第2章 愛憎 ~女帝に制裁を~ ③
三者懇談、終業式も終わって、いよいよ夏休みの始まりだ。7月中は午前中に夏期講習が控えているが、実咲にとってそれは大して重要ではない。
そんなことより、実咲は、これから始まる夏休みに、これ以上ないほどわくわくしていた。
生まれて始めて、「彼氏」のいる夏休みを迎えるのだから。
(これはもう、楽しむしかないよね!)
心のどこかには、勉強しなきゃ、と考えている自分もいた。だけど受験はまだまだ先。
(第一、うちの家にはお姉ちゃんがいるし)
三者懇で渡された通知表も相当ひどかった。しかし、母も父も、もはや実咲には何も言わない。夜遅くに帰ってきても、ずっとケータイを触っていても。怜奈がいい成績を取っていれば、実咲の存在はあってないようなものだった。
家族のことを考えると、息苦しくなっている。広い家に住んでいるはずなのに、実咲はいつも、狭い空間にひとり、閉じ込められているような気持ちになるのだ。
そんなとき司を思うと、苦しみがどんどんやわらいだ。自分が他人に必要とされている事実を思い出し、なんとか心を落ち着かせていた。
(司……会いたいよ)
学校で、司と堂々と恋人らしい会話はできない。帰ってきたばかりの実咲は、一目散に部屋に駆け込んで、ケータイを開いた。
「もしもし、司?」
何度かコール音を聞いて、電話が繋がる。
『実咲? どうしたの?』
司の声に、実咲は顔を綻ばせた。
「夏休み、いろんなとこ行きたいなぁってずっと考えてて。ひとつ、思い浮かんだんだけど」
『どこどこ?』
「プール、行きたいな!」
それは純粋な憧れだった。なんなら海でもいいよ! と付け足してみる。
(ちょっと私、浮かれすぎかな?)
うきうきしながら司の返事を待った。きっと快諾してくれるものだろうと思っていたのだが……。
『…………ごめん、プールはちょっと』
不自然な間があった。
(……あれ)
いつも司は、触れられたくない話題をされたとき、逡巡するような間をあける。
(嫌だったのかな)
「そっか、ごめんね。浮かれちゃって」
『実咲は悪くないよ。俺の方こそ、ごめん。でも、俺の家の近くで大きなお祭りがあるから。よかったら、行かない?』
(お祭りっ!?)
「行きたいっ! でも、大丈夫? 学校の人に見つかっちゃうかも……」
『友達として来てる、って言えば案外ごまかせるもんだよ』
「うん、そーだね!」
プールの件、司は思ったより気にしていないのだろうか。
(たぶん、司なりの事情があるんだよね? たとえば……実は、『泳げない』とか!?)
なんでも器用にこなす、カンペキ優等生の意外な弱点を想像して、実咲はふふっと笑った。
プールに行けないのは残念だけど、夏祭りだなんて最高すぎる。
(浴衣着なきゃ!)
そのまましばらく、とりとめのない話をした。
『……じゃあ、また日程調べて連絡するから』
「うん、ありがと! …………ねぇ、司」
『ん?』
「……好き」
『…………俺もだよ』
電話が切れて、しばらく実咲はベッドの上でごろごろ悶絶した。
(う〜〜、幸せ!)
