森の影
リナが十歳になった秋の日、私の人生最後の日が来ることを、その時はまだ知らずにいた。
「お母さん、今日は何を作るの?」
台所で夕食の支度をしている私に、リナが甘えるように寄り添ってきた。もうすっかりお姉さんらしくなって、時々手伝いもしてくれる。
「今日はお芋のシチューよ。トムの好きなやつ」
「やったあ!僕、お芋大好き!」
八歳になったトムが、外から駆け込んできた。頬を赤く染めて、元気いっぱいだ。
「手を洗ってからね」
「はーい」
素直にうなずいて井戸に向かう後ろ姿を見て、胸が温かくなる。この子たちは本当に良い子に育ってくれた。
「お母さんも一緒に作ろうか?」
リナが提案してくれた。
「ありがとう、リナ。じゃあ、人参を切ってもらえる?」
「任せて!」
娘が一生懸命に人参を切っている姿を見ながら、ふと思った。私がリナくらいの歳の時は、もう一人で何でもやらなければならなかった。でもこの子は、こうして家族に守られて、愛されて育っている。それがどれほど幸せなことか。
「お母さん、薪が少なくなってるよ」
ダビドが仕事から帰ってきて、薪の束を見て言った。
「わかった。明日の朝、森に取りに行くわ」
「僕が行こうか?」
「大丈夫よ。いつものことだし」
そんな何でもない日常の会話だった。まさかそれが、家族との最後の会話になるとは思いもしなかった。
その夜、いつものように子供たちに子守唄を歌った。
「お母さんの歌声、大好き」
リナが眠そうな目で言った。
「お母さんも、リナとトムが大好きよ」
二人の額にそっとキスをする。この子たちの寝顔は、見ているだけで幸せな気持ちになる。
「おやすみなさい」
「おやすみ、お母さん」
部屋を出る前に、もう一度振り返った。薄明かりの中で眠る二人の寝顔が、天使のように美しい。
翌日の夕方、私は薪を集めに森へ向かった。
「すぐ戻るから、お留守番お願いします」
「気をつけてね」
ダビドが心配そうに見送ってくれた。
「お母さん、早く帰ってきてね」
リナとトムも手を振ってくれる。
「はーい。すぐに戻ります」
いつもの森の道。何度も通った慣れ親しんだ道。秋の風が頬に心地よく、落ち葉がカサカサと音を立てる。
薪を集めながら、今度の冬の準備のことを考えていた。トムの服も小さくなったから、新しく作らなければ。リナにも新しい本を買ってあげたい。あの子は読書が大好きで、何冊あっても足りないくらいだ。
「見つけたぞ」
突然、背後から声がした。振り返ると、ぼろぼろの服を着た老人が立っていた。顔は深いしわに刻まれ、目は濁っている。
「あの…どなたですか?」
「覚えていないか?お前の母親を殺した男だ」
血の気が引いた。この人が、お母さんを…
「今度はお前の番だ。ずっと探していたんだ」
老人の手に、錆びた刃物が握られているのが見えた。
「待って…私には子供が…」
「関係ない。復讐は果たさねばならない」
逃げようとしたけれど、足がもつれた。
「お母さん…」
心の中でお母さんを呼んだ。そして、リナとトムの顔が浮かんだ。
「リナ、トム…お母さんを許して」
守ってあげられなくて、ごめんなさい。
刃物が振り下ろされる瞬間、私は最後まで子供たちのことを想っていた。この子たちが、どうか幸せに育ちますように。強く、優しい大人になりますように。
森が静寂に包まれた時、小鳥たちの鳴き声だけが響いていた。
落ち葉の上に倒れた私の体から、静かに血が流れ出していく。痛みはもうなかった。ただ、だんだんと意識が薄れていくのを感じていた。
「お母さん…おばあちゃん…」
心の中で呼びかけた。もうすぐ会えるのだろうか。
最後に浮かんだのは、今朝の子供たちの笑顔だった。
「お母さん、早く帰ってきてね」
リナの声が、遠くから聞こえる気がした。
「ごめんね…もう帰れないの」
でも、この子たちには私の愛がしっかりと刻まれているはず。十年間、精一杯注いだ愛情が、この子たちの心を支えてくれるはず。
「強く生きて…優しい人になって…」
それが私の最後の願いだった。