3.殿下
2021/07/07加筆修正
私が身体を奪われてから数日が経った。私は今、屋敷の自室を自分の偽物、仮称転生者と一緒に、と言うか一方的にだけど、同じ部屋を使っている。
初日は窓に阻まれて部屋に入れなかったけど、翌日、掃除の時に使用人が開けた窓から滑り込んだので寒空の下でずっと過ごすような事態にはならずに済んだ。
身体を取り戻せたら、あの使用人には是非感謝の品を贈呈したい。
あれから、部屋に訪れる転生者や使用人にも話しかけてみたりしてアプローチを試みたけど、誰一人私の存在に気付いてはくれなかった。中でも一番信頼している侍女のマリーに完全に無視されたのはかなり心を抉られた。勿論マリーが悪いわけでもないし、
意図して無視しているわけではないのはわかっていても、辛いものは辛い。それ以来、私は話しかける以外にも自分に気付いてもらえないかと色々方法をと試してはみたけれど、結論から言うと全てダメだった。
まず、試していく経過でこの身体について幾つかわかったことがある。一つは、浮遊出来ること。と、言っても自分の身体の高さくらいで限界だし、頑張っても走る程度の速さでしか動けない。本当に浮いているだけだ。
1つは物に触れないこと。物の大小に関わらず、物体に触ることが出来ない。触ろうとすると薄い膜のようなモノに阻まれる感触があって、やんわりと弾かれるからだ。これはドアや壁も同じで、そのせいで私は一度部屋に閉じ込められてしまうと、次に誰かが扉を開けてくれるまで、
私は自分の意思ではその部屋から出られなくなる。一度、何か元に戻る手がかりはないかと屋敷中探しているときに空き部屋に閉じ込められかけてからは、転生者を観察する目的以外では基本この部屋に居るようにしている。ただでさえ誰からも認識されなくて心細い思いをしているのに、真っ暗で寒々しい空き部屋に一人、しかもそれが次に誰かが部屋を開けてくれるまでずっと続くだなんて考えたくもない。
次に食事が要らないこと。身体を奪われてから、私はずっと食事をしていないけど、お腹が空く気配すらない。尤も、仮に食事が必要な身体だったら私はとっくに餓死していた。
だって物に触れないから。触れないのに食事が出来るはずもなく、そんな状態で屋敷の中で人知れず餓死だなんてことになったら笑えないにもほとがある。
ちなみに睡眠は普通に出来る。もしかしたらこの身体には不要なのかもしれないけど、寝なかったところで自分では扉一つ満足に開けれないこの身体、誰も居ない夜中に出来ることなんてほとんど無いので、素直に寝る他ない。
もう一つは他人から認識されないこと。話しかけても気付かれないくらいはわかってたけど、改めて試してみると本当に何をしてもダメだった。淑女らしからぬことだけど大声で話しかけたり歌ったり、触ってみようとしたり、手で仰いで風を送ろうとしてみたりしたけど、やっぱり気づかれる素振りすらなかった。
でも大声で歌っていた時、実はちょっとだけ楽しかったのは認めよう。
加えて、今の身体では魔法が使えない。魔力が安定していないような、そんな不思議な感覚があるのはわかるんだけど、その原因がわからない。もし魔法が使えれば、そこから誰かに私の状況を伝える糸口になるかもしれないから、定期的に魔法が使えないかどうかは試していきたい。
最後に、ある意味これが一番の問題なのだけど、私はこの屋敷から出られない。正確には、屋敷の周りに見えない壁のようなモノがあって、通ろうとするとそれに阻まれてしまう。私以外の人間は普通に出入りしていたし、私もこんな身体になる前はそんなものに出入りを阻まれた記憶も無いので、今の私にだけ作用するか、私のようなものにだけ作用する壁なんだと思う。
恐らく何かの魔法だろうけどそんな魔法聞いたこともないし、そもそもなんでそんなものがうちにあるのかもわからない。ただ一つわかるのはこの壁がある以上、私はこの屋敷の中だけでどうにか身体を取り戻す方法を見つけなければいけないということだけだ。
結局全てを纏めると、今すぐ死ぬことはないけど八方塞がり、という感じだった。何も出来ないまま、ただただ孤独を感じる日々は、私の心を苛んでいく。
更に悪いことに、それと同じくらい私の心を苛むものが、今この屋敷にはいる。転生者だ。
元々身体を奪われたこともあって転生者に良い感情は抱いて居なかったけど、それを置いても転生者の行動は問題だらけだった。
手始めに、朝、身支度を使用人が整えるのを待たずに部屋から飛び出す。そのまま屋敷内を走りまわり、食事の時にはカトラリーと食器をぶつけて一人演奏会。立ち居振る舞いも、控えめに言って侯爵令嬢のやってよいそれではない。
挙句授業を抜け出して、服を土塗れにして帰ってきたこともあった。その他数々の淑女らしからぬ行動は、他の貴族に知られればたちまちお茶会での笑い話に変わるだろう。ただでさえ、他人の傷一つ見つければそれを喜んでほじくり返すような貴族社会で、そんな風聞が立てば致命的になる。いざ私が身体を取り戻せても、その時既に社会的な死を迎えていたのでは意味が無い。
