尋常
個人的に掲げている処世の術がある。
処世術、というよりかはむしろ単純な生き方の類ではあるが。
それは、自分を「普通でない人間」と捉えるということだ。
この、「普通でない人間」は、決して、他より並外れている天才的人材という意味ではない。飽くまで、一般常識さえも解さず、他の「普通の」人が容易くこなすようなことさえできない、極めて無能な人間ということだ。
ここで重要なのは、自分以外のあらゆる人間を「普通の人間」と見なすことだ。ただ自分だけがすなわち異端であるのだ。哲学的ゾンビ的な捉え方とも似ているのかもしれない。
この思想がもたらすのは、謙虚さ、そして向上心だ。自分が「普通でない」と思うからこそ、「普通」であろうと努力する。己を「普通」だと鑑みる態度こそ不遜極まりなく、現状に満足してしまう。
いつどこであろうと自身の社会性に対して疑問を呈し、不安に苛まれながら生きていく。普通たろうとする意志こそ己を成長させてくれる。安穏とした生き方で有象無象と化すのは御免だ。
まあ、この思想の孕む注意点を書くとするならば、自分を高めようとする意志は持つべきだが、決して自分を否定してはいけない。「普通でない」ことは「普通」なのだ。
自身の能力を最大限活用し、自分の価値を高める為には、謙虚な心が肝要だ。それに加えて、その価値を衆目披露したいという自己顕示欲、承認欲求も非常に大事になってくる。
「普通」であろうとする為には、その相対的な指標が必要であり、それが他者なのだ。他者がいるからこそ「普通」であろうとし、「普通」たらんとする己を披露したいのだ。




