32.悩み事
波乱に満ちた炊き出しが終わってから幾日かが過ぎた。事件の多かった炊き出しの一件から一転して、私のここ数日の生活は平穏そのものだ。
強いて言うとすれば、廊下でばったりと顔を合わせた総主教に「侯爵令嬢殿を危険に晒すとはなんたることか!」と絡まれたくらいだが、偶然その場に居合わせたガウス翁が「グランベイルの令嬢なら大層満足されたと聞いておりますが」
と返すと、顔を真っ赤にして踵を返してしまった。面倒ごとに発展しなかったのはガウス翁に感謝するけど、私自身転生者のお目付け役になれていたかというとそうではないし、総主教の言うことも一理あったので微妙に悪いことをした気分だ。
あと変わったことと言えば、ソフィアが友達に会いに行くと言ってどこかに行くことが多くなったことくらいだろうか。確認したところエラやマイラのところではないようだし、一体どこに行っているのかは気になるところだけど、私にも秘密にしたいみたいだし、プライベートなことなのだろうと勝手に納得している。
とにかく、炊き出し以降特段大きな事件も無く、私は一介のシスターとして安穏とした日々を享受していた。
太陽もまだ登り切らないような朝、今日も今日とて私はシスターとして活動を始める。いつも通り服装を整えて、担当場所の清掃に向かうのだ。
シスターになった当初は服を着ること一つとっても貴族時代と勝手が違いすぎて、着るのも脱ぐのも一々ソフィアに手伝って貰っていたけれど、今ではそれも手慣れたもので、物の数分あればしっかりと着衣も出来るようになった。清掃も配膳も、ここに来てからは初めて尽くしで最初は失敗ばかりだったけど、案外これらも悪くない経験だったと思う。
私が朝の用意をしつつも、ささやかな感慨に耽っていると、コンコンと扉がノックされた。
こんな早朝に部屋を訪れる客というは珍しい。訝し気に思いながらも私がどうぞと返すと、ガウス翁の付き人ゼニルがゆっくりと扉を開けて部屋へと入ってきた。
「朝早くにに失礼します。ガウス様からの言伝を持ってまいりました」
「わざわざありがとうございます。それで、言伝というのは?」
「はい。禁書庫の中にお探しのものと思われる書物が見つかりましたので、その報告と受け渡しを」
ゼニルは懐から厳重に布が巻かれた本を丁寧に取り出すと、私に差し出した。お探しのもの、というのは魂や邪法に関係する書物だろう。
ガウス翁が以前、私の身体を取り戻す方法を探してくれると言っていたのでその一環か。
「これは本来持ちだし及び閲覧禁止の品なので、決して他の方には見られないでください」
ゼニルが辺りに注意を払いながら私に小声で囁く。それほど本来は部外秘あたるものなのだろう。
「ガウス翁も結構無茶をするものですね」
「全くその通りです。あの方はいつもいつも……!失礼。禁書庫に貴女が入られるよりはこちらの方が良いと判断されたのでしょう」
「そ、そうですか」
ゼニスの言葉の端々から滲み出る苦労人感がそこはかとなく涙を誘う。きっと、ガウス翁にいつも無茶を言われているのだろう。それだけ信頼されていると言えばいいのか、便利使いされていると言うかは難しいところだ。
「しかし、それなら内容を書き写して持ってくるでも良かったのでは?ゼニルさんにお手間はかけさせますけど、安全性はそちらの方が高かったはず」
「確かにその方が安全ではありましたが、私どもには目を通す許可は与えられておりませんし、そもそも目を通したところで理解も出来ないのでどのように書き写せばよいかわかりません」
ゼニルは肩を竦めると、本を包んでいた布をほどく。私はそれを受け取りマジマジと見つめた。この本、表紙の古めかしさもさることながら、一番目に着くのはその表紙に刻まれた文字だ。
「見た通り、この本は古語で書かれておりまして。ガウス様はこの本だろうと言ってはいたのですが、私は古語には通じておりませんし、それなら私がどうこうするよりも直接フィリス様に渡した方がいいだろうというガウス様の判断でして」
「なるほど。この言語は……なんとかなると思います。特別明るいわけではありませんが、少々学んだことがありますから」
それは相当に古い文字で書かれていたが、幸いにもそれは教育の中で触れたことのある文字だった。あの勉学の日々がこんなところで役に立つなんて思ってもみなかったけれど。
