々がやってくるとはいえ。


 鈴と優しい風に吹かれているうちに、眠気がやってきた。僕は寝室に戻って、もう一つの日課にしている日記をつける。これを書き終えたら、寝てしまうつもりだ。鈴が隣にやってきて、日記を覗いてきた。僕が反射的に中身を隠そうとすると、鈴は可笑しそうに笑った。ちょうどいいときに風鈴が鳴って、僕は鈴の笑い声がそういう音に聞こえるのだと想像した。馬鹿なことを考えていないで、今日はもう寝ようと思う。


*


 僕はいつも通りの時間帯に目を覚ました。でも、気分は昨日より一段と悪かった。喉が焼けるように痛み、起き上がる気力も湧かない。涼しげな風鈴の音は、今朝の僕には不似合いだった。何とか目をこじ開け、横を見てみると、鈴がそこに座っていた。どこかむっつりとした顔でこちらを見下ろす鈴は、赤の他人のようだった。いや、ずっとそうなのかもしれないけど。


 僕は台所にふらふらと歩いていった。咳が出るのは意地でも堪えた。でも、鈴が突然目の前に飛び出してきたのに驚いた拍子に、僕は激しく咳き込んだ。金属の味が喉の奥にふと広がり、消えた。最悪だ。そう呟くと、鈴が不服そうにこちらを覗いてきた。僕は、君に言ったわけじゃないと否定したけど、鈴は聞いていないみたいだった。


 冷たい水で顔を洗うと、少し頭が冴えてきた。僕は顔をびしょ濡れにしたまま冷蔵庫を開け、味噌と、いつかるあるのかわからない豆腐を取り出した。米はほとんどなかったから、僕は朝食を味噌汁だけで済ませた。昼には、昨日残しておいた野菜炒めでも食べればいい。


 僕は寝室に戻った。鈴は僕が縁側に行かないのを不思議そうに見ていた。でも、僕は昨日の分も本を読まないといけなかったし、日がな一日縁側に座る趣味もなかった。僕は読みかけの本を取り、布団の上に横になった。起きてすぐ片付けなかったのは昨日と同じだけど、それ自体随分久しぶりのことだった。悪習だ。僕は思った。


 鈴は僕と一緒に本を読んでいるのか、隣でじっとしていた。鈴がいても気は散らなかったけど、とうとう我慢できなくなってきた咳のせいで、だんだん頁をめくるのもままならなくなってきた。結局霧散した気力のために、僕は本を放り出した。目を閉じて寝そべっていると、風鈴が立て続けに音を鳴らした。今日は風が強いのか。


*


 いつの間に眠っていたらしい。僕が起き上がってみると、鈴が見えるところにいなかった。どうして驚いているのか、自分でもよくわからない。馬鹿らしいとは思いつつ、僕は鈴に呼びかけた。すると、僕に答えるみたいに風鈴の音が響いてきた。なるほど、それはそうか。僕は縁側に出た。


 やっぱり鈴はそこにいた。横になって、外ではなく風鈴をじっと眺めている。僕が来たのに気付き、鈴はさっと起き上がって、何が面白いのか、風鈴と一緒に身体を揺らして笑った。僕が困惑しているとわかると、鈴は軽やかに立ち上がって、ついてくるように手で示しながら、廊下を歩き始めた。


 鈴の向かった先は、ばあちゃんの部屋だった。鏡台を指さしている。僕は鏡を覗いた。途端に、自分で短く笑ってしまった。酷い寝ぐせだ。鈴が笑うわけだった。僕は流しで髪を濡らしてから鏡台の前に戻り、適当なやり方で髪を整えた。横目で鈴を見ると、鏡に映る僕を見ながら満足げに頷いていた。変な子だ。


 僕たちは縁側に戻った。けど、座る間もなく、あの音色が十七時を知らせてきた。散歩の時間だ。そう思って玄関に向かおうとすると、抗議でもするみたいに咳が出た。それが何とも腹立たしくて、僕は絶対に出かけてやろうという気になった。その前に、薬を探してみたけど、使用期限の切れたものしかなかった。とりあえず、僕はそれを水で流し込んだ。


 外は少し暑かった。日もまだ高く、夏がじわじわとにじり寄ってきているのは明らかだった。もう六月になる頃だし、当然だろう。僕はゆっくり歩いた。そうしたかったわけじゃないけど、足取りが軽くならなかった。反面、鈴は楽しそうだった。小躍りするみたいに、僕がのろのろ歩く周りをうろついている。見えやしないのに、向こうを歩く人に手を振ってみたり、通りがかった民家を覗き込んだり。その家にも、風鈴が飾られていた。冷えた音が、僕の火照る身体を宥めるようだった。


