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38. 遠く、滅びた過去より

R6.1.7 挿絵追加

「どんなことでも、聞いてくれるのですか?」


 姉は涙で濡れる顔を手で覆いながら、震える声で言った。


「はい」

俺は強く頷く。


「なら」

姉が涙に濡れた顔をあげた。

長いまつ毛が、涙の滴で濡れている。

フィリオリはすがるように俺を見つめて、言った。


「私を攫って、逃げて。ずっとずっと、霊峰の道を通って、海の向こうまで…

 こんな嘘だらけの、残酷な世界から…私を逃して」

 




 俺は目を覚ました。ふうっと、息を吐く。


 夢…か。


 最初の生の夢を見たのは久しぶりだった。故郷の島が近づいていることが関係しているのかもしれない。


 あのとき、姉さんの願いを叶えて、霊峰の道を通り、海からミッドランドに逃げていたら、未来は違っていたのだろうか。そうすれば魔女に会うこともなかったし、100万回の生を受けることもなかっただろう。


 愚にもつかない考えだ。それは200年前の、遠く滅びた過去の話だ。


 あのときの俺は、ノースティアの窪地のさらに半分であるノースフォレストしか知らず、外の世界のことなど考えもしなかった。


 だが今の現実の俺は、そのときは見たこともなかった海の上で、そのときとは逆にノースティアに向かっている。


 船が出航して3日になる。北の地が近づいてきているせいか、風は冷たく、夜になればなおさら冷えた。俺は上下厚手のウールを着込み、その上に支給された革鎧とファー付きの黒いマントを羽織っている。腰に吊るした剣はジョイルとやり合った時のもので、そのまま俺に渡され、今に至る。


 俺は胸のむかつきを抱えながらよろよろと立ち上がり、甲板の端までいくと、暗闇の海に向けて吐いた。出航からここまでもう何度目か分からず、絞り出すように胃液が出てくるだけであった。


「酷そうね」


 甲板の高台の上から声がする。俺が涙目で見上げると、夜を照らす満月と、手すりに頬杖をついているグリシフィアが見えた。漆黒のロングフレア・コートの上に、希少な銀狐の毛皮をふんだんに使用したファー・ケープをまとい、その胸には三日月を模した首飾りが下げられている。


挿絵(By みてみん)


 魔女の黒い髪が風に靡き、月に影を作っている。髪の色こそ違いはすれ、その瞳も唇も、夢からそのまま現れたかのようにフィリオリにそっくりだ。


 それがこの上なく、腹立たしい。


「あなたとは昔、船の乗ったことがあった気がするけれど。そんなに酷かったかしら?」


 確かに、俺は海賊の下っ端をしていたことがある。そのときは酔わなかったが、だがもう100年以上前の話だ。肉体も違っているし、感覚も変わるのだろう。


 当たり前だが身体能力はその時の肉体によって大きく変わる。今回の体はなかなか筋肉がつかず、敏捷性はあるが持久力が劣っている。ジョイルとの戦いも、思ったよりも時間がかかったため、悟らせこそしなかったが、後半はバテていた。


「前回のあなたの方がずっと強そうよ」


「やはり俺に気がついていたようだな」


 俺が顔を下ろし、蹲ったまま呼びかける。風に遮られ普通なら聞こえないような声だが、グリシフィアは「まあね」と答えた。


「あなたの荊の紋様、前より大きく、目立つようになっているわ」


「そうか?」


 俺は額に触れた。鏡を見る習慣などない。


 この荊の円環模様に気がついたのは二度目の生のときだ。そのときはうっすらとしていて、気にも止めなかったが、生を繰り返すたびにその紋様は身体のどこかに現れ、色が黒く、濃くなっているのは気がついていた。


 紋様は俺の激しい感情に呼応すると、荊が顔に、肩に、腕に広がっていくことがあった。するとさらにその感情が増幅され、俺の身体能力も飛躍的に向上する。


「その紋様は怠惰の魔女パルシルシフが刻んだものよ。しかし怠惰ではなく、憤怒の感情に呼応しているようね。憤怒こそが、あなたという存在の核だからかしら」


「どんなものだって、利用してやるさ。お前を殺すために」


「ふふ、頼もしいわ。けれど、その紋様の力では私には辿り着けない。魔女の力で魔女を殺すことはできないわ。当たり前でしょ?それができれば、私たちは苦労していないものね」 


 私たち。教会の教義の通りであれば、7つの大罪の名を持つ7人の魔女がいるはずだ。永遠に生きる彼女たちは共通の目的として、自らの不死を終わらせる方法を探しているそうだ。


「紋様の存在感は見た目よりも大きく、強くなっているわ。近くにいれば、簡単に気づくことができる。一つ忠告させてもらうと、あなたを見つけるのは私だけではないわ」


「他の魔女たち」


「みな、多かれ少なかれ、あなたの動きを気にしている。いつか、あなたの前に現れるかもしれないわね」


 傲慢の魔女であるグリシフィア以外で会ったことがあるのは、すべての発端となる、怠惰の魔女パルシルシフだけだ。小動物に囲まれて眠りこけている、幼い姿を思い出す。そのときはフィリオリも一緒で、まるで花の妖精のような姿に無邪気に喜んでいた。


 だが目を覚ました彼女はおとぎ話とは程遠い存在だった。童女の顔で悪魔のように微笑み、俺に語りかける。


「ひゃくまんかいだ。おまえに100万回の生をやる。だからおれの代わりに考えてよ…おれたちの、行く末をさ」


 彼女の額への口付けにより、凄まじい光の洪水が俺の心臓に吸い込まれていき、そして俺は本当に死と生を繰り返す存在となった。この上なく非現実的な、俺の現実だ。それを可能にする魔女という存在。


 そんな存在が、他に5人もいることになる。


「それはともかくとして、約束は覚えているわね」


 魔女の楽しそうな声がする。見てはいないが、いつものように俺を見下ろしているのだろう。


「覚えているさ。イフリートの角を持ち帰ればいいんだろう」


「約束を違えれば、私の生涯の奴隷になるのよ。あなたが生まれ変わっても、そのまた次の生も、ずっとよ」


「そのときは好きにするといい。だがイフリートなんて、本当にそんな魔物がいるんだろうな。実際に見たものはいないんだろう?もし存在しない魔物の話だったら、この約束は無効だからな」


「イフリートはいるわ。あなたたちにとっては、本物の化け物よ。勝てるとは思えない。もし出くわすことがあれば、ここの気楽な海賊なんて船ごと松明と化すでしょう。よく肉を食って脂肪を蓄えた彼らだもの、そのときはよく燃えるでしょうね」


 魔女が世間話のように言った。自分の募った船団の話とは思えない、冷淡な口調だった。俺が押し黙っていると、「安心しなさい」と魔女が続ける。


「そもそも、あなたたちはイフリートまでたどり着くことすらできないわ。イフリートは島の中央、燃え盛る火炎の中で、何かを守っているかのように動かない」


「守っている?何を守る」


「さて、そこまではわからないわ。何かの財宝か、もしくは」


「もしくは?」


「イフリートを従わせる、もっと恐ろしい存在がいるのかも」


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作中の回想:

8-9 嘘と姫君(前)(後)    フィリオリ

11. 運命の目覚め     怠惰の魔女パルシルシフより抜粋

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