30.貴女は
あの後、私とソフィアは魔法の合図を見てやってきた警備の人たちに、炊き出しが行われる予定の広場まで案内された。転生者は入れ違いで、人混みに流されているところをマリーが確保したとのことなので、ともあれこれで一応事体は一旦落ち着いたらしい。
私は広場に着くなり、そのまますぐに近くにある仮設の休憩所に押し込められて、改めて手首の手当をしてもらった。私としては足を痛めながら行っていたダンスの稽古に比べれば痛みも大したことは無かったし、班の他の人にも迷惑が掛かるので手当を終えたらすぐ広場に戻るつもりだったのだけど、
いざ広場に戻ろうとしたらソフィアに凄い剣幕で怒られ、休んでいるようにと言われてしまった。どこか泣き出しそうな雰囲気で怒るソフィアを振り切ってまで広場に戻ることは私には出来なかったし、事情を聞いて休憩所にやってきたエラとマイラにもいいから休んでと釘を刺されたので、結局私は広場に戻ることは無く、休憩所でじっとしていることになった。
ソフィアとエラとマイラを広場に送り出した私は、誰も居ない休憩所で一人思考に耽る。先ほどの、大男について。ひいては、その裏に居る者に。元々、グランベイル家は家柄だけは比較的上位層に当たる、敵も味方も多くなく、少なくもない程度の家だ。それが王家に急接近することになった裏事情まではわからないけど、そのことで貴族間の趨勢は私の知ることから大きく変わっているに違いない。
だが、誘拐や暗殺を目論むような家はそう多くないはずだ。いや、正しくは、目論めるような、それを行った後で関与をもみ消してしまえるような家はそう多くないはず。
「グランベイル家に手を出すのであれば、王家入りすることで権勢が脅かされかねない公爵家?ハイリル侯爵やシュレッド侯爵の線もあるかしら。牽制しつつ穏便に済ます方法があるとすれば……」
考えに没頭していた私は、口から考えていることが漏れ出ていたことも、近くに人が居たことにも気づかなかった。
「フィリス様?」
「ひゃい?! あ、マリー……さん」
「何度かお声をかけたのですが、ようやく気が付かれたようで」
マリーは手に持っていたお盆を手近な台に置くと、その上に載っていた水と、痛み止めを差し出してきた。どうやら、マリーはわざわざこれを持ってくれたみたいだ。
まず休憩所に人が入ってきたこと自体気付かなかったし、しかも、何度か声をかけたということは、私は相当思考に没頭していたらしい。
驚きに目を瞬かせる私の顔を見てマリーは突然、堪えられなくなったようにふふっと笑った。
「……失礼しました」
「えっと、私の顔に何か?」
「いえ、そういう訳では無いのです。ただ、驚いた時の様子があまりにも以前の主と酷似していたので、つい」
慌てて弁解するマリーの言葉に、私は心の中で首を傾げる。マリーが私に仕える以前に誰かに仕えていたという話は聞いたことがない。今もアイリス・グランベイルに仕えてみたいだし、以前の主という人物に思い当たるところがない。
「以前の主、とは?」
「さる貴族の方です。とても努力家で、心の優しい方でした。その方は驚いた時や怖い時、癖で必ず瞬きの後、目を少しだけ細めるんです。丁度、今のフィリス様のように」
言われて、思わず私は指で自分の目尻に触れる。私にそんな癖があったなんて、気が付かなかった。もしかして、私がアイリス・グランベイルだった時、人前では感情を露わにしないようにと、驚いた時にも表情を殺していたと思っていたのに、こんな癖が出ていたのだろうか。
もしそうなら、恥ずかしいどころではない。マリーもマリーで、何故いってくれなかったのか。私にもそうだけど、前の主も貴族なら、その癖は早急に直すためにマリーは今からでも教えてあげた方がいいと思う。
「私にそんな癖があったなんて、早めに直さないといけませんね」
「いえ、そのままで良いでしょう。廊下の角で人にぶつかりそうになった時、虫が目の前に飛び出てきた時、雷の止まない夜に一人でいるとき、私の主は決して表情を崩すことはありませんでした。
ただ、その癖だけが、自分にとって主の気持ちを推し量るためのサインだったのです。だからこそ自分はあえてその癖については教えませんでした」
私を見ながら、その実私を通して昔を見ているかのように感慨に耽るマリーに、私は何も言うことが出来なかった。言葉の端々から、その主をいかに慕っていたのかが伝わってきて、私が初めてマリーに出会ったとき、マリーをすぐにでも解雇して、その主の元に戻してあげることが正解だったんじゃないか、そう思えたから。
「出来る事ならばその人に一生仕えたかった。アイリス・グランベイル様に」
「ん?待って、マリーさんの今の主はアイリス様でしょう?では一体誰の話をしていたの」
「今の主であって、今の主ではない人です」
すっとマリーの目が据わり、見たことも無いような真剣な表情で私の目をじっと見つめる。
「自分は今、愚かな妄想をしています。もし、これから自分が言うことが全く間違っているのであれば即刻違うと切って捨ててください。ただ、あまりに似すぎているのです。仕草も、癖も、先ほどあなたが呟いていた内容も、私の以前の主をそこに見ました」
まさか、という思いが私の頭の中を支配する。わかるわけがない、私がアイリスであることなんて。普通なら、思い至るはずもないのに。
マリーは軽く息を吐きだすと、強い決意を秘めた瞳で私を射抜いた。
