20.新しい名前
ソフィアの部屋の前まで来た私は、緊張した面持ちで扉の前に立った。生身の身体を得た今、この部屋の扉を開けることそれ自体は造作もないことだ。
だけど……もしかしたらソフィアは身体の変わった私を私だとすぐにはわかってくれないかもしれない。別人として扱われるかもしれない。そう思うと、何故だか心がざわつく。
一度深呼吸をしてから、意を決して私が扉を開くと、丁度扉の近くに居たソフィアとばっちり目が合う。
「アイリスさん!おかえりなさい!」
一目私を見るや否や、満面の笑みでこちらに駆け寄ってくるソフィアに、私は一気に脱力した。
どうやら私の感じていた不安は杞憂だったらしい。
「ただいま。よく私だとわかったわね。霊体以外で会うのは初めてなのに」
「いつもとちょっと見た目は変わったけどアイリスさんはアイリスさんだよ?それに魂の形が同じだもん、間違えようがないよ」
どうやら多少の変装や姿が変わるくらいではソフィアの目は誤魔化せないということは分かったけど、こう言われると改めてソフィアの目には人間がどういう風に見えているのか気になるところだ。
「私の魂ってどういう風に見えているの?」
「とっても綺麗!こうなりたいなって思えるような、とっても素敵な魂。あ、勿論魂だけじゃなくてアイリスさんも素敵で大好きだよ!」
「そ、そう」
屈託のない笑顔を向けてくるソフィアに私は思わず目を逸らす。ソフィアは時々いきなりこういうことを言うから困る。藪蛇を突いたのは私だけど。
お世辞の混ざらない純度100%の誉め言葉というやつには私はとても弱い。このままだと、まだ言い足りずに次の言葉を探しているソフィアに褒め殺されることは経験上から予測がつくので、私は戦略的撤退のために話題を切り替える。
「ところで、ちょっと姿見を借りても良い?実はまだ自分がどんな姿なのか確認できてないの」
ソフィアは「勿論」と頷くと、部屋の端にある姿見のカバーを外す。
姿見に写る私は、以前の私とほとんど変わらない姿をしていた。腰の辺りまで伸びた金髪に、可もなく不可もなくといった年相応の身体つきは変わらず。睨んでいると勘違いされがちな鋭い目元……が少しだけ丸くなっているのは喜んでいいだろう。
あとは、良く見ると本来ゆるくウェーブがかっていた髪が流れるようなストレートになっているくらいの変化があった。それ以外の変化は一見みつからない。
これなら確かに、違う身体に変わったにしては以前とほとんど変わらないと評されるのも納得だ。
「確かに変わらないと言えば変わらないけど、別人と言えば別人ね。いざ学園に行ったときに、アイリス・グランベイルが2人居ても厄介なことにしかならないから、似てる程度の別人であることは喜ぶべきでしょうけど」
そのまま転生者、現アイリス・グランベイルと並べば何か勘付く人も居るかもしれないけど、化粧で誤魔化せば妙な勘繰りをされない程度には出来る範囲だ。
「そういえばアイリスさんは学園では名前、どうするの? 元の名前は名乗らない方がいいんだよね。二人になっちゃうし」
「それなのだけど、どのみち教会内でもアイリス・グランベイルを名乗るわけには行かないから、名前を変えようと思うの。それで相談なのだけど」
アイリス・グランベイル以外の別の名前を名乗ると決めた時から、ずっと考えていたことがある。
「新しい私の名前、あなたの名前から少し貰ってもいい?」
私が今ここに居るのはソフィアのおかげだ。偶然とは言えソフィアがあの日、グランベイル家に訪れてくれていなかったら、私は今でもあの屋敷から出ることが出来ず、そのまま腐っていただろう。
今に至る切っ掛けをくれたソフィア。そんな彼女の名前と供に私の新しい始まりを迎えていきたいとそう思ったから。
だが、それはソフィアにとって予想外だったようで、私の提案に彼女は驚愕の表情で目を白黒させている。
「私の名前なんかでいいの?」
「あなたの名前がいいのよ。それとも、名前を使われるのは嫌だった?」
私の問いをソフィアは頭を大きく振って否定する。
「ううん、そんなことはない!でも、私何も出来ないし、そんな私の名前なんか使っても仕方ないよ」
勉強や立ち居振る舞い学んでいるうちに、少しは自信がついたかと思っていたけど自己の肯定感が低いのは相変わらずらしい。覚えが良くて真面目なソフィアは、実は既に同年代の貴族の子と比べられるくらいにはなっているのだけど。
「そんなことはないわ。あなたは自分で思ってるよりずっと優秀よ。それに、私を屋敷から連れ出してくれたじゃない。それだけでもソフィアには感謝しているし、恩もある。そんなあなたの名前にあやかりたいのだけど、ダメ?」
「……ダメじゃない」
蚊の鳴くような声での返答だったけど、嫌がっているような声色ではないので無事了承してもらえたようだ。
「良かった。じゃあソフィアとアイリスだから、そうね……フィリス。フィリスにするわ」
私とソフィアの名前を並べて、ぱっと頭に思い浮かんだ名前。私はこの日からしばらく、アイリスではなくフィリスとして生きていくことになる。私の本当の身体を取り戻すまで。
「あら、もうこんな時間なのね。そろそろ部屋に戻らないと」
ふと、窓から外を見ると、空はもう一面暗闇に閉ざされていて、すっかり夜になってしまっていた。
「私は部屋は隣だから、何かあったら訪ねて来てね」
「あっ、そっか……」
私が部屋を出ようとすると、何かに気付いた風なソフィアが悲しげに肩を落とす。
「どうかしたの?何か問題でもあったの」
「ううん、ただ、最近はずっと寝る時もアイリスさん、じゃなかった。フィリスさんが一緒だったから、寂しいなって」
「……今度、他の人の部屋に泊まりにいってもいいのかガウス翁に聞いてくるわ」
仮に許可が降りなかったらどうにかして交渉で許可をもぎとろう。そう心に決めて、私はソフィアの部屋を後にした。
いつも誤字脱字報告等ありがとうございます