.3
仕立て屋チェルシーに服を作らせる時には、してはならない事がある。
彼女を呼ぶ時に、ミスもミセスもマダムも付けてはいけない。呼び出すのではなく工房を訪れないといけない。工房内で彼女の言う事に逆らってはいけない。一つでも破ると、途端に彼女は針を置く。
国王でも外国の貴族でも例外はなく、従わずに二度とチェルシーの服を着られなくなった貴族は多い。見栄を重んじる人間である程、その事実は痛手になる。
決して機嫌を損ねるな。やらかしたら明日から貴様の椅子は無いと思え。
俺達も上官から激励された上で、本日殿下の護衛としてチェルシーの工房を訪れていた。
王都の郊外の入り組んだ路地を抜け、古い木戸を叩く殿下。やがて現れた妙齢の美女に、隣の同じく護衛の男が口笛を吹く。
「いらっしゃい、王太子殿下。仕立て屋チェルシーの店へようこそ。何かリクエストは有るかしら?」
「特に無い。とっとと済ませろ」
「分かったわ、仰せのままに。こちらにどうぞ?
あら、そちらの方々は此処で待っていて頂けるかしら。採寸室が手狭なのよ」
「構わん。……おい、待っていろ」
小さく敬礼。本来なら離れるべきではないが、此処ではチェルシーが絶対だ。
大人しく応接間と思われる布や型紙、リボンで溢れかえった部屋に立つ。
何処からか不思議な香りがする。甘いような、けれど木の匂いにも似ているような。
不躾に鼻をひくつかせる隣の男を睨む間に、殿下が採寸室へと向かわれた。二月後の王位の即位式に着られる衣装だ、一刻も早く仕上げたいのだろう。
立ち去る足音を聞きながら、チェルシーが依頼を受けると知らされた日を思い出した。王家直属の仕立て屋は荷物を取り落とし、護衛を仰せつかった俺に代わってくれと頼み込む同僚は後を絶たず。
ここでチェルシーと顔を繋げておけば、いずれ細君や子供の服を依頼出来るかもしれない。そう考えてだろうが、王太子殿下を護衛の栄誉をどう考えているのか。職務怠慢にも程がある。
仕立て屋チェルシーもチェルシーだ。
王家の要請を待たせるなどあり得ない。光栄と何より優先して針を持つべきなのに、多少有名なだけの仕立て屋が何様のつもりなのか。
そんな不満を、隣の騎士は鼻で笑った。
「お前それは、彼女の服を見た事が無いから言えるんだ」と。訳が分からない。
何処からかメイドが現れ、テーブルに湯気の立つ紅茶とクッキーを置いて去っていく。護衛の身である以上手を出す訳にはいかないが、会釈して感謝の意を伝えた。
立ち去る女を見送って雑多な部屋を見回した所で、隣の男が話しかけてきた。
「聞いてなかったぜ、チェルシーがあんな美人だったなんて。お前もそう思うだろ?」
「思わないから私語を慎め口を閉じろ。……おい馬鹿野郎任務中だぞ、紅茶を飲むんじゃない」
「折角用意してもらったのに残す方が罪だろ。美味いぞこれ、あのお嬢さんの手作りと見た」
この男、ふてぶてしいにも程がある。クッキーに手を付けながら宣う男を黙らせようと近寄るが、無駄口は続く。
「メイドの子も結構良かったけどチェルシーの方が好きだな、俺は。あのスタイルには理想が詰まってる、あと灰色より黒髪派」
「いい加減にしろよ貴様……」
蟀谷に青筋が立っているのが分かる。しかし目の前の男は気にした様子もなく、紅茶を更に一口。
「そうお堅くなさらんなって。ほらお前も食えよ。どうせ殿下もあっちで美人に全身くまなく計られてるんだろ?うらやま………」
馬鹿野郎と殴ろうとした手は空を切った。目の前の男が崩れ落ちるようにして、床に倒れこんだからだ。思わず膝をつき、呼吸を確認する。
……生きている。しかし、ぐっすりと眠りこけていた。
咄嗟にテーブルの上の菓子と紅茶を確認する。まさかこれに、何か仕込まれていたのか。