ひとしきり悶えたあと、ようやくベッドから起き上がる。スマホを制服のポケットに入れて、微笑みながら部屋を出ると、ドアのそばに怜奈が立っていた。
「わ! お姉ちゃん! びっくりさせないでよ」
「誰と話してたの?」
「……別に、お姉ちゃんには関係ないでしょ」
(会話、聞いてたくせに)
司との約束はいまだに遵守している。だから友達に司との関係をひやかされることなんてない。それはちょっぴり寂しくて、実咲はみんなの前で、司が自分の彼氏だと公言してやりたいと密かに思っていた。
だけど怜奈の「ひやかし」は嫌味でしかない。「彼氏」というステータスを持つ実咲への、僻みともとれるが。
「……ねぇ、本当にムカつくんだけど」
「なにが?」
「あんた、他にやんなきゃいけないこと、あるでしょ」
無視を決め込んでいた実咲の眼前に、白い紙が突きつけられる。それは、実咲の通知表だった。
「なんでお姉ちゃんが持ってるの」
「お母さんがお父さんに見せたあと、そのまま机の上に置いてあったのよ。なんなのこの成績、ほんと散々ね。補習受けた方がマシなんじゃない?」
「……うるさいな」
ここぞとばかりに怜奈は攻撃してくる。実咲は司の顔を思い浮かべ、心の平穏を保ち続けた。
「私には必要としてくれる人がいるから。お姉ちゃんには分からないと思うけど」
「はあ!?」
本心をまるごと告げた実咲。怜奈はそれを聞くや否や、鬼の形相をした。怖いくらいの鋭い目つきで、実咲を睨めつける。
「あんたねぇ、ちょっとは自分の立場わきまえた方がいいんじゃない!? うちは、あの小椋総合病院なのよ!? 色ボケするのもいい加減にしなさいよ!」
怜奈は実咲の左手を掴みあげ、そのビーズのブレスレットを奪った。
「何するの!? 返して!」
「なにが彼氏よ、浮かれちゃって!? ひとりで背負わされてるこっちの身にもなって!」
ブチッ――
ブレスレットが引きちぎられた。
勢いよく音を立ててほどけていくビーズ。その最後の1つが床に落ちた瞬間、実咲は、叫びながら怜奈の頬を平手打ちした。
「お姉ちゃんに私の何が分かる!?」
瞳をうるませながら、実咲は思いのすべてをぶつける。だけど怜奈は、それを聞き入れようとはしなかった。冷たい声で、実咲に命じるだけだ。
「……実咲。出てって。今すぐ家から出てって!」
「言われなくてもそうするよ!」
最後に、これ以上ない侮辱の言葉を吐き捨て、実咲は家を飛び出した。
◇ ◇ ◇
「…………もしもし」
『もしもし。実咲?』
「……………………つか、さ」
『……実咲……泣いてる?』
「…………お姉ちゃんと、いろいろあって。もう家、帰りたくないよ……」
さっき部屋でスマホをポケットに入れたのは、不幸中の幸いだった。家を飛び出したものの、実咲が縋る相手は決まっていたのだ。鼻をすすりながら、実咲は訴える。司はしばらく沈黙していた。
『……今どこにいる?』
「家の近く、ぶらぶら歩いてる……」
『迎えに行くから、駅で待ってて』
「……私がそっちへ行く」
それは、帰りたくないという、強い感情の表れかもしれない。
『でも、電車乗る金無いだろ』
「定期、いつもスマホと持ってるから。司、水々丘に住んでるんだっけ? 定期使えるから、私が行く」
『……そっか。なら、水々丘の東口で待ってるから。くれぐれも気をつけて』
「うん、ごめんね司……。ありがとう」
涙をぬぐって、電話を切る。建物のガラスに映っていた自分の目は、真っ赤に充血していた。
◇ ◇ ◇
水々丘駅へ来たのは初めてじゃない。難なく駅に辿り着いて、東口へと歩く。だけど、荷物もなにも持っていなくて、しかも泣きはらした目をしているからか、すれ違う人が驚いたように実咲を見てくる。実咲はそれが嫌だった。
「実咲!」
東口へ着くとすぐ、声がした。自転車に乗っている司だ。ずいぶん前にここに着いたらしい。
「大丈夫か?」
「司……迷惑かけて、本当にごめん」
涙声でそう言って、俯く。
司は、優しい微笑みを浮かべて首を振った。実咲の家庭の悩みをある程度聞いて、知っていた彼は、実咲の頭にぽんと手を乗せた。
「謝らなくていい。行こうか」
「い、行くってどこに?」
そういえば、水々丘に来たのはいいものの、その先を全く考えていなかった。とにかく司の傍に行きたいという思いで必死だったのだ。
慌てる実咲に、司は涼しい顔で言った。
「俺の家」