48
次の朝は最悪だった。
けだるさを伴った、まどろみのような穏やかさなどなかった。石のような硬さの、息ができなくなるような重さが部屋を支配していた。
酔いが残っていた時点ではソールはほの昏い悦びを感じていたが、今となっては押しつぶされそうな罪悪感と後悔だけが心を占めていた。一方のアニスは、昨日の情けない顔よりももっと情けない顔をしていて、顔色は土のようで目には生気の欠片もなかった。
「……私、だれにも言わないから……。」
消え入りそうな声でそう言ったアニスは、本当に必要最低限の身だしなみを整えると、一度もソールと目を合わせないまま、頼りない足取りで、自宅へと戻っていった。
ベッドから出ることもできないで、ソールは頭を抱えた。
―最悪だ。
最初は泣いているアニスを純粋に慰めたかっただけだった。なのにどうして。ただただ、魔が差したとしか言いようがない。自分が、妊娠中の妻がいぬ間に、妻の一番の親友とこんなことをするような人間だったとは思わなかった。このことは墓場まで持っていくしかない。
とにもかくにも、リズは今日の昼には帰ってくる。汚れたシーツを洗わなくてはならない。まだ太陽も昇りきらない薄暗い早朝だ。片付けも間に合うはずだ。
ソールはやっとのことで重い体をベッドから引きはがした。
◇
ティアはすっかり軟禁生活に飽いていた。
基本的に部屋は寝に帰るだけの場所で、他にはせいぜい風呂に入るか買ってきたものを食べるくらいしかしていなかった。部屋の中に閉じ籠もって過ごせと言われても、することがないのである。
初めのうちはひたすら惰眠を貪っていたが、そもそも睡眠が必要のない身体というのもあり、すぐに嫌気がさした。仕方なく日に三度差し入れられる食事をものすごく時間をかけて食べることで時間を潰していた。
それにしても、差し入れられる食事のなんと味気ないことだろう。メニューはほぼ毎食同じで、パンとスープ、そしてベーコンまたは卵。なによりパンはもそもそとしていてまるでスポンジを食べているようだった。
ほんの少し前までよく食べていた、グレートブレッドの美味しいパンが懐かしい。時刻は昼前。きっとそろそろ香しい小麦が焼ける匂いが店の前に漂っているのだろう―。
「ティア、ちょっと良いか?」
ティアが今や常連となったベーカリーに思いを馳せていると、大きめのノックと共に誰かが声をかけてきた。
この軟禁生活が始まってから幾度となく聞き取りという名の取り調べを受けてきたが、その時はこんなに親しげに話しかけてくることはなかった。
驚き警戒しつつ、どこか聞き覚えのある声から記憶を辿って、ようやくその主に思い至った。
マルクだ。
意外な人物だったが、暇を持て余したティアにとっては歓迎である。
「こんにちは、マルク。驚いたわ。」
扉を開けた先にいたのは少し緊張した面持ちのマルクだけで、常に部屋の前に立っている見張りの隊員は、少し離れた位置まで下がってこちらを見ていた。マルク自身が隊員ということもあり、見張りはするものの会話が聞こえないよう下がってくれたのだろう。
「あ、ああ。調子はどうだ?」
「とにかく退屈を持て余しているわ。いつまで続くのかしら。」
「もう少しで終わる見込みだってさ。ソールが言ってたぜ。」
「ああ、ようやく終わるのね! 吉報だわ。」
「で、さ。謹慎後にはもしかしたら中枢区に移らせられるかもしれないんだって。ティアは、もし中枢区に住めって言われたら、どうしたい?」
「中枢区に?」
ティアは中枢区を調べる機会を探っていたのだ。これまでの聞き取りの最中でも何か情報を得ようとさりげなく探りを入れていた。言うまでもなく、ティアにとっては移り住むのは願ってもない機会だ。
「そうね、もしそう言われたら―。」
「俺、ティアにはこっちにいて欲しいんだ!」
ティアとマルクが声を出したのは同時だったが、ティアはマルクの勢いに気押された。マルクの顔は真剣そのものだ。
「み、みんなには良くしてもらって感謝しているわ。でも―。」
「“みんな” じゃなくってさ、俺がいて欲しいんだよ。……これ、ティアに。」
そう言ってマルクは後ろ手に隠していた花束をティアへと差し出した。花祭りを思わせる、真っ赤な花束。
「俺、ティアが好きなんだ。出会った時から好きだった。商業区に……っていうより、俺の傍にいて欲しいんだ。どうか、これを受け取って欲しい…!」
ティアは驚きのあまり言葉を失った。ティアにとってマルクは「アニスの好きな人」でしかなかった。確かにマルクは良い人だけれども、
―良い人だけれども?
そこでティアは気が付いた。良い人なのは知っている。ここに連れてきてくれて感謝もしている。でも、マルクのことを何にも知らないのだ。好きな食べ物も、好きな色も。家族のことも。
マルクもティアのことを知らないだろう。ここに来る前のことばかりでなく、ここに来てからのことも。グレートブレッドのパンが好きなことも、ジャンクフードをよく食べていることも、好きな入浴剤のことも。だってティアは話していない。聞かれなかったから。
彼はティアが好きだと言うけれど、何を以て好きと言っているのだろう。何を以て自分を選んで欲しいと言っているのだろう。
マルクに好意を告げられて、ティアの心には恐ろしいほど、何も響かなかった。
普段崇めもしないのに、都合の良い時にだけ願掛けされたときのことを思い出す。もちろん女神イシュヴァは、そんな人間たちの願いを叶えてやったりなどしなかった。
「……気持ちは嬉しいわ。けれど、その花を貰うことはできないわ。ごめんなさい。」
「……それは、好きな男がいるからか?」
「ええ。」
「その男とは、恋人同士なのか?」
「いいえ。私が勝手に好いているだけよ。けれど、私は彼以外とは考えられないの。」
そこまで言われて、真剣そのものだったマルクの顔は、濡れた子犬のようになった。しかし「彼以外考えられない」と言われてしまっては引き下がらざるを得なかった。アニスに語った通り、マルク自身も同じだったのだから。
「……そうか、急にこんなこと言って悪かった。」
ガックリと肩を落としてマルクは去って行った。
家に帰る道中、同僚の一団とすれ違う。あまりの顔の虚ろさに心配した同僚たちが声をかけ飲みに誘ったが、マルクはそれを固辞した。
「悪いが、今は一人にしてくれ……。」
いつも明るく朗らかなマルクは、大失恋でガッツリと塞ぎ込んだのだった。
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