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見渡す限り、水晶が地から生えている。
一つ一つの結晶が巨大であり、それらが結合して更に巨大な塊を成している。水晶の内側からは青とも緑ともつかぬ光が漏れていて、空もその光を映し、多くの色彩を見せていて、その隙間を縫うように星が瞬いている。水晶と空と星の他にはなにもなく、生き物や植物の息吹はもとより、風すらもない。昼と夜すらも存在せず、ただただ、静寂な空間が広がるばかりである。
塔はそのただ中にまっすぐにそびえていた。果てしなく高い塔の先端は地上からは見えず、塔には入口も窓もない。神々が作りし「世界そのもの」である塔は、井戸のように垂直で、壁は円状になっており、中心部は空洞だ。そしてやはり井戸のように、塔の底には水が張られている。
塔の底、神々の領域。
男神は水面に立ち、塔の内壁に相対していた。
右手にもつ錫杖をじゃら、と一振りすると、足元の水がひと固まり、二重のらせんを描きながら顔の高さに浮かび上がってきた。ぐるぐると動き続ける水に錫杖を振り傾けると、水はレンガの形に落ち着き、燐光を放ちはじめた。錫杖をゆっくりと塔に向かって振るうと、水のレンガは先ほどよりも強い光を放ちながら塔の壁に吸い込まれていった。
やがて光が収まると、塔の壁全体がずず、と音を立てて、下から上に順序よくずれた。この塔、つまりこの世界そのものの時間がレンガ一つ分進んだのである。
一仕事終えた男神が一息吐きながら顔を見上げる。塔の先端からゴ……と地響きのような音が聞こえ、かなり遅れてパラパラと破片が落ち、顔や水面に降り注ぐ。男神は形の良い眉根を寄せ、まっすぐに頭上を睨んだ。
「ウルヴァルド」
パシャ、と控えめな足音を立てながら、男神の背後から一柱の女神が近付いてきた。
女神の名はイシュヴァ。褐色の肌に露出の多い生成りの服をまとい、毛先が灼色の黒髪と、青く光る眼。その煽情的な姿とは裏腹に、ひどく遠慮がちに声をかける。
ウルヴァルドと呼ばれた男神は、頭上を睨んでいた顔を女神には向けず、壁へ、そして足元へと目線を降ろした。
「……やはり、この世界はもう終わりなのだろう。時間を進める度に塔が軋むなど、昔は無かった。」
諦念が滲んだ声で、イシュヴァに語るというよりも、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
ウルヴァルドは時の神として、この世界の始まりから長い長い間、時間を運営し、一寸の狂いもなく塔を築き続けてきた。今では先端を見上げることすら叶わない高さにまで塔は伸びていたが、これまで塔が揺らぎ欠けたことなど一度もなかった。今になって塔が軋むのは、自分が運営する時間が果てまで来てしまった証左だと感じていた。まもなく時間を進めることはできなくなり、それに抗う術を自分は持っていない。だからこの世界は間もなく終わるのだと、彼は受け入れていた。
「ウルヴァルド……!」
イシュヴァがウルヴァルドの背中にしがみつく。ウルヴァルドの顔は眉一つ動かない。
「私、塔の先で何が起こっているか見てくるわ。問題を解決できたらすぐにここに戻ってくる。」
「何柱もの神々が戻ってくると言って扉を開け、そのまま人間の世界に定住していった。扉の向こうは楽しさに溢れた美しいところなのだろう。イシュヴァ、君もこんな、何にもなくなった神々の領域などに縛られなくていい。行きたいところに行き、残された時間を謳歌するべきだ。」
ウルヴァルドの言葉は抑揚に欠けるが、嫌みなどではなくイシュヴァのためを思って言っていることが伝わる。それだけに、その言葉を生み出すまでの葛藤が透けるようで、かえってイシュヴァは苦しさが増すのだった。
「崩壊を呼び込んでしまう私は人間には歓迎されないもの。それに、ここを動けないあなたを置いてどこかに消えてしまうことなんてしないわ。私は必ず戻ってくる。戻ってくるまで、いつもあなたのことを思いましょう。」
「……イシュヴァ、僕も君の身をいつでも案じよう。」
その言葉でイシュヴァは背中からそっと離れ、名残惜しそうにウルヴァルドを視界に収めると、勢いよく塔の先端に向かって飛んでいった。ウルヴァルドはようやく顔を上げ、その軌跡を目で追うのだった。
塔の内壁にはいくつもの扉が螺旋状に並んでいる。
これらはすべて世界への入り口という点では同じだ。扉によって異なるのは、その先に広がる世界がどれだけ時間を積み重ねた世界か、だ。
下の扉はまだできたばかりの歴史の浅い世界。上にいけばいくほど、歴史を重ねた世界。
無数にある扉は、コマ送りの一本の映画のようなものだ。
かつてこの神々の領域にはたくさんの神がいた。そのころ神々は、扉を開けてはその前後を比較して、変化に驚き、楽しんだものだった。遊び心で新しい地形を作ったり、人間に知恵を授けたりして、それがどのように発展していくのか見物し、時には賭けの対象にしたりもした。
やがて神の中に、人間に情が移ったものが現れはじめた。その情は情欲であったり、同情であったり、友情であったり様々であったが、そうしたものは人間界に拠点を作り、だんだんと神々の領域に顔を出さなくなり、やがてすっかり扉の向こうに消えてしまうのだった。
多くの神々がそうして人間界に移り住んでいった。
これでは、扉の向こうとこちらと、どちらが神々の領域なのか分からないな、と誰かが皮肉を込めた冗談を言ったのは、神々の人間界への移住が最も盛んな時期だった。誰もその冗談に返答できなくて、気まずい雰囲気になったことを、ウルヴァルドは妙に覚えていた。一柱、そしてまた一柱といなくなり、今では神々の領域にいるのはウルヴァルドとイシュヴァだけになってしまった。
ウルヴァルドは世界の時間を統べ進める時の神である。職務を離れるということは世界の停止を意味するので、彼だけは扉の向こうに行くことはできない。
どこにも行けないウルヴァルドに寄り添い続けたのはイシュヴァだった。
彼女は何度か扉の向こうに遊びにいったことがある。塔がまだ低く、神々の領域が賑やかだったころに初めて遊びに行った直後は、興奮気味に他の神とその情景について話していた。
扉の向こうを知ってなお、イシュヴァが側に居続けてくれたことは有難く思っていたし、そんな彼女のことを憎からず想っていることは自覚している。しかし、だからこそ、彼女にはこんな寂しいところに居て欲しくはなかった。世界の終わりが近付いているときは、美しく楽しいところにいて欲しい。
「ああ、イシュヴァ、僕はいつも君を案じよう。」
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