剣に手を掛ける。殿下の元へ行かねばと立ち上がった瞬間、地面が揺れた。
最後に目に映ったのは積み上げられた布に隠れる、小さな香炉。部屋に入った瞬間からしていた甘い香りが齎す眠気に、意識は闇に落ちた。
* * *
「採寸はうちの小間使いが致しますわ。ソシェちゃん、いらっしゃい」
生地決めを任せるの一言で済ませた秀麗な面立ちの青年が、美女の言葉に上着を脱ぐ。チェルシーと入れ替わりに入った人物は、顔を覆いで隠していた。
失礼いたしますと蚊の鳴くような声。恐らく女だが、顔を隠すのは何か事情が有るのだろうか。あの気まぐれな仕立て屋のする事、気にするだけ無駄と思考を切った王太子は、けれどその髪に目を留めた。
その灰色は、いつぞやの女と同じものだった。
驚いて、すぐに気の所為と思い直す。灰色などそう珍しい髪色では無い。己の赤や元婚約者の白銀と違って、探せば何処にでも居る色だ。そう考えて、意識の隅に追いやった。
何よりあの女が未だ生きているとは、到底思えない。
首、肩幅、その角度。女は淡々と計測していく。時々腕を上げろなどの指示を出し、実に手際良く全身を調べていった。
両腕を後ろに回して下さいと小さな声で請われ、言われるがまま腕を動かす。メジャーが両手首に掛かり、くるりと二巻き。痛みを感じる程強く引かれ、何をすると声を出そうとした瞬間、膝を蹴り飛ばされた。
重力に従って、前に倒れこむ。
咄嗟に支えようとした手は、しかし床に触れる事は無かった。メジャーで縛られていたからだ。無様に顔から着地し、痛む鼻を堪えて振り向こうとした瞬間、目と鼻の先に足が勢い良く踏み降ろされた。
「動くな。……いやこの場合、幾ら騒ごうか助けは来ないから諦めろ、ですか?」
先程迄とは違う、低い声音に自分を蹴倒した相手を見る。
覆いを取り外して見えた顔は、死んだと思っていた女のそれだった。
ソルシエ・エザウリーレは激怒した。
それはもう激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王子の身包みを剥いで、全裸に亀甲縛りで街中に放置せねばならぬと決意した。
ソルシエには政治が分からぬ。分かるのはクレアが可愛くて守らねばならないという事だけである。そしてソルシエには怒りが頂点に達すると、短絡的な思考に走る悪癖が有った。
クレアかわいい。クレアまもる。クレアおうじのそくしつだめ。おうじゆるさない。
かくしてその手は数ある依頼書の中から殿下の礼服を作ってくれとの一枚を選び取り、事情を知った彼女の師匠も良い笑顔と共にゴーサインを出した。
勢い良く踏みつけた先、3cmも離れていない所で驚きに染まる顔を見る。その口が、生きていたのかと動くのを確認する。
「残念でしたね、私が生きていて。……歯ァ食いしばれ」
右手には大きな裁ち鋏。これで王子の服をえいやと切り刻むのだ。縛られるリボンくらいは自分で選ばせてやろう、但し決して千切れない頑丈な物の中から。
じゃきんと空を切れば、王子の顔色が変わる。
今すぐ拘束を解かないなら護衛を呼ぶぞと裏返った声に、彼らなら今頃夢の中でしょうと嗤った。
「ドルミールと云う植物をご存知ですか?山岳地方の一部のみで自生する薬草ですが、効果は眠気の誘発と緊張緩和。少量の服用なら睡眠薬として役立ちますが、多量に摂取すると急激な眠気に襲われるんです。使いすぎると効かなくなるんですが」
当然あの騎士二人は初めてだったようだ。
元は師匠が不眠に悩んでいた時に探した物だったが、今になって役立つとは。有効な使用法を試すうちに耐性がついた私と時々使う師匠ならあの量では効かないが、あれの眠りは本当に深い。目の前の男が泣こうが喚こうが叫ぼうが、目覚める事は無いだろう。