ゼニルは私が本を受け取ったのを確認すると、軽く一礼をして去っていく。私はと言えば、身体のことを思えばいち早く本の解読にかかりたかったけれど、かと言って私に充てられたシスターとしての役割を放棄するわけにもいかず、受け取った本を厳重に仕舞いこんでから、清掃に向かった。
それからまた数日、古書の解読は思っていたよりも順調に進んでいる。この本のタイトルは訳すと「魂の行方」というものらしく、まだ全貌を把握したわけではないし一部解読の異様に難しい部分はあるけれど、概要としてこの本は主に魂に干渉する方法を書いた本だった。内容的には間違いなく禁書指定ものだし、それこそ他人に知られれば事になるようなものだ。
私には絶対に必要なものではあったけど、これを部外者の私に貸し出すガウス翁の豪胆さには恐れ入るばかりだ。
そして、その慧眼にも。結論から言うと、この本には私の欲していた情報が載っていた。
身体と魂の交換を行う古の魔法とその行使。そして、魂の返還について。
私が本を読み解いたところ、一度交換した魂と身体を入れ替える術は二つ。
一つ目は、術の行使者の同意の元、詠唱を用いて魔力を互いに流す方法。
二つ目は、意識のない対象に大量の魔力を流し込む方法。
私はこの方法のどちらかを以て転生者から身体を取り戻すことになるだろう。出来ることなら、一つ目の方法を使いたい。転生者と話し合ってお互い納得できたなら、きっとそれが一番だから。
でもこれはあくまで理想だ。何よりもこの方法はリスクが高いのだ。一度拒否されてしまえば、警戒された私はきっともう転生者には近づくことすら出来なくなるだろう。だからこそ、理屈で言えば二番目の方法が私の身体を取り戻すのに最善なのは間違いなかった。
期せずして突き付けられた難しい二択に私は頭を抱えた。どちらにも選ぶ理由があり、すぐにこれと決めれるようなものではなかったから。
いっそ、このことをソフィアに相談してしまおうか。一瞬そんな考えが頭を過ったけど、すぐに頭を振ってその考えを頭から追い出す。ソフィアとはある程度情報を共有しているとはいえ、こんなことまで知る必要はない。
こんなもの、知っていたってソフィアには何の得にもならないどころか危険でしかないだろうから。
考え込んでいる内に時は流れ、ふと現在時刻に思いをやった頃にはソフィアに勉強を教えると約束していた時間になっていた。
まだ考えは纏まらないけど、それはそれでこれはこれ。悩みを振り払うように頭を振ると、私は気を取り直してソフィアの部屋に向かった。
「つまり生まれつき得意な魔法属性というのはある程度決まっていて、そのために光に属する回復魔法を扱える者は少ないという訳。わかった?」
「うん。でも、色んな人が使えるような魔法があるのはどうして?例えばフィリスさんが皆に教えてた魔法とか」
「それは詠唱が確立されているからね。得意でない魔法でも効率的に扱えるようにするのが魔法の詠唱なの。だから、汎用魔法って言われてる魔法はこの詠唱が確立されているか居ないかというのが非汎用魔法との違いになるわけだけど、例で挙げた回復魔法は特に使い手が少なくて効率化が全く進んでいないの。逆に、理論上は効率化の手段さえ見つかってしまえば誰でも回復魔法を扱えるようになるかもしれないわね」
ソフィアは納得したように頷くと、石板に魔筆を走らせた。時折、過去の授業内容を見返しながら自分なりに授業について纏めていく彼女の姿は、つい最近まで教育を受けていなかった人のそれとは思えない。
過去に書き記したことを魔力の登録によって呼び出せる、学習にうってつけの魔筆の存在も相まって、彼女の学力は既に下位貴族の次男程度には仕上がってきていた。
「キリのいいところまで来たし、そろそろ終わりにしましょうか」
進捗的にも時間的にも今日はこのくらいだろうと判断した私の一声で授業は終わり、いつも通りにその片付けをしていると、おずおずとソフィアが近づいて来て、躊躇いがちにに私の袖を軽く引いた。
「あの……話したいことがあるんだけど、いい?」
「勿論。授業で解からないことでもあった?」
「ううん。そうじゃなくて、その、ある人たちとどうやって関わればいいのかわからなくて」
「ある人たち?」
「その、なんていうか、わたしのことが嫌いな人たちなんだけど」