「あなたは、アイリス・グランベイル様ですか」
「……そうよ」
震える声で絞り出すように返事をする。嬉しかった。マリーが私をアイリスだと解ってくれたことが。私のことを、そこまで慕ってくれていたことが。私を、見つけてくれたことが。
「アイリス様!」
マリーが私を抱きしめた。いつも屹然としていた彼女が、目に涙まで溜めて。つられて私の目頭も熱を持つ。けれど、元主として、マリーの前で無様なところは見せたくないから。私は、涙が零れてしまわないようにほんの少しだけ上を向いた。
「久しぶりね、マリー」
どうか、涙で声が揺れていませんように。
再開を喜びあった私たちは、改めてお互い今まであったことを話合った。私は、フィリスとなった経緯を、教会の部外秘の部分はボカシて伝え、マリーは私の居なかった間の家や転生者の話を。
「では自分がグランベイル家を出て、フィリス様に仕えます」
「ちょっ、ちょっと待ってマリー」
「? なんでしょうか」
真顔で言うマリーの目は本気だ。ここで私が了承の返事でも返そうものなら、明日にはグランベイルを出て教会のシスターにでもなっているに違いない。勿論、本当にそうなってくれれば嬉しいけど、それではダメな理由もある。
「私は今、人を雇えるような立場でもなければ、誰かに仕えられるような身分でもないのよ。だから一旦落ち着いて、ね」
「それならば、表向きはシスターとして生活します。その上でフィリス様に仕えれば問題ないかと」
マリーの決意はオリハルコン並の硬度を持っているようで、正面から当たったのでは、とても砕けそうにない。このままでは埒が明かないと判断した私は、少し話を横道に逸らすことにした。
「マリーは……マリーはどうしてそこまでして私に?」
「自分は一介の使用人です。お給金のために誰かの世話をする、そんなお仕事です。ですが、仕事やお金なんて関係なく、自分は貴女に仕えたいんです。誰よりも努力家で、誰よりも自分の損を厭わない優しい貴女に。アイリス様が今、苦境にあるというのであれば猶更ご一緒したいのです」
真摯に訴えかけてくるマリーの声が、瞳が、表情が、そこに嘘一つないと語っている。元主として、こんなに嬉しいことは無いだろう。だからこそ、やっぱり私の返答は決まっていた。
「ありがとう、マリー。私も、貴女が近くに居てくれればどんなに心強いことかと思うわ」
「でしたら!」
マリーの言葉を手で遮って、私は首を横に振る。
「だからこそ、マリーにはグランベイルに居て欲しいの」
捨てられた子犬のような目で私を見つめるマリーを出来るだけ悲しませないように、貴女が要らないということではないと伝わるように、私は出来る限り柔らかく笑う。
「転生者のことをお願いしたいのよ。転生者は悪い人ではないと思うけど、貴族として足りないところもあるみたいだから、そのサポートを、ね。それに転生者も、いきなり貴女がいなくなったら困ると思うから」
「またそうやってアイリス様はご自身以外を優先して……」
子犬のような表情から一転、呆れたように、額に手を当てるマリー。貴女の願う形とは違う形になってしまってごめんなさい、そう口にしようとした私よりも先んじて、マリーは勢いよく顔を上げ、口を開いた。
「はあ……そのような貴女だから、自分は仕えようと思ったのです。わかりました。自分は当分グランベイルに居ることとしましょう。アイリス様も、いつか今のアイリス様から身体を取り返すのことですし、それまでグランベイルの名をどうにか守って見せましょう」
大仰に礼をしながら、力強く笑うマリーは、誰よりも頼もしく見えた。
「それに、アイリス様は良き方向に変わられたご様子ですから、自分が居なくとも大丈夫なのでしょう。表情も全体的に柔らかくなられた。昔はもっと、無表情の下に全てを隠そうとしておられたのに。アイリス様を変えたのは、あの随分と仲良さげにしていたシスターの少女でしょうか?」
揶揄うような口ぶりで尋ねるマリーに、何故かよくわからない焦りのような感情が心の底から湧いてくる。
「あ、いや、仲良さげにだなんて、ソフィアには色々と助けて貰ったりもしたし、教わったこともあるから変わったっていうのも間違いじゃないんだけど、ソフィアとはそういうのでもなくて」
自分でも驚くくらいしどろもどろになりながら、言葉を探す私に、マリーは大きく目を見開いて唖然とした後、突然大きく笑いだした。
「はっはは!いえ、失礼しました。自分としたことが声を荒げるなどと」
「そこまで笑うことはないでしょう!」
「だから、失礼と。しかし、良かった。アイリス様は随分と、年相応になられた。本当に、心から喜ばしいことです」
笑いすぎて目に涙を溜めたマリーを頬を膨らませた私が睨む。マリーは涙を軽く拭いながら息を整え、口を開いた。
「安心しました。アイリス様のこと、そのソフィアという少女に任せ、自分はグランベイルへと戻るとしましょう。しかし、私が仕えるのは貴女です。それだけは、お忘れにならないでください」
「勿論よ。でも、だからって転生者のこと、蔑ろにはしないであげてね。マリーに限ってそんなことはないって信じてるけど」
私たちは互い笑いあい、もう一度だけ抱擁を交わすと、マリーは一礼と共にその場を去っていった。
その後、マリーはグランベイル家で巻き起こる騒動を教会に居る私まで伝えてくれるようになるのだけど、それはまだ、先のお話。