周旋
5月28日、
先日、「嫌いな人間」について、とりとめもない一過性の愚痴を吐かせてもらった。とんでもなく私事で今でも本当に申し訳ないと思っている。
しかし今立ち返ってよくよく考えてみると、どうも私には嫌いな人間はいないようだ。
ここでいう、「嫌い」だとか「好き」だとかは、ヒト各個人のある精神に対する感情だった訳だが、やはりヒトは一面で捉えることは不可能であった。
誰にでもゴミクズみたいな一面もある。完全な聖人君子なぞ存在しえない。
誰しも完全に論理的に行動することはできない。感情的に動くのはざらだ。
ヒトの精神は、包括的に、巨視的に捉えなければならない。
時に、あるヒトがデジタル文字で表した文章を見ると、それがそのヒトの全容を表していると勘違いしがちだと思う。
デジタル文字というあたたかみの欠片もない文字媒体で、そのヒトが普段口に出している感じの口調を表現すると、そのヒトの本性を勘違いしがちだ。
たしかに、それが本性を表していることもあるかもしれないが、ヒトの本性を推し量るには実際に接さなくてはいけない。そこを勘違いしてはいけない。
話を本題に戻すが、私にはやっぱり嫌いな人間はいなかった。
私が、ヒトと実際接する時でも、相手の心奥を見つめていない単純な人間だからだろうか。
でもまあ、そんな相手の行動原理をわざわざ推量するのは私には性に合わないと気付いた。
めんどくさいからだ。
だから、私はこう定義する。私に好意的に接してくる(と私が思う)ヒトは「好き」、私を避けようとしている、非難しようとしているヒトは「無関係」、私に害を与えるヒトは「嫌い」、と。
そう考えると、私にとって嫌いな「人」は皆無だ。無関係な人も皆無かもしれない。無関係な人については、名の冠する通り無関係なのだから私が気付いてないだけなのだろうが。
去る者は追わず、来る者は迎える。
少々危険な考えのような気もするが、私に好意を持つ人を迎えない義理はない。
また、これは、仮にある人が私以外の人を害していたとしても、私に好意的ならば好きな人ということにもなるが、別に私自身が損しているわけではないので、嫌いに揺れ動くことはないと考える。
なんだか倫理的にどうなのだろう、とは自分でも思うが、前述の通り、実際のところ、私に好意を持つような人を無下に扱うことはできない。
これは周りの人たち全員と仲良くしようとして、結局全員敵になる思考では……?




