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イシュヴァは塔の内壁に何か異変は無いかと確認しながら、高度を上げていく。もはや塔の底はすっかり見えなくなった。
イシュヴァはこの世界の始まりに、水晶が壊れ、“原初の海”ができたことから生まれた崩壊の神だ。
扉の向こうの世界を初めて見てからは、他の神々と同様、風が頬を撫でる感触や青空の高さ、夜の冷たさに夢中になった。無機質な壁に囲まれ、明かりと言えば原初の海が放つ薄暗い光のみという神々の領域にはない、豊かな表情を飽かずに眺めていた。
扉の向こうの世界が若かったころ、「崩壊」は受容されていた。山が崩れようが、地が侵食されようが、それは自然の一部であると捉えられてきた。ところが、人間社会に「ムラ」が起こり、建物や社会体制ができてくると、途端に「崩壊」は忌み嫌われるようになってしまった。
「ねえウルヴァルド、ここ良いかしら。」
その日、イシュヴァは不貞腐れた顔をしながらウルヴァルドの仕事場にやってきた。
仕事場といっても原初の海の水と彼の錫杖があれば事足りるので、何か特別な装置などはない。時を運営するウルヴァルドの邪魔をするのは忍びない、という理由で、他の神々はなんとなく遠慮している一区画というだけの場所である。
イシュヴァは世界の始まりに際し生まれた古き神のため、同じく世界の始まりから存在しているウルヴァルドとは気安い間柄だったし、この仕事場には他の神は滅多にやってこないので、愚痴をこぼすにはもってこいなのだ。
「おや、イシュヴァ。今日は扉の向こうにはいかなかったのか?」
「行ったわ。もう行って帰ってきたの。踊りの神と稲作の神と一緒に、ある村を訪れたのだけど、人間たちが私を怖がっているのがありありと見て取れてしまって。踊りの神も稲作の神も人間の肩を持つし……仕方ないわよね、あの子たちは人間の営みから生まれた神々だもの。あの子たち、村の人間に神託を与えて、自分たちの神殿を作らせたのよ。向こうに滞在するときの拠点にするのですって。せっかく完成した神殿が壊れるのは、まあ、嫌だものね……。」
「はは、珍しく傷心だね。だが、崩壊とはすなわち更新の始まりだろう? 大抵のことは、壊れてしまっても時とともに再生するものだ。元に戻りはしなくても、また別のカタチに変化していくこともあるだろう。なにより、この世界は崩壊により原初の海が生まれたことから始まっている。それを知らぬ神々ではあるまい。」
「私たちの視座からしたら、そうね。でも人間は私たちのように永くは生きないから。たった数十年しか存在し得ないのに、十年かけて作ったものが壊れてしまって、それを元に戻すのにまた十年かかりました、じゃ、崩壊を忌むのも仕方ないわ。
それに、やっぱり自然のものであれ人間のものであれ、向こうの世界でカタチあるものを司る神々は私に良い顔をしないものよ。自分の象徴たるものが私の性質に侵されてしまったら、仕方ないと納得はしていても癪に障る瞬間はあるでしょう。」
今日のイシュヴァは随分とウジウジしている。ウルヴァルドには細かいことは分からないが、どうやら扉の向こうのあれこれが積み重なっていたところに今日のことが起こってしまい、一気に鬱憤が溢れてしまっているようだ。
イシュヴァはあらゆるものを破壊する神としての力を有するが、その力を奮うことは滅多にない。ただ、彼女の意思とは関係なく、自動的にランダムに崩壊を呼び寄せるという性質を持つ。時の神であるウルヴァルドからすれば、それは世界全体の摂理として必要なものとしか感じられない。あらゆるものが永遠となってしまっては、それはすなわち停滞であるからだ。そして、それを理解していないイシュヴァでもないだろう。ただちょっと、自分ではどうしようもないことで躓いてしまって、不満を吐き出したいだけなのだ。
「そうか、まあそういうこともあるだろう。では、今度同じようなことがあったら僕のところに来ると良い。僕が司るものはそうそう壊れたりはしないだろうから。」
「……もしも私があなた自身を壊してしまったら?」
「神々の領域にいる限り僕が壊れることはないが……。そのときはお互い様だろう。もしも僕が壊れてしまえば、時間が止まって世界と一緒に君も終わるから。」
「……ふふ、そうね、ありがとう。また来るわ。」
イシュヴァにとって、世界はあまりにも壊れやすかった。大きさや固さに関わらず、あらゆるものは壊れ、そしてカタチを変えていく。それは当然の理であるから彼女の責任ではないのだが、何かが壊れるたびに、イシュヴァは気まずさを覚えていた。
何かを扱うときにも、それを壊してしまうのではないかと気を張った。たとえば以前、仲間とともに人間の食事の真似ごとをしたことがある。気持ちの良い野原の上に敷物をしいて、仲間の一人に捧げられた神饌を囲んだ。食器を手に取るときは自分でも緊張したし、仲間も固唾を呑んでいるのが分かった。そうしたときに、この美しくも楽しげな空間で、自分だけが場違いのような居心地の悪さを感じるのだった。
(でも、そうか、時間なら壊れないのね)
イシュヴァの性質がウルヴァルドのものを侵さないこと。イシュヴァの性質が一方的な侵略で終わらず、それが自分にも返ってくる均衡のとれた立場であること。こんな相手を見つけられたことで、イシュヴァはひどく安心し、ずっと抱えていた緊張がほぐれた気がしたのだった。
それからイシュヴァは頻繁にウルヴァルドの下を訪れるようになった。
扉の向こうの世界への興味が失われたわけではなかったから出かけることはやめなかったが、ウルヴァルドにその様子を語って聞かせるようになった。ウルヴァルドは扉の向こうの世界については、時間の経過を大きなスケールで感じとる程度にしか知覚していなかったので、イシュヴァの話はとても興味深いようだった。鏡の神に頼んで向こうの様子を映し出してみせたりもした。向こうの食べ物を持ってきたときは、食べ方が分からず混乱していた。
ウルヴァルドはどんな話も穏やかに楽しそうに聞いてくれた。いつしか、イシュヴァはウルヴァルドと共に過ごす温かな時間を大切に思うようになっていた。
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