思うに、転生者が何者かは知らないが少なくとも貴族の生まれではないのだろう。知識としてマナーや礼儀を少し知っている節はあったけれど、実践は出来ていない。そもそも聞きかじっただけで実践できるなら、私も長い年月をかけて淑女教育なんてものをやっていない。
知識はある辺り、商家か何かの出だろうか。時々転生者が呟く”ニホン”というのが、文脈から推察するに出身地か国なのだろうけど、寡聞にしてそのような場所は聞いたことがない。
とにかく、このままいけば遠からず私の貴族としての体面は地に落ちることになる。いっそ、せめて私の声が届けば転生者に色々教えて――
『いや、それは流石に本末転倒ね……』
幸い、この屋敷の使用人は今はまだ見て見ぬふりをしてくれている。彼ら、彼女らとは日頃から信頼関係を築いておいて心底良かった。雇い主の娘と波風を立てたくないというのもあるだろうけど、それでもありがたい。
侍女のマリーだけは急変した私を心配して、何度も体調や気分を訪ねているけど、転生者は特に気にした様子もなく流し、余計にマリーが心配を募らせる悪循環に陥っている。このままいくと逆にマリーが心労で倒れてしまわないか、その方が心配なくらい。
『マリーが倒れるようなことになる前にはなんとかしたいけど』
それにマリーも気掛かりではあるけど、目下すぐ問題になりかねないことは他にもある。それはこの屋敷に来客があった場合だ。特に、お父様ではなく私に対しての来客が。これまでの私は模範的な貴族子女であろうとしていたし、またそれなりにそうだったと思う。
けれど、今のアイリス・グランベイル。つまり転生者を来客が目にした場合、最悪、来訪者によっては私の悪名が即座に貴族間に轟くことになる。
『お父様は相変わらず私のことには興味ないみたいだし、私がなんとかしないと』
私が決意を新たにしていると、タイミングが良いのか悪いのか、外からカラカラと馬車を引く音が響いてくる。チラリと窓の外を覗き見ると、入り口に豪勢な馬車が止まっているのが見える。間違いなく私が恐れていた来客、しかもかなり高位の貴族だろうことが馬車から見て取れる。
あえて見て見ぬふりをしていたけど、今日ずっと転生者が機嫌よく何かを準備していたのは、まさかとは思うがこの来客を待っていたからだろうか。まあ今日、と言うよりは3日ほど前にお父様から何か話があったらしい時からずっと機嫌よくしているのだけど。ちなみに私はその時丁度空き部屋に閉じ込められかけていたので、話の内容は知らないし、お父様からの話だというのも転生者の独り言から判明したことだ。
しかし、ほとんど私と関わらないお父様がわざわざ話を持ってくるような来客というのは、嫌な予感しかしない。
来客について何かわからないかと私が窓から馬車を観察していると、コンコンと扉がノックされた。転生者がどうぞ、と言うと侍女のマリーが一礼をして部屋に入ってくる。
「アイリス様、エリオット殿下がご到着です。アイリス様も庭園の方へ」
「わかったわ。やっぱりゲーム通りね!あとはルートにさえ気を付ければ、悪役令嬢の私でもなんとかなるはず」
「げーむ?るーと?何のことでしょうか」
「なんでもないわ。いきましょう」
マリーと転生者が何かを話していたが、私は告げられた来客の名前のあまりの衝撃に、その会話は全く耳に入ってこなかった。
エリオット殿下。私の聞き間違いでなければ、その呼び方がなされるのはこの国においてただ一人、エリオット・ジグ・ガストラル第二王太子殿下その人だけのはずだ。
『いやいやいや、王室と我が家は繋がりも薄いはずだし、まして私個人と殿下の間に親交はあるはずもないのになんで?!』
そんな第二王子が何故我が家に、それは幾ら考えても答えは出ず、思考の海にどっぷりとつかっていた私は、危うくどこかに向かうマリーと転生者に置いていかれて、部屋に閉じ込められるところだった。
寸でのところで閉まりかけた扉からスルリと抜け出した私は、とにかく、事情を把握するためにも転生者の後をついていくことにした。
『せめて何が起こっているかだけでも見ておかないと』
マリーに連れられて転生者がやってきたのは我が家自慢の庭園の一角で、溢れんばかりに色とりどりの花が咲き誇る中、テーブルとお茶菓子が二人分セッティングされていた。
「アイリス様の仰られた通りに用意はしましたが、本当にこれで良いのでしょうか。慣例を丸っきり無視していますが」
「大丈夫よ。エリオット様は花と甘い物を好まれる方だから。窮屈な客間よりは、ここの方が気分も良くなるでしょう?」
マリーの苦言とそれを何事もなく流す転生者。これもここ数日で幾度となく見た光景だ。しかし、転生者はエリオット殿下の好みなんていつの間に調べたのだろう。エリオット殿下は王族の中でも露出の少ない方で、あまり詳しいことを知っている貴族はいないと言われているのに。
