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43. 氷解

 激しく水面に叩きつけられたかと思うと、泡と共に水が耳に侵入し、音を奪った。海面に移った月の光がどんどん遠ざかっていく。


 凍てつく冷たさを覚悟したが、予想外に水は思ったほどは冷たくなかった。

 ただそれは冬の海にしては、というだけで、服の中に侵入してきた水が容赦なく体温を奪っていく。すぐに動けなくなるほどではないが、ぼやぼやしていれば体が冷え切ってしまうだろう。


 どのくらい下まで引き摺り込まれたのか、俺は不意に吐き気と頭痛が込み上げてくるのがわかった。水圧が体全体を押し込め、意識が遠くなる。


 これは、海の底に向かっているせいか。


 半魚人の狙いが窒息や凍えさせることではなく、深い海での水圧によって獲物の意識を奪うことだと気がついた。そして、それは半ば成功している。


 死ぬのか?


 最後のグリシフィアの勝ち誇った顔が浮かぶ。それが炎の日のグリシフィアと重なる。次の瞬間、胸を焼く激しい感情が俺の意識を覚醒させた。


 すでに視界は真っ暗で何も見えないが、俺の手はまだエルフの手を掴んでいた。その先で、うっすらと光るものがある。俺は光に手を伸ばすと、それはエルフが持っていた真銀ルシエリ製の短剣だった。


 俺は短剣を手に取ると、絡まりついている触手を切り裂いた。すると切られた触手が苦しみながらエルフの体を離れていった。斬られた断面がうっすらと光り、そこから泡が吹き上がっている。俺は短剣を振るい、残った他の触手も切り裂いた。するとわずかに照らされた水中で半魚人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていくのがわかった。


 さすがは魔除けの短剣だ。


 俺はエルフの体を抱え、無我夢中で海面に向かって泳いだ。水を吸った服が重く、エルフを掴んだ腕が疲労で痺れてくる。酸素不足のせいか、水圧の影響かわからないが、激しい眩暈と頭痛からどちらが上かわからなかった。当てずっぽうに泳いでいると、うっすらと月の光が見えた。そちらに向かって力を振り絞って泳ぐと、海面を抜けた。


 俺は顔を出し、水を吐き出した。それからフェルマリの体を持ち上げて顔を出させる。しかしフェルマリは意識を失っているようで、呼吸をしようとしない。俺は北の島の冷たい空気を吸い込み、喘ぎながらあたりを見渡すと、すでに船からは随分離れていた。海面の流れのせいか、船からどんどん離されていく。そのまま俺とフェルマリは崖の方に流されていった。そこには大きな横穴が空いており、俺たちはその穴の方に吸い込まれていった。


 水温は水面近くでも低すぎるほどではなく、一定の温度を保っていた。真っ暗な中を流されていくうちに、やがて俺は足がつくことに気がついた。フェルマリを抱えて水中を歩いて進むと、やがて水から出ることができた。


 水から上がると、一気に冷気が体を冷やしてきた。水温に比べて空気が冷たく、ここが北の地であることを思い出させた。体感的に、気温は氷点下だろう。俺はフェルマリをうつ伏せにし、背中を踏みつけて水を吐き出させた。するとフェルマリが激しく咳き込み、息を吹き返す音がした。


「おい、聞こえるか?」


 しかし返事がない。真っ暗で顔は見えないが、フェルマリが激しく震えているのがわかる。


「寒い」


 歯の根の合わない声で、譫言を繰り返している


「助けて、ノルディン。ラン…様」


 俺はフェルマリの体を胸の中に抱き寄せ、抱えた。びしょ濡れになったその体は氷のように冷えている。うっすらと光る短剣の灯りで辺りの岩肌を照らした。ここは洞窟になっており、奥の方から湯気が上がっているのに気がついた。壁を触りながら進むと、暖かいお湯が足を濡らした。湯は岩から湧き出て、泉を作っているようだった。


「これは暖かい泉?」


 かつて俺がこの地で暮らしていた頃、故郷の近くに暖かい湯の泉があったことを思い出す。霊峰から流れてくる水は暖かく、厳しい北の地にあってその周りだけは花が咲いていたのだ。

 

 思いのほか海水温が高かったことにも、何か影響があるのかもしれない。理由はわからないが、もし平均的な海の気温であればここまで生きて辿り着くことはできなかっただろう。


 進んだ先の泉は俺のふくらはぎくらいの深さだった。温度は、風呂にしては少しぬるめではあるが、このまま北の地を濡れて服で彷徨うよりははるかに暖かい。俺は湯にしゃがんでフェルマリの体を横たわらせ、その身をつからせた。