 結局、僕は昨日よりも早く散歩を切り上げ、近道を使って八百屋に向かった。あまり食欲はなかったけど、何か買っておかないと、腹が減ったときに困る。ぼんやりする頭を何とか使って、僕は買うものを選ぼうとした。僕は年老いた店主が話しかけてくるのに気付かなかった。やっと答えようとしたとき、激しい発作が舞い戻った。僕はそっぽを向いて咳き込んだ。地面に血が飛び散った。気付けば、僕はその上にへたり込んでいた。


 店主が何か言っているのに、またも気付けなかった。意識がはっきりとしたとき店主は、どうした、とか、大丈夫か、とかそういうことを僕に熱心に尋ねていた。その横に、鈴がしゃがんでいた。不思議そうに店主を見つめて。僕はとりあえず頷き、心配する店主を置いて、逃げるように家に帰った。


 ほとんど走れなかった。息苦しくて、眩暈もした。どうやって家に帰り着いたのか、自分でもわからない。とにかく、床に寝そべった。せめて涼しい縁側まで行きたかったけど、そこまでする気にはならなかった。


*


 腰の痛みが僕の目を覚ました。夜中だった。こんなところで寝るものじゃないな。ところどころ痛んだけど、気分は大分良くなっていた。僕は寝室に戻り、急いで日記を開いた。手短でも、書いておくべきだという気がしたから。


*


 外で、誰かが僕を呼んでいる声がした。ぼやけたような頭はなかなか冴えなくて、僕は起き上がれなかった。だけど、確かに誰かが玄関に来ているらしかった。風鈴がけたたましくなった。鈴が起きろと言っている。僕は起きた。


 重い身体を引きずり、痛む喉から乾ききった咳を出し、僕は玄関に向かった。扉を開けたら、八百屋の店主がいた。よくわからなかったけど、野菜をくれた。ああ、体調が悪そうだったから、見舞いに来たのか。ほとんど寝ぼけていたせいで、僕はこんなことを口走った。鈴が手を貸してくれたら良かったのに。


 店主は首を傾げ、鈴のことを尋ねた。そうか、見えないのか。なんて思いながら、僕は起きてから鈴を見ていないことに気付いた。けど、探すまでもなかった。鈴はそこにいた。八百屋の店主の後ろ。老人の肩越しに、鈴の艶のない黒髪と、暗闇のような目が見えた。しかめ面をしている。僕は店主に、後ろにいると告げた。その人は慌てて振り返った。やっぱり見えないみたいだった。僕はとりあえず礼を言った。店主は気味悪そうな顔をして帰った。


 もらった野菜は袋ごと冷蔵庫に放り込んだ。振り返ると、蓋をしておいた一昨日の野菜炒めを鈴が見下ろしていた。食欲はなかった。でも、何も食べないわけにはいかなかったから、僕はそれを飲み下した。後でそれは全部吐いてしまった。


 僕は布団に戻って眠った。


*


 それからは、起きては眠るのを繰り返すばかりだった。鈴は、横にいるときもあれば、いないときもあった。鈴の姿が見えないと、僕は心配になった。腹を空かしているんじゃないかとか、僕を見捨てたんじゃないかとか、働かない頭を使って考えたのはそういうことだった。


 目が霞み、朝か夜かも判断できなくても、風が吹いていることだけはわかった。風鈴の音がしたからだ。鈴がどこかで笑っているんだ。その考えは、僕を安堵させた。


 だけど、そのうち、その軽やかで快い音は僕を苛立たせるようになった。ろくに起きていられもしない僕を、鈴が笑っているのが許せなかった。僕は無理やり起き上がった。立ち上がれないことに、僕は驚いた。僕は這った。


 縁側が寝室からそう遠くなくて助かった。今は夕方らしい。僕は柱を支えにして何とか立ち上がった。風鈴を掴んで、引っ張った。取れなかった。くぐもった鈴の音がした。僕は風鈴を掴んだままへたり込み、そのおかげで風鈴の紐が引きちぎれた。これでいい。


 僕はそれを庭に放った。また這って戻ろうとしたら、障子の前に鈴がいた。立っているせいで、顔は見えなかった。おかえり。僕は声にならない声で言い、部屋に戻った。鈴の足があるところを通って。


 部屋に戻ってみたら、部屋は臭かった。べたべたしたものが手に触れた。どうでもいいや。僕は早々に目を閉じながら横になった。


 そうしたら、風鈴の音がした。捨てたはずなのに。そう思ったけど、もう目を開ける気にはならなかった。僕は鳴り続けるその音をじっと聞いていた。そのうちに、鈴が隣にいてくれているのがわかった。だんだんその状況が心地良くなってきた。鈴の温度のない温もりを感じ、僕は全身の痛みを忘れた。そろそろ、体調も治るかもしれない。

季節外れで草

先月と先々月と先々々月にも短編上がってます

読了感謝でした~

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