ソフィアの声のトーンが段々と落ち込んでいく。ソフィアのことだから嫌われてることを自身のせいにして気に病んでいるのだろうけど、さて。軽く考えてはみたが、ソフィアの言うある人たちというのに検討がつかない。ソフィアに直接訪ねれば教えてはくれるだろうけど、あえてぼかしたということは出来れば言いたくないということだろうし。
かと言って、ソフィアのことを嫌っている、正確には敵視している人物は前より減ったとは言え以前多い。ソフィア自身が吹聴しているわけではないけど、ソフィアがこの世ならざる者が見えると嘯いていると唱える者は総主教の手の者を筆頭に幾らかいるし、それを間に受けて(ある意味事実ではあるが)ソフィアのことを嫌っている神父シスターも居る。
つまるところ、該当者が意外に多く、誰のことを言っているのかが分からないというわけだ。でもいざとなればソフィア自身が誰かを言うだろうし、言わないということは理由があるのだろう。そう信じて、私は誰かを聞かないまま話を進めることにした。
「その人たちがどうしたの?」
「元々仲は悪くなかった人、だと思うんだけど、わたし、その、視えるから。昔、そのことを言っちゃったせいでそれから色々言われてて。あ、それ自体はいいの、半分くらいは本当のことだから。でも、最近なんだかこのままじゃダメなんじゃないかなって思えて来て。どうにかしたいんだけど、どうすればいいかわからなくて」
「なるほどね。何を悩んでるのかはわかったけど、私じゃ当てにならないかもしれないわね。私も人付き合いはそんなに得意なわけじゃないから」
私が肩を竦めて言うと、ソフィアは「えっ」と驚愕の声をあげた。
「私も交友関係は広かったけど、それは貴族としての交友で、気心知れたなんて言える仲の人はそれこそ片手で数えられるくらいしか居なかったわよ。だから表面上仲良くしたりそれとなく遠ざけたりする方法は教えられても、本当の意味での付き合い方は私にもよくわからないわ。それとも、そう言った表面上の付き合いがソフィアの教えて欲しいもの?」
私の言葉にソフィアはしばらく考え込んだ後、ゆっくりと頭を振った。
「多分、そういうのはちょっと違うと思う」
「なら私から教えれることは一つね。話し合うしかないわ。お互いがお互いの話に耳を傾けれるようになるまで。それはすごく難しくて辛いことだから、どうしても疲れたり無理だって思ったら話を聞いてあげる。私に出来るのはそのくらいね」
「ありがとう。そうしてみるね」
吹っ切れたように頷くソフィア。ソフィアは覚悟を決めたようだけど、直接ぶつかっていくということは、どうしても敵意や悪意も一身に受けるということで。焚き付けたのは私だが、やっぱりどうしても心配になってしまう。しかし、無理だったら話を聞くと言った手前、何も起こっていないのに私がその話あいに着いて行ったらソフィアを信用していないことにもなるし……。
悶々とする私の手を、急にいつの間にか私に近づいてきていたソフィアの手が包んだ。
「その、それで、私はフィリスさんと、仲良しだと思ってるから!」
ソフィアの頬を紅潮させながらの唐突な友人宣言に、私が疑問符を浮かべていると、恥ずかしげなソフィアが言葉を続ける。
「さっき、きごころの知れた仲の人はあんまり居なかったって言ってたから……わたしも居るよって、言いたくて……」
段々と尻すぼみになりながら、蚊の鳴くような声で呟くソフィアに、私は何のことを言っているのかようやく思い至った。
ソフィアは私が言った「気心の知れた仲の人は片手で数えられるくらいしか居なかった」という部分を気にしていたようだ。
私自身はただの事実として言っていたし、何も気にすることは無かったのだけど、ソフィアにはそれが引っ掛かっていたらしい。
そのことに気付いた私は、思わずくつくつという笑いを喉から漏らした。そんな私をソフィアが不思議そうに見上げる。
「わざわざ言わなくても、元々ソフィアのことは勘定に入ってるわよ。まあ、でもそうね。私も、貴女には感謝とか恩とかあるけれど、今はそういうの抜きにしても仲良く出来ればいいなって思ってる。ソフィアのこと、好ましい人だって思ってるもの」
常々、優しくて、でも芯の強いところもあるソフィアのことを私は友人として好きだと思っている。いい機会だからとその思いを伝えると、ソフィアは真っ赤になって蹲ってしまった。
そんな彼女につられてか、私の頬もほんのちょっぴりと熱を帯びていた。