第三章:赤い本
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外ではまだ雨の音が響いていた。
アギャタはびしょ濡れのまま家に戻ってきた。手には、洗濯物と――あの本を抱えて。
「どうしたんだい、そんなに時間がかかって。」
祖母が心配そうに尋ねる。
「えっと……風が強くて、服がなかなか取れなかったんだ。ちょっと、風呂入ってくる。」
そう言って、アギャタは慌てて浴室へ向かった。
* * *
湯が体を流れていく中、彼の思考は、あの奇妙な本へと戻っていった。
(あの本……いったい何だったんだ?
夢でも見てたのか? それとも、本当に……雨の中で乾いてたのか?)
どれだけ考えても、答えは出なかった。
風呂から上がると、アギャタは自分の部屋へ戻った。
机の上には、静かに――まるで彼を待っていたかのように――あの本が置かれていた。
そっと手に取る。
……やはり、完全に乾いていた。
一滴の水も、汚れもない。
赤い革の表紙には、幾何学的な模様が刻まれており、中央には――
(……文字? こんなの、さっきはなかった。)
彼は目を細め、その名を小さく口にした。
「シッディ……? なんだ、その名前は。」
好奇心が警戒心を上回る。
アギャタはゆっくりと本を開いた。
最初のページに、整った筆跡でこう書かれていた。
> 「この本は、お前の人生を創ることも、壊すこともできる。
読む者は、純粋な心で読まねばならない。」
「人生を壊す……? 大げさだな。」
そう呟きながら、彼は次のページへ進む。
> 「この本には、宇宙の力と秘密が記されている。
だが、それを知る資格を持つ者は限られている。」
「ふん……なるほどね。」
> 「この書は、お前の生と目的に応じて、知識を与える。」
その一文を読んだ瞬間、彼の目がわずかに鋭くなった。
急いで次のページをめくる――しかし、そこには何も書かれていなかった。
「……は?」
(なんだこれ、白紙じゃないか。)
再び最初のページへ戻る。
そこには、新しい文字が浮かび上がっていた。
> 「もし最初にページが白紙であれば、本を閉じよ。
そして静かに、自分の“人生の目的”について思いを巡らせよ。
お前は、本当に何を望んでいるのか。」
「……人生の目的?」
彼の脳裏に、あの日の光景が蘇る。
嵐の夜――兄の手が、闇の中へと消えていった。
「兄さん……まだ、生きてるのか……? いや、そんなはず……。」
震える手で、再びページをめくる。
> 「もしお前の目的が不可能であるならば、ページは永遠に白紙のままだ。」
「不可能……?」
アギャタは歯を食いしばった。
「……いいだろう。
もし兄さんがまだ生きているなら、この本が――きっと導いてくれる。」
その瞬間、本が淡く光を放ちはじめた。
柔らかな光が部屋を満たし、次第に眩しさを増していく。
「な、なんだ……これ……!」
アギャタは目を覆いながら、光に包まれていった。
やがて、すべてが静まり返る。
恐る恐る、彼は再び本を開いた。
しばらくの間、目を閉じたまま――そして、ゆっくりと開く。
ページは……白紙のままだった。
「……やっぱりな。」
彼は苦笑した。
痛みと、ほんの少しの希望が混じった笑みだった。
外では、雨が静かに降り続いていた。
* * *
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