じゃきん、じゃきん。
学園入学の際に師匠から貰った愛鋏が、機嫌良く音を立てる。どのリボンで縛られるか位なら選ばせてやってもいい。その整った顔を、羞恥と絶望に染め上げてやろう。
鈍い音に顔を青くした男は、復讐のつもりかと声を震わせた。俺を殺してただで済むと思うなよ、から始まるありふれた命乞いに笑顔で返す。
「まさか。作りたいのは死体ではなく明日の新聞の大見出しです。そんな事をして師匠に迷惑を掛けるのは本意じゃない」
「大見出し、だと?」
「衝撃、次期国王の秘められし趣味!真の姿は緊縛狂いの露出狂」
「貴様俺に何をするつもりだ!いや言うな、言わなくて良いからやめろ離せ、近寄るな!」
芋虫のように身を捩る姿を見下ろす。残念ながら大変不評のようだ、面白いと思うのだが。
「止めろと言われましても……ここまで来たら後戻りできませんし腹括って貰えます?大衆の面前で婚約破棄されるよりはマシですよきっと」
「どっちも酷いわ!」
「あれ?自分が酷いことしてる自覚有ったんですか」
思わず声に出すと、王子の目が泳いだ。胡乱なそれは、罪悪感が宿っているようにも見える。
まあ、だからと許す事は無いが。シャツの裾に狙いを定めて刃を向けると、震える声で王子は言った。
「そ、そもそもどうしてお前がこのような事をする、投獄された報復なら―――」
「まさか、そんな事の為に動く程暇じゃない。あの子を貶めやがった以外で、貴方を憎む理由がどこにあるんですか」
「そんな事とはお前……だから止めろと言っているだろうが近づくな!仕方ない、俺に出来る事ならーー」
「ん?今何でもするって言いました?」
「いや、そこまでは言っていな……鋏を鳴らすのを止めんか!!!」
何度か耳元で音を立てれば、やっと王子は頷いた。多少震えているが気の所為だろう。社会的に終わらせてやろうと思っていたが、何でも言う事を聞いてもらえるなら話は別だ。物分かりの良い王子様万歳。
「なら、二度とクレアに関わらないで頂けますか。彼女を側室に望まないと一筆書くだけで良いんです。一度婚約破棄したのですし、構わないでしょう?」
「……………それは出来ない」
「あ゛?」
「彼女を迎えるのは、王家の意向だ。あいつに妃足りうると知られてしまった。……俺の意思など、有って無いようなものだ」
王子の顔が歪む。苦しそうに、何かを堪える様に。
知らぬ間に、掌に爪を立てていた。
貴族の婚約などそんなものだ。当人の意思を置き去りにして、利の大きい相手が見繕われる。
貴族が悠々自適に何にも脅かされず暮らしているなど、笑える世迷い言だ。上を見なければ足元を掬われ、知り合いでも疑わなければ生きていけない。
信じられるものが余りに少ない世界で、確かに政略結婚は優秀な栄達の手段だ。だから娘は教養を身に付け着飾って、少しでも価値を上げようとする。
着飾る少女達にとって、王太子の婚約者の座は最も価値ある椅子だろう。王妃、それから国母。女にとって最高の地位を得られるならば、全てを失っても良いと考える者は少なくない。そんな娘達を黙らせる為にも、王太子の婚約者は完璧を求められた。
誰よりも美しく、誰よりも素晴らしく。争うだけ無駄と思わせる程圧倒的に。一挙一動、一瞬も気を抜いてはいけない。そんな世界を、あの子は生きていた。
わたくしは完璧でなければいけないと、顔を覆って泣いていた。王妃にならなければ何の価値も無くなってしまうと、唯の女の子は肩を震わせていたのだ。
あの子を泣かせたのはこの男。
彼女に散々重荷を背負わせた挙句切り捨てたのは、目の前のこの男だ。
お前は彼女を捨てた癖に。
捨てる事を許された癖に、手離す自由は無いと宣うのか。
