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雑記  作者: 真四知杣華
2016年5月
30/100

阿呆

5月25日、

死に触れる。


人間の死というものは、私達人間に、人間の肉体は只の「物」でしかないことを痛感させる。


物言わぬ物に心が宿っていたことが信じられなくなる。




当然、死は恐ろしい。私は、いつだって漠然とした死の恐怖を感じている。


「漠然とした死の恐怖」、これが問題だ。これが故に私は凡人だ。


思うに、無宗教である人が日本人には多い。そして近年、一個人が自発的に、気軽に、物事を知れるようになった。


つまりは、合理的に物事を捉えようとする人が現代の日本人には多く存在しうる、と思われるのだ。


一人で悩み、一人で答えを出すことができるこの社会では、「死は恐ろしい」という恐怖に容易に辿り着く。


しかも、日本人はまず死なない。インフラ整備等が行き届いている日本社会では、のうのうと生きていてもまず死ぬことはない。


これが漠然とした恐怖(実感の伴わない恐怖)を生み出す。




「漠然とした死の恐怖」、これが何を生み出すかは、極一般的な日本人なら経験則的に理解ができるだろう。


只死にたくないと思いながらも、何かを為そうとすることができない。


差し迫っていない死の恐怖は能動的に生きることを難しくする。


まだ大丈夫、時間がある、余裕がある、これらの考えがもう人生を腐らせている。


仮に極限状態ではどうだろうか。


死が間近に迫ってきてもなお、焦らずにのほほんと何もせずにいられるだろうか。


それはさしずめ、テスト直前の時のようだ。


テスト2週間前では、テストを漠然としたものとして捉え、勉強をしない。テスト直前になって初めて危機の重大性に気付き、一生懸命勉強する。


これを日本人の人生に置き換えるとどうなるかは想像に難くないだろう。




私は正にそれだ。明らかにそれだ。絶対にそれだ。


何かを為したいのなら、常に一生懸命でいなくてはならない。


私は、何も為せない。




これの解決方法はまあ分かる。私は実行したくないが。


それは、常に死と隣り合わせになることだ。


簡単に言えば、日常的に紛争等が起こる地域に行けば良いのだ。


こうすることで、全力全開で生きれるだろう。


しかし、前述した通り、私はこの危険のない日本社会での生活に安住しきっているので、私は絶対にやりたくない。


生来がほぼ前提だろう。




もう一つ、解決方法を考えるとすると、宗教だ。宗教は、それこそ人類の死の恐怖を拭うために作られた人類の叡知だ。


漠然とした死の恐怖から、死の恐怖を取り去ることによって、自由に生きることができるだろう。


(ここで一応明言しておきたいが、私は宗教を崇めたり、貶めたりしたいのではなく、あくまで無宗教の自分が捉えた宗教についてを語っている。)


ただ、これも、価値観がほぼ成熟しきった大人には心からそれを信じることは難しいだろう。


やはり、これもまた生来のものであることが前提だろう。




とりあえず二つの方法を挙げたが、これらが私のような凡人には絶対にできないことは理解してもらえただろうか。


価値観は熟すと覆すことはできない。




私は、できるだけ人に頼らず、基本自問自答で生きてきた。その結果がこれだ。


「人は一人で生きれない」、よく言われる言葉だ。


これは真理だ。


先程まで偉そうに語っていたそれは、「一人で」生きた結果だ。


人と競い合い、高め合い、共有し合う。


これで人は何かを為せる。

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