51
「……こんな時間に起きちまった。」
朝日が完全に顔を出す前、まだ空に白さが残る早朝、リズの目は覚めた。早目に寝た分だけそれなりの時間眠ったはずだが、眠りが浅かったのか体も頭もまだ重い。しかしもう一度寝ようとして目を閉じると却って目が冴えてしまい、もう一度眠ることはできなかった。
こんな状況なので店は臨時休業をしており、早起きしたからといってその分仕込みをして時間を有効活用する、という手段は使えない。凝った朝ごはんを作ろうにもそもそも食欲もなく、そんなことをしても仕方がない。本でも読もうかと手近にあった一冊を手に取ってパラパラとめくってはみたものの、文字を読んでいるはずなのに内容が全く頭に入って来ず、ページをめくるたびに集中力を欠いていくという有様だった。
「はぁ……散歩にでも行こうかね。」
早朝の町は静かながら、これから一日が始まるというエネルギーを感じさせる雰囲気に包まれていた。その空気を肺に入れると、少し体に良いことをしたような気がして、肩の力が抜けるような気がする。
リズは家の中で過ごすことが多い。
仕事も厨房にこもりっぱなしだし、仕入れもアニスに任せているから、取引先や市場に出かけることもない。私生活のための日用品は店のものと不可分な部分も多く、仕入れと一緒になっているから買い物に出る回数は普通の人に比べると極端に少ない。加えて妊娠してからは疲れやすさも手伝ってますます外に出ることは少なくなった。よくアニスからは「そんなに家の中にいて息が詰まらない?」と言われるが、元々の性分からか全く苦にならないどころか、却って快適ですらあった。
そんなわけで、リズにとって散歩はある程度の新鮮さがある。ましてこの時間の街はいつもと違った顔をしている。朝早くから営業している店の開店準備で忙しなく動いている人々や、どこかにおでかけをしてきたのか疲れた顔をしている猫とすれ違っては彼らを遠巻きに観察しながら、目的地も決めずにゆっくりと歩き続けた。
そんな時間も、小一時間も経つと街は早朝から朝の顔に変化し、多くの人が動き出す音がし始める。なんとなく早朝の秘密めいた空気に浸った自分が、このあくせくした時間にいるときまりが悪いような気がして、リズは家へ戻ることにした。
「あら、おはよう。今日はリズちゃんなのね。」
話しかけてきたのは近所の花屋の奥さんだった。開店に向け、店先に出て働いているところだった。手にはハサミと少し古くなって切り落とした数輪の切り花を持っている。商品の手入れをしていたらしい。
「おはようございます。……目が覚めちゃって。」
「あぁ、お腹が大っきいと眠りが浅くってねぇ。大変よねぇ。」
なんでもない世間話だが、花屋の奥さんが敢えてソールのことには触れないでいるのは明白だった。その気遣いに若干の居心地の悪さを感じながら、リズは違和感を見過ごすことはできなかった。
「そうなんですよねぇ。…あの、今日”は“って?」
「ん? ああ、大したことじゃないのよ。この前はアニスちゃんがこのくらいの時間にお店から出てきたから。今日はアニスちゃんじゃないのね、って思ってね。アニスちゃんたら随分慌ててたみたいだけど……なぁに? ケンカでもしたの?」
「この前、って……いつぐらいでした?」
「そうねぇ……、あぁ、こっちの花が入荷し始めたくらいだから、一月くらい前ね。」
知らない。アニスがこんな時間まで、リズの家に滞在していたことなんて知らない。
符合するのは一月前という時期だけ。その他の情報もなければ証拠もない。それでも、リズには奇妙な確信があった。ソールが悩んでいたのには、アニスが関係している―!
「ああ、仕事でちょっとトラブルがあって。ケンカしたわけじゃないんで、安心してください。」
「そぉ? あ、これちょっと開いちゃってるけど、2~3日なら綺麗だから、良かったらもらってちょうだい。」
余計な詮索を避けるために適当に話を合わせると、花屋の奥さんは特に怪しむことはなく、手に持っていた、商品にならなくなった切り花までくれた。
「ありがとうございます、飾りますね。じゃあ、私はこれで。」
早々に会話を切り上げて足早に自宅へ戻る。
貰った切り花を花瓶に入れる手間も惜しくって、どこに置いたのかも意識しないでテーブルの上に無造作に置き、そのままの勢いで再び外に出た。お腹が重くて息が上がる。時折息を整えながら、可能な限りの早歩きでアニスの家へと向かった。
「アニス! ちょっと良いかい!?」
何度かノックとともに声をかけるが応答はない。ドアに耳を当ててみても、物音はなくアニスがいるのかいないのかは分からなかった。
「寝てる……? でもこんだけ呼びかけても起きないってのはアニスにしちゃ変だね。じゃあ、居留守……?」
こんな朝早くからの来訪が非常識なのはすっかり頭から抜け落ち、アニスが出てこないことに腹がたった。
「そうだ、鍵……!」
もう何年間も使う機会もなかったアニスの家の合鍵の存在を思い出した。
リズの結婚を機に同居を解消した後、アニスが酷い風邪をひき数日寝込んだことがある。合鍵はリズが看病に通うのに作ったものだった。回復したあとで合鍵はアニスに返すつもりだったのだが、また同様のことがあるかもしれないから、というアニスのお願いで、そのままリズが持ち続けていたのだ。
たった今通ってきた道を、また同じように足早に戻る。家に着くとバタバタと自室へ行き、引き出しの中がぐちゃぐちゃになるのも構わずに漁った。
目当てのものを探し当てると、片付けもしないまま飛び出し、再びアニスの家へと急いだ。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、数度大きく肩で息をしてあがった呼吸を整えた。そして鍵を差し込み、ドアノブを回すと同時に
「アニス、入るよ!」
と無遠慮に踏み込んだ。
リズの目に入ってきたのは、文字通り空っぽの部屋だった。
家具や日用品や服は一つもなく、ただ部屋の中央の床の上に、分厚い封筒と、「リズへ」と書かれた手紙が置いてあるだけだった。
―リズへ
こんなことになってしまって本当にごめんなさい。
どんなにリズを怒らせて、たとえ縁を切られたとしても、本当のことを話すべきなんだとは分かっています。でも、私にはどうしてもその勇気がもてませんでした。
許して欲しいとは言えないけれど、せめて謝罪をさせてください。
封筒のお金は私の全財産です。どうか受け取ってください。
アニス
封筒には小銭まで入っていて、本当にアニスの全ての財産だろうことが分かる。きっと、この部屋にあった家具や服も全てお金に変えたんだろう。
震える手で手紙をくしゃりとすると、リズはその場でへたり込んだ。
アニスの部屋からどうやって帰ってきたかは覚えていない。
保安調査隊に通報して、いくつかの質問に答えたとき、隊員たちがとても気遣わしげだったのは覚えている。
帰宅すると、今朝の散歩でもらった切り花がテーブルの上ですっかり萎れてしまっているのが目に入った。どうにかする気力もわかなくて、花屋の奥さんには申し訳ないと思いつつも、そのままゴミ箱に捨てた。
リズの通報を受けて捜査を開始した保安調査隊は、街から少し離れたところにある崖の上に、アニスの靴が並べておいてあるのを発見した。
読んでいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になるなど思っていただけましたら
ブックマークや下の☆☆☆☆☆で評価してくださると嬉しいです。
励みになります。




