その3
「セイちゃんてね」
あたしは一緒に出された甘いものをほうばりながら、昔の話を聞かせれていた。多喜子さんは、誠司に対しては鬱憤がたまってるみたい。
小学生の時、教室に蛇が紛れ込んだ事があって、誠司が捕まえたらしい。すぐにぽいっと外に出せば良いのに、近くにいた多喜子さん
「嫌がってるのに、虫を持って追いかけてくるなんて、考えられる? それも3日くらい続けてやるのよ」
それは辛い。
「……やめてくれて良かったですね」
「口を利かないで居たら」
「桜ちゃんにしたら、嫌われちゃうからね」
「子供の時の話だろ。もう、しねぇよ」
そんな会話を見ながら今は、多喜子さんの方が誠司を手懐ける感じがして、立場が変わってることに変な感じがした。
「流石ですね」
「散々だったからね。桜ちゃんにもセイちゃんの弱み教えてあげようか」
にこっと笑った多喜子さんの後ろで嫌そうな顔をしている誠司が見えた。むしろ、分かってて多喜子さんはやってるに違いない。
「と、言っても今のセイちゃんの一番の弱みは桜ちゃんかも」
「ていうか、もう良いだろう。俺の話は」
「今、女の子同士で話してるの。それに今日は関与しないって言ったよねー?」
「それは」
「もしこれ以上、口を挟むなら言っちゃおうかな〜? セイちゃんがおねしょしてたのは何歳の時かって」
「わぁーっっ!!! おい、ばか! 言うなよな」
大慌ててで止めに入る誠司の顔は、見たことなくて、そんな顔をするのかとちょっと思った。……
「そうだ! 小さい時の写真あるから持ってくるわね。悪ガキだったセイちゃんなんて、今見ると笑っちゃうから」
これ以上、昔話を聞きたくないし、なんだか見たくない気もして、どうしようと思ったまま誠司の顔を見たら目が合ったものの、あいつは助け舟を出してくれずにやり過ごされた。多分、さっき多喜子さんに釘を刺されたからかも。
「……はい」
もちろん、こんな喧嘩してる状態で助けてくれるのを願うなんて、虫のいい話。だけど、思わず誠司の顔を見てしまったのは、不覚だった。その上、野放しにされてしまった事実に傷ついてる自分にも馬鹿だなって思う。
「持ってくるから、それまで二人で何か喋ってて?」
パタパタと奥の部屋に行ってしまった。
「あいつには、笑うくせに。……可愛くない奴」
「セイちゃんは、先に外出てて」
あたしの裾を掴んで引き止めると、もう片方の手で多喜子さんは誠司の背中を押して、ドアの向こうへと送り出す。
パタっと扉が開くと、戸惑ったあたしに開口一番にこう言った。
「桜ちゃんは、セイちゃんのことどう思ってるの? お嫁さんになるのいやなの?」
優しく言われた言葉も、ほんの少しだけ棘を感じた。多喜子さんはあからさまではないけど、迫るような雰囲気を纏う。
「そ、それは……」
「セイちゃんだって、遊びでやってるわけじゃないの」
そんなこと、言われてもどうしようもないよ。
だって、あたしにもまだ誠司の事が、よくわからない。
待ってほしいのに、待った無しに時間は過ぎていく。
待たせちゃだめなのも、本当は分かってる。
誠司が根をあげそうなのも、多喜子さんに言われなくても、そのくらい分かってる。
それでも、また誰かを好きになるのはどうしても、怖い。ただ漠然と怖いの。
もう少しだけ、待ってほしい。
だけど、そんな時間ないなら……。
「今からでも、断ります。そしたら多喜子さんがなれば良いじゃないですか! だってあたしなんかよりも、多喜子さんの方が……っっ!」
「そんなのは、もう無理よ。私の家はふさわしくないのは分かってたし、セイちゃんはもう……桜ちゃんのこと大好きだもの」
「ーーっ」
自分が誠司から逃げたいからって、多喜子さんを傷つけることを口走ってしまったと、言った後で思った。
多喜子さんと誠司が小さい時から仲が良かったなら、自然と結婚の話くらいあってもいいのに、そうじゃなかった。それは、多喜子さんの言う"ふさわしい"家柄じゃなかったから。
こんな事、言わせたかったわけじゃないかったのに。いくらなんでもこんな切り札を使ったら、誰だって怒っても当たり前なのに、それどころか悲しそうな笑みを浮かべてあたしを見た。
……ここで何を言っても、あたしたちは不毛過ぎる。
そう思った時、
「……ごめんね。意地悪しすぎたわ。セイちゃんが話してたよ。隣に住む年上の人なんだってね。桜ちゃんがその人を好きな気持ちは知ってるのに……他の人に好意を向けられても困るよね」
この人はため息さえも美しい。
状況は多分、助言が幾らかでももらえないかと誠司が話して聞いて居たんだと思う。聞かされる多喜子さんは、どのくらいヤキモキしたか想像に難くない。
あたしには会いたくないはずなのに。
分かりたくもないはずなのに。
どうして、こんな機会を設けようとしたんですか。
いろいろ訊きたかったけど、多喜子さんはそれを拒むように、全部飲み込んだような顔で首を横に振った。
「だけど。今すぐじゃなくても良いから、セイちゃんのこと好きになってあげて」
あぁ、本当に辛いのは誰?