去勢してやろうかと思った。
ここが工房以外の場所で、隣室に眠る護衛が居なかったら、本当に鋏を突き立てていたかも知れない。大切な仕事道具を血に染める事を、一瞬でも考える程には頭が沸いていた。
「………腕の一本も無くせば、王位継承権は無くなりますかね?」
「……ハッ、無理だろうな。四肢を捥ごうが目を潰そうが、傀儡は傀儡のままだ。お前とチェルシーが殺されるだけだろう」
師匠が罪を被る事はない。この件が終わったら、彼女に国を出て欲しいと願った。世界一の技術を持つ人だ、何処でだって通用する。この国は特に大きい訳でもない、遠い何処かで上手くやれる事だろう。
私は……どうにでもなる。どうにもならなくなったって構わない。
深呼吸一つ。拳を解いて、どうしたものかと考えた。
目の前の男を殺すのが、間違いなく一番気が晴れる。しかし悪手だ。師匠への追求が厳しいものになるし、クレアにどんな迷惑が掛かるか分からない。
なら最初の計画通り、剥いて路上に放置しようか。楽しそうだが生温い。やるなら徹底的に、二度と立ち直れないように。
精々プライドをへし折る位の効果しか無いだろう。それじゃ足りない。
拘束を解こうともがく手首を、踏んで押さえた。呻き声を無視して天を仰ぐ。本来の目的を思い出せ、ここにいるのはクレアの為だ。足元の野郎がどうなれば彼女の役に立つのかだけを考えろ。
「………クレアを側室にするのは貴方も本意でない、そうですね?けれど国の意向で彼女が求められている」
「……ああ、そうだ。俺はあいつを嫌っている。傍に置きたいなど、考えた事もない」
「肯定されるのも、それはそれで腹が立ちますね。……まあ良い、だったら取引しませんか?」
「取引だと?」
見開かれた瞳が、ほんの少し色を持つ。短い問いに、口の端を歪めた。
「貴方も私もクレアを側室にしたくない、そうでしょう?
彼女を利用しようとする輩を黙らせてきます。その代わり、側室は不要と大衆に宣言して下さい」
利害が一致しているなら、最高に癪だが利用する価値はある。信じ難い物を見るような目を無視して首を傾げれば、唖然とした声が返された。
「な、何を言っているのだお前は。そんな事、貴様如きに出来る筈が無いだろう!」
「そうですか?現に王太子殿下とも〝お話し″出来てますし、言葉を尽くせば分かり合えますよきっと。失敗したとしても貴方に疑いが向くことも無いでしょうし、乗らない理由は有りませんね?」
だからさっさと誰が言い出したのか話せと視線に込めれば、少し考えた後に小さく頷かれた。俯いた首を見下ろしても、杳としてその表情は知れない。
契約成立。
鼻歌交じりに手首の拘束を解く。足を退けると手首を確認されたが、跡を残すような縛り方をしているはずもない。
「……敵が分かっていないからそう言えるのだ。あれは手に負えるようなものでは無い、今まで誰も「あ、前置きは良いんで。さっさと結論お願いします」最後まで聞くくらいしろ貴様!!」
暫くの逡巡の後、城には魔女がいると王子は言った。
聞き返す間も無く、王子は扉に歩き出す。もっと具体的な返事を求めていたのだが言葉って難しい。
魔女とは何だ。もしや彼も昔御伽噺の類にはまったクチだろうか。此処でファンタジーな単語を聞くとは思わなかった。
扉の向こうで微かな話し声を聞く。護衛が目覚めたのだろう。とても強い睡眠薬は、しかし持続時間は短い。ドルミールを仕込んだ香炉は、今頃師匠が片付け終わっている手筈だ。
クレアを、彼女のために何が出来るか。
次は何をするか、考える前に決めていた。虎穴に入らずんば何とやら。思いつきを提案する為に師匠を探す。
窓際の、薄紫の香水瓶が夕日に染まる。口元を歪めて、雑多な部屋を歩き出した。