41. 篝火(かがりび)
明け方に俺は目が覚めて、いつものように船室から甲板に向かった。よろよろと舷側から身を乗り出し、胃液を吐き出す。そこで、いつも真っ暗だった海面がうっすらと赤くなっているのに気がついた。
「ついに、近くなってきたのか」
島影はまだ見えないが、水平線の向こう側に確かに燃えている島があるのだろう。
「上がってくればどう?こちらの方がよく見えるわ」
高台からグリシフィアの声がする。いつものように頬杖をついて、空の向こうを見ていた。
俺は答えずに、その場で船の向かう先を眺めた。水平線からゆっくりと、天に向かって立ち昇る炎が見えてくる。その炎の周囲を囲み、赤く照らされた厚い雲が輪のようにして浮いている。雲は広がりながら、この船の方に近づいてきた。
俺の頬に冷たいものがあたる。雪だ。同時に、風が吹きつけてくる。
俺はよろよろと舷側から離れた。気がつけば波は一時期より穏やかになっている。月の魔法が起こす船の上下運動に鍛えられたためか、これくらいの波であればなんとか動けそうだ。
やがて東の空から光が射し、日が昇ろうとしていた。いくらノースティアの炎が激しく燃えようと、太陽の威光には叶うはずもない。黄金の光が海面を見たし、船を照らし、世界を等しく照らした。
その様子を高台のグリシフィアがなんの感慨もなく、眺めている。光を受けてグリシフィアの髪も黄金に煌めいている。永遠に生きるあの女にとってこれは、何度目の日の出なのだろうか。そんな意味もない疑問が俺の頭に浮かんだ。
船に突如、ドラムの音が鳴り響き、リズムに合わせてジョイルが叫ぶ。
「野郎ども、帆を上げろ!」
「エイ・エイ・サー!!」
ジョイルの勇ましい声に海賊が応え、帆が展開されていく。風を受けて帆が大きく膨らみ、はためいた。
その頃には、遠くうっすらとだが島影が見えていた。中央の高い山の間から、勢いよく炎が吹き出している。誰かが俺の服の背中を掴んだ。振り向くと、キャスリンが炎を見て立ち尽くしている。
「本当に燃えているわ」
「キャス、島には降りなくていい。ここの海賊は頭は悪いが、少なくとも君に危害を加えるほどではないようだ。船で待っていてくれ」
震えているキャスリンは「冗談でしょ」と言った。
「ここまで来て、一人は嫌よ。私も行く」
「どうしてだ、本当に何があるかわからないんだぞ。どうしてそこまでして、俺についてきてくれるんだ。弟だからか?」
俺の問いにキャスリンが答えに詰まる。島の炎に照らされているためか、ほのかに顔に赤みをさしている。
「いいじゃない、別に。大丈夫、足には自信があるもの。危なくなったらすぐに逃げるわ。それに」
キャスリンがニコッと笑って俺を見た。
「危なくなったら、助けてくれるんでしょ。死体に襲われたときみたいに」
「約束はできない」
「約束なんか、いらないわ。とにかく、あなたについていく。初めから、決めてるんだから」
そう言って、俺の背中に頭を寄せた。はあ。俺はため息をつく。
本当に、何があるかわからない。キャスリンを助ける余裕があるか、そもそも自分自身さえ、生きて帰れる保証はない。
「警告はしたからな」
俺の言葉に、顔をあげずにキャスリンが頷いた。
「あらあら、朝からお熱いですな」
ニヤニヤしながらやってきたのはジョイルだった。
「うまく風を捕まえれた。順調なら、あと半日で島の沿岸まで近づけるぜ。島への上陸について話をしよう。船長室まで来てくれ」
ジョイルが自慢げに告げた。だがこの風を捕まえるまで結局、丸5日かかっている。しかし風が止まっているときでも、この船は波に運ばれてノースティアへ進み続けた。グリシフィアによる月の引力の魔法の効果である。
5日間ずっと、グリシフィアの瞳が銀色に輝いており、その間、休まずに魔力を行使していたことを意味する。だが疲れた様子はまったく見せず、いつも余裕の表情を崩すことはなかった。
そのグリシフィアが俺の後に続き、船長室に気だるげに入ってくる。今は魔法を解除したらしく、瞳は元の黒に戻っている。
船長室では、豪華な椅子に座り、テーブルに足を乗せたジョイルが待ち構えていた。黒の長髪を背中に流し、いかにも海賊といった三角帽子をかぶっている。帽子には鎖を噛んだ猛獣の髑髏が刺繍されている。
「鉄鎖海賊団の船長が代々被ってきた帽子さ。俺の偉大さが際立つだろう」
聞いてもいないのにジョイルが語ってきた。海賊帽子に毛皮の黒のマント、恵まれた体格も相まって、確かに誰がどう見ても海賊に見え、威厳すら感じられた。その中身がネジの外れた大バカ野郎だとは、黙っていればわからないだろう。