そんな顔をして、それが本心なんて、思えない……。
「多ーーっ!」
ポツリとそれだけ言うと、あたしが口を開くのを許す前に、喫茶店のドア押して開き鈴の音を鳴らす。すぐそこには追い出された誠司が立って居て、時間を持て余したみたいて少しだけ、つまらなそうにしていた。
「なに話してたんだ?」
「セイちゃんに虐められたら、すぐ私に言ってねって話してたの」
「これでも優しくしてるつもりだよ」
「桜ちゃん、懲りずにまた来てね。今度会う時は、心から応援するから。やり直しさせて」
凛として、それでいて優しく笑った多喜子さんはまるで梅の花みたいで、綺麗だった。
まだ冬が終わる頃、春の訪れを真っ先に知らせる梅は寒さにも負けずに逞しく咲き誇る。そんな花の強さに似ている気がした。
好きになってと言われて、わかりましたと簡単に好きになれるものでもなくて。誰かに干渉されるほどに、自分の気持ちから逃げてしまいたくなる。今は、誠司がそれでも歩み寄って来るのに、遠ざけてばかり。だって、隆太郎お兄ちゃんと全然性格が違うのに。なのに、気になってしまうなんて意味わからない。惹かれてるなんて、そんなこと認めたくないのに。
今すぐ応えられないことを誠司も知っていて、それから多喜子さんも十分過ぎるくらい、全部わかってる。
だから、多喜子さんもこれ以上はもう何も言わない。
そして、あたしは多喜子さんの気持ちを知った上でそれでもまだ、前に進めない。
どう考えてもあたしが誠司の隣にいるなんて相応しくないのに。
ごめんなさいを言えなくて、だけどきっと言ってはいけない。また多喜子さんを傷つける言葉だから、心の奥に押し込めることしかできない。
「……っ」
「桜ちゃん、あんまり気に病まないで。来年の春にはまた違う春が来るでしょ?」
毎年毎年、全く同じ春が来ることはない事をあたし達は知っている。似ているけど、環境は変わっているの。だからこそ、毎日を大切にしなきゃいけないっておじいちゃんに教えられたっけ。
多喜子さんが着物の袖下から茶色の封筒を取り出すと、透き通る静かな声で告げる。
「私もこれから、この人を好きになるつもり。だから桜ちゃんも」
そう言って、白くて細い小指を立てて、その手をあたしに差し出した。
「約束ね」
思わず、小さな綻びを求めてしまいそうになった。
あたしが、多喜子さんが、あるいは誰かが、何かの位置がズレていたなら。今とは違う未来があったはずなのに。
それを恨まずには居られないものでしょう?
だって、多喜子さんはあたしよりも先に、誠司の隣りにいたのに。どうして……。
「セイちゃんも。自分で決めたことでしょ」
「……言われなくても分かってる」
ひらひらと手を振る多喜子さんとお別れをして、それから誠司は、日が沈み暗くなった外で、まだ怒ってるはずなのに「家まで送るよ」って言った。誠司は変なところが律儀。
近づかないように先に歩く誠司の後ろ姿を見て、ふと考えてしまう。
もし。
もしも、お見合い写真があたしではなく別の誰かだったならーー。
土砂降りだった心を晴れにしてくれた、てるてる坊主の誠司なら、その人に対してもあたしにしたのと同じように、結婚するその日まで、何度も手を引いて外に誘うのかな。
きっと誠司はなんだかんだと、どんな女の人でも奥さんとして進んで迎え入れて、横で笑ってくれる人なんだと思う。
それから少し先を歩く誠司は、背を向けたまま、
「今日は、ごめん」
と、言った。
首を振って、そんな事ないと伝えると誠司はちょっとだけ笑った。それを見て、あたしたちを包む空気が柔らかくなったからほっとする。
だけど、この期に及んでまだ尻込みした自分に、一つだけため息がついた。
仲直りの印に、手を握る勇気があたしにあったら良かったのに、って。
そしたらきっと、誠司はもっと笑ってくれるのに。
梅の花 咲かすも彼は知らぬまま
散りゆく姿 知る由もなし
多喜子編はこれにて終わります。