第一章:選ばれし者
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「……ん? なんだ、この囁き声は……?」
ぼんやりとした意識の中で、無数の囁きが渦巻いていた。はっきりと聞こえないが、どこか懐かしい響きがある。それはまるで異世界からの呼び声のようだった。
『何かを伝えようとしているのか……?』
その時、囁きの中から一つの声が浮かび上がった。深く、威厳があり、まるで神の言葉のように響く。
「……お前は、選ばれし者だ」
それが最後の言葉だった。
そして、意識が闇に沈んだ——。
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「おい! 寝坊助! いい加減に起きろ!!」
夢の名残を引き裂くような大声。
アグマナは弾かれたように目を覚まし、朝の光が窓から差し込むのを眩しそうに見た。外ではすでに村の朝の活気が広がっていた。
「……なんだよ?」彼は眉をひそめながら、こめかみを押さえた。
ベッドの横には腕を組んだ弟、アギャタが立っていた。「またかよ、アグマ……本当に懲りないな」
アグマナは目をこすりながらぼやく。「お前がクマみたいに朝からうるさいせいだろ」
アギャタはため息をついた。「とにかく、ばあちゃんが呼んでるぞ。朝飯できてる——」
その言葉を聞くや否や、アグマナは弾丸のように食卓へ向かって飛び出した。
「ちくしょう、アグマ!!」
アギャタも慌てて後を追う。
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家族が集まる食卓。低い木のテーブルの上には、温かい料理が並んでいた。
二人が席につくと、祖母が呆れたようにため息をついた。「もう少し落ち着いて食べなさいな……」
父親は静かに微笑みながら「おはよう」と挨拶する。
家族は手を合わせ、静かに祈りを捧げた。
アギャタはふと気づく。「ねぇ、父さん。なんで毎回ご飯を少し残してるの?」
父親は穏やかに微笑む。「これは先祖への供え物だ。彼らが飢えぬようにね」
アギャタは目を丸くした。「じゃあ……僕が母さんに食べ物を供えたら、届くの?」
父親は頷いた。「ああ。お前の役目だよ、アギャタ」
一瞬の沈黙が流れた。
「……さて、感動してる場合じゃないぞ」
祖母が水時計を見ながら言った。
「もう遅刻する時間じゃないか?」
「やばっ!」
父親は慌てて仕事へ向かい、兄弟は学校へと駆け出した。
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学校の帰り道。
アグマナは校門の前で待っていた。「遅いぞ。まさかまた何かやらかしたのか?」
アギャタは一瞬言葉を詰まらせた。「……いや、別に」
二人は歩きながら、村の祭りについて話していた。
「で、お前はどうするんだ?」
「まだ決めてないけど、友達が何か考えてるらしい」
「へぇ? それって——」
——ピタッ。
アグマナの足が突然止まった。
「……どうした?」
アギャタが不思議そうに尋ねる。
しかし、アグマナは何も答えなかった。
——空気が違う。
その瞬間、アギャタも異変を感じた。
風が強くなる。木々が激しくざわめく。鳥たちは空へと逃げ、牛や羊が怯えて暴れ出した。
「な、なんだよこれ……?」
アグマナは拳を握りしめる。
——そして。
「伏せろ!!」
突如、空に巨大な黒い球体が現れた。
圧倒的な力を放ち、すべてを引き寄せていく。
静寂の村が、一瞬で混沌へと変わった。
木々が引き抜かれ、鳥や動物が闇へと飲み込まれていく。
二人は走った。
目指すは近くの洞窟。
アギャタはなんとか中へ転がり込む。
しかし——
アグマナは遅かった。
その力に引き寄せられ、宙へと舞い上がる。
「アグマ!!」
アギャタは叫びながら手を伸ばす。しかし、その指先は空を切るだけだった。
アグマナの目がアギャタを捉えた——
——そして。
闇へと消えた。
***
アギャタは膝をつき、震えながら荒い息をつく。
世界が静寂に包まれる。
そこにあるのは、ただの破壊。
——そして。
心が現実を受け入れた瞬間——
「アアアアアアアアアアアアアアアア!!」
少年の叫びが、無情な静寂を切り裂いた。
それは、二度と答えの返らない声だった。
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