 短剣に照らされたフェルマリの顔に、血の気が戻ってくるのがわかった。その頬が濡れている。気を失っている彼女はいつもより随分幼く見えた。その目がうっすらと開く。


「ノルディン?」


 そして気がついたように、ハッと目を覚まして起き上がる。


「お前は海賊!」


 俺はふうっと息を吐いた。


「どうやら、助かったようだな」


 そこでフェルマリは俺の腕の中にいることに気がついたようだ。俺のことを突き飛ばして離れると、暗がりの方へ隠れた。


「貴様、これはどういうことだ。私をどうするつもりだった」


 短剣の灯りを声の方に向けると、エルフが真っ赤な顔をして胸を抑え、こちらを見ている。どうするつもりだった、ね。


「助けてやったのにご挨拶だな。何も覚えていないのか?」


 そこでフェルマリは少し考える素ぶりを見せて、あっと顔を上げた。


「なぜ、私を助けた。私はお前を射殺そうとしたんだぞ」


 なぜ、と問われると困った。理由が思いつかない。そのため、ジョイルが言いそうなもっともらしいことを思いついて言った。


「お前は貴重なエルフだ。死なれては困る」


「あの半魚人に私が引きずられたとき、見捨てることもできたはずだ。だがお前は、私の手を離さなかった。おまえの命も危険に晒されていたはずだ」


「大袈裟な。あれしきのこと、命の危機というほどでもない」


 本当は、一度は死を覚悟したのだが。だが本当に、なぜ助けたのか。確かにこいつには聞きたいことがあるが、命を賭すほどのことではなかった。だがまあせっかくだから、聞いておくことにするか。


「一つ質問がある」


「なんだ?」


「育ての親は、元気にしているのか?」


 その質問はフェルマリの不意をついたようだった。やや間があって、エルフは無言で頷いた。


「そうか。なら、もういい。おまえのことは成り行きで、助けられそうな命を助けただけだ。だから別に恩に切る必要はない」


「私の親、ノルディンを知っているのか?」


 フェルマリが尋ねてきた。俺は無言だった。前世での育ての親だったなどと、言ったところで仕方がないだろう。


「父、ノルディンが言っていた。あるノースフォレストの騎士は、王家の妾腹の子に生まれながら、その剣一本でのしあがり、勇敢な白狼の騎士として、王家を守ったという」


「その騎士がどうした」


「その騎士は国を守るため、魔女と戦った。絶対的な力の前に一度、敗れたものの、騎士は力を蓄え、必ずこの島に戻ってくると、父は信じている。信じて、ノルディンはその騎士を待ち続けている。ずっと、長い時を経た、今にあっても」


 俺は目を見開き、エルフの顔を見つめた。


「ノルディンが俺を、待っている…だと?」


 バカな、もう200年経つんだぞ。そもそも、俺が生まれ変わり続けていることをノルディンは知っているのか? 話したような、話さないような、記憶が曖昧だ。


「その反応、やはりあなたがその騎士、ランス…様なのですね」


 俺は肯定も否定もせず、フェルマリの顔を見つめた。正直なところ、頭が混乱していた。フェルマリは立ち上がると、俺の前に片膝をついて頭を垂れた。


「ランス様!お許しください!あなたとは知らず、私はあなたに矢を向けました!」


 俺は呆気に取られてその様子を見ていた。頭が展開についていけていない。


「私は幼き頃から、あなた様の英雄譚を寝物語として育ってきたのです」


「ちょっと待ってくれ。英雄譚?ノルディンは一体、どんな話をしていたんだ」


「ノルディンはあらゆることを話してくださいました。ランス様は王の妾腹の子として身寄りもなく、田舎の村で暮らしていたと聞きます。しかし周囲の冷ややかな目や嘲りを受けつつも、数々の逆境を乗り越えて兄弟に忠義を尽くし、ついには王国一の騎士となり、国を率いて魔女と戦ったと聞いております。私は伝説の中の、あなたの不屈の精神に憧れ、剣を覚えました」


 フェルマリは熱を帯びた調子で、俺のことと思われる英雄の話をし始めた。確かに筋としては当たらずも遠からずと言った感じだが、しかし、このフェルマリの様子を見るに相当、脚色されているようだ。


 そのフェルマリが不意に表情を暗くした。


「しかし、そのあなた様に矢を向けるなど、どう償えばよいものか。あなたが深い海に飛び込めと命じるなら、この命、直ちに投げ捨てましょう」


「いや、それは困る。せっかく助けたんだし」

 

「確かに、助けられたこの命、軽々しく捨てることはできません!では、せめてこの命、恩人である、ランス様のために使わせてください。フェルマリはあなた様のお役に立ちとうございます!」


 フェルマリの覚悟は固そうだった。それをあえて否定するのも面倒そうだったので、「あ、ああ」と俺は曖昧に頷いた。

<月木更新>


次回は木曜更新になります。

よろしければ、お付き合いくださいね。

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