それから数度、マリーのお小言とそれを流してしまう転生者というやり取りが続いた後、私たちが入ってきたところとは別の庭園の扉が音を立てて開いた。
「エリオット・ジグ・ガストラル王太子殿下御一行様が参られました」
使用人に案内され、庭園に入ってくる10数名からなる一団。その先頭を歩くのは、太陽の光を写したような金の髪に、同じく太陽の色の金の瞳。見れば100人が100人美少年というであろう整った顔。一度、ある機会で登城したときに一目見たことはあったけど、間違いなく彼はエリオット第二王太子殿下だ。
後ろに続く一団はごつい騎士服が多いので殿下の護衛だろうかと思ってしばらく観察していると、一人だけ明らかに浮いている、シスター服を着た少女が紛れていた。
何故シスターが殿下の供回りに?不思議に思って少女をじっと見つめていると、なんと少女と私の目が合った。
『偶然?いや、それにしてはしっかりこっちを見てるわよね……』
試しに少女に向かって一礼してみると、少女も軽く礼を返してから、しまったという顔で辺りをキョロキョロ見回し始めたので、どうやら私のことが見えていると考えて間違いないだろう。
しかもその少女は、転生者に視線をやると、私と転生者の間で視線を何度か往復させてから、顔を青くし始めた。
『あの子、やっぱり何かに気付いて』
私が少女に話しかけに行こうとした、その時だった。
「エリオット様!ずっと会いたいと思ってました!」
転生者がいきなり走り出し、エリオット殿下に抱き着いた。
『何やらかしてるの?!』
その場にいる全員、殿下の護衛であろう騎士服の一団も、まさか侯爵家の令嬢がいきなり飛びついてくるなんて予想もしていなかったらしく、完全に固まってしまっている。
マリーは転生者の奇行に青ざめているし、護衛の方も職務を全うするために転生者を引きはがしていいのか、丁重に扱った方がいいのか困り果てている。これが転生者から殿下への攻撃なら護衛も迷わず対処したのだろうけど、そんな雰囲気は一切感じられないせいで余計対処がし辛いみたい。
でも私としては出来れば即座に職務を全うして欲しいところだ。なぜならこの光景は私の精神に優しくないから。こんな珍事、誰かの耳に入ったらどう噂されるかわかったものではない。
出来れば殿下も満更でもない顔をしてないで早く離れてください。
「殿下」
護衛の内、一番立場が上らしい壮年の騎士が咳払いをする。流石に殿下もそれで冷静さを取り戻したらしく、転生者を自分から引き離した。
その時に慌てた殿下が大きく一歩後ろに下がったところを、シスター服の少女が避けようとしてふらついた。あわや転ぶ寸前だったところを、護衛が支えるのが間に合ったので大事には至らなかったけど。
「おや、シスター・ソフィア。どうやら少々お疲れの様子。馬車での移動で疲れが出たのでしょう。貴女の手が必要になったら呼びに参ります故、一室借りて休憩なさってきては如何かな。丁度、場も仕切り直さねばいかんようですし」
多少芝居がかった口調で言ってのける護衛の目には、薄っすら怒りが宿っている。シスター少女の顔色が良くなかったのは本当だし、体調を気遣ったのも事実だろうけど、この場合は一旦場を仕切り直すための方便として声をかけたというところが大きそうだ。
シスターが退場したりごたごたしている間に、一連の流れを誰かに問いただすつもりだろう。その矛先はだらしない顔していた殿下か、転生者の奇行を止められなかったマリーか、この屋敷の、引いてはアイリス・グランベイルに対して責任を持つお父様にかは知らないけれど、マリーにだけは矛先が向かないことを祈るばかりだ。彼女は何も悪くない。
「休憩なさるのであれば、本日は客間の方も使用して良いと旦那様から伺っております。そちらでよろしいですか?」
護衛の意図を読み取ったらしいマリーが、即座に客間の方へと案内を向ける。護衛の方は頷くと、シスターの少女にどうぞ、と言って部屋に向かうことを勧めていた。
シスターの少女は、流されるままに部屋に向かおうとしているが、気にはなるのか時折私にチラチラと視線を向けている。
このまま少女が客間に移されるのは、私にとっても都合がいいかもしれない。もしも私の姿だけじゃなく声も届くのなら、助力を願えるかもしれない。
転生者と殿下から目を離すことだけが心配だが、流石に護衛も居る中、さっきの今ではそうそう何も起こらないだろう。
客間に連れられるシスター少女の後をついていく私が、どうしても気になって、扉が閉まる際に少しだけ振り返って目撃した光景は、殿下の手を握りこむ転生者の姿だった。
満面の笑みを浮かべる転生者に、照れたような、でも悪くないといった表情のエリオット殿下。
殿下、鼻の下が伸びておられます。
早速、私は本当に転生者から目を離してよかったのかと頭を抱えることになった。