しかしその威厳は一瞬で崩れた。グリシフィアを見かけると、船長はデレデレとした情けない顔を見せた。
「お嬢!ついに俺の部屋に入ってくれるんだな」
「あなたが呼んだんでしょ」
「君のために特別に作らせた椅子があるんだ。座ってみてくれないか」
「嫌よ。これからも座る予定はないから、樽でも乗せておけばいいわ」
グリシフィアの酷い返答に、しかしジョイルは息を弾ませて嬉しそうにしている。こいつ、マジで頭のどこかが痛んでるんじゃないのか。
気を取り直して、ジョイルが古い海図をテーブルに広げた。教会の印が押された地図は、200年以上前に作られたものだろう。そこに詳細なノースティアの島が書いてある。
テーブルを囲む俺たちを見渡して、ジョイルが口火を切る。
「しかしそもそもの話、上陸できるのか?間近で見るとすげえ炎だ」
「燃えているのは島の中央にある山脈の内側だけだ。山脈の外側は上陸することができる」
今のノースティアを知るフェルマリが答えた。海図を見ながら、何やら考え込んでいる。
「なるほど、じゃあ一番近いのはこの入江だな。ここの地形はわかるか?」
「その入江はダメだ。浅瀬になっていて、座礁する危険性が高い。ここからだと東の入江がいいだろう。割と近いし、風も波も穏やかで、問題なく上陸できると思う」
「海図によれば西の入江もあるようだけど?」
グリシフィアが口を挟んでくる。
「西の入江は距離も遠いし、向かい風の中すすむことになる。それに岩盤も多い。おすすめはしない」
「さすが、詳しいわね」
「この島で生まれ育ってもう80年になるからな。島の地形は頭に入っている」
「なるほど、エルフは見た目通りの年ではないということね」
お前が言えたことか、と胸中で魔女に毒づいた。
「しかし近いとはいえ、入江に着く頃には日が暮れちまうな。雪も強くなってきている。今日は近海で待機だな。上陸は明るくなってからにする」
ジョイルの言う通り、それから雪が強くなった。視界が極端に悪くなり、さっきまではっきり見えていた島影は、雲の向こうにわずかに赤い光が見える程度になった。
「ジョイル、この船は進めているのか?」
「舐めんじゃねえよ、この程度の雪なら問題ねえ。時間はかかっちまうがな」
やがて島の沿岸や岩肌が見えてきたが、すでに日は暮れかけていた。雪の向こうから風に乗って硫黄の臭いがした。船はゆっくりと海岸を見ながら東に回っていく。目的の入江のあたりまでくると、もうすっかり夜だった。
海賊たちが碇を海に投げ込み、掛け声と共に協力して帆をたたんでいく。手筈通り、ここで船を固定して朝を待つつもりだ。
俺は風が弱まっていることに気がついた。エルフの言っていた通り、東の海岸の方は風が穏やかなのかもしれない。雪もちらつく程度になっており、夜を照らす島の炎がはっきりと見えた。波も穏やかで、静かな夜の海を、篝火のように緋色に照らしている。
「綺麗ね」
キャスリンがぽつりと言った。
「恐ろしい、呪われた島だというのに」
俺は無言だった。確かに、美しいかもしれない。だがその炎が200年前にもたらしたものは、地獄そのものだ。俺は胸のざわつきを抑えて、島に背を向けて意味もなく甲板を歩き出した。高台にはグリシフィアが、意味ありげに笑っている。
そこで不意にヘドロのような臭いが鼻をついた。今まで嗅いだ臭いとは異質なもので、島の火山帯から流れてきたのだろうか。
「おわ」
そこで、目の前の海賊が突然、転んだ。俺が手を出す。
「大丈夫か、滑ったか」
「いや、なんか足を取られてよ。って、おめえは船酔い坊や。おめえこそ、船酔いはもういいのか?」
海賊が俺の手を取ろうとしたが、空を切った。その体がすごい勢いで甲板を滑り、悲鳴を上げる間もなく夜の海に落ちていった。甲板には、何かを引きずったような黒い跡がついている。
「キャス!」
俺は咄嗟にキャスリンに駆け寄り、自分のそばに引き寄せた。そのまま、黒い跡の方を警戒しながら、後ろに、船の中央の方に下がる。
「どうしたの?」
「わからない!だが何かが起きた、俺から離れるなよ。誰かいるか!」
「なんだてめええ!」
俺の声と同時に、船の反対側の方から海賊の叫び声が上がる。
「なんだこいつ!やめろ、やめ!うわああああ!」
悲鳴の後に勢いよく海に落ちる音がした。
ぞわぞわと、虫が這うような危機感を覚え、俺は剣を抜く。
腕の中のキャスリンが、俺の服をしっかりと掴むのを感じた。
<月木更新>
次回、42. 暗い底より来たる
木曜更新です。お付き合いいただければ幸いです。




