第2章 愛憎 ~女帝に制裁を~ ①
(ゆ、夢じゃないよね!?)
学校のカリスマ・速水 司と手を繋いでいる。しかも、「恋人」として。
2人で映画に行った日から、数日。実咲はいまだに信じられない。
速水 司が、自分の彼氏だということを――。
(速水くん、手……大きい)
今日は土曜日。実咲と司は、2人で県外の水族館へデートに来ていた。水族館というのは完全なる実咲の希望で、司にはつまらないのではないかと危惧したが、案外彼も楽しんでいるようで安心した。
何よりも、司が自分を「彼女」として扱ってくれること。くすぐったくて甘いその扱い方は、実咲を途方もなく幸福にさせる。
(こっ……こんなに幸せで、いいの!?)
実咲は、身悶えする思いだった。
ただ、あの日。
司と付き合うことになった日、ひとつだけ彼から条件を提示された。
――"俺と付き合ってること、誰にも言わないで"
その時の実咲は、あまりの幸福に正常な判断力を失っていて、半ば催眠術にかけられたように頷いていた。
けれど数日経って思い返してみると、なんとなく不可解で不自然な申し出に思えなくもない。
(……まぁ、速水くんには速水くんの事情があるのかもだし)
何より実咲は、司に嫌われたくなかったから。協力してくれていた友達には申し訳ないが、2人の関係はまだ誰にも知らせず、司との約束を従順に守っていた。
(……そばにいれるだけで、幸せだよ。それ以上なんて望まない……)
並んで歩いてとりとめのない話をしながら、実咲はそんなことを考えていた。
◇ ◇ ◇
「わ、クラゲ!」
館内の照明がだんだん暗くなっていき、クラゲコーナーが始まる。実咲がいちばん楽しみにしていた場所だ。
色とりどりにライトアップされた水槽がいくつも並び、様々な種のクラゲが悠々と泳いでいる。その光景はとても幻想的で、実咲の心を癒した。
「きれい……」
実咲は感嘆の声を上げる。クラゲ自体も好きだし、何より、こういうロマンチックで神秘的なものは大好物なのだ。しばらく水槽にへばりつくようにしてクラゲを観察する。
2人の間には、心地よい沈黙が流れていた。
「……昔、母と姉とここに来たことがある」
けれど不意に、司がぽつりと言った。
「そうなの!?」
驚いて、実咲は彼を振り向く。
「うん、今思い出したよ。たぶん、俺が小学校に入る前じゃないかな。姉が、クラゲが怖いって泣きだして」
「クラゲ……」
「まぁ、無理もないよね。ここ、こんな暗闇だし、クラゲって変わった形してるから」
「刺されると怖いしね」
「そうそう。姉はそのイメージが強かったんじゃないかな。でも俺も、それはそれは単純で健全な男児だったから。泣いてる姉を守るために、ここにいる全てのクラゲにガン飛ばして威嚇して帰ったわけ」
「なにそれっ!?」
「クラゲの寿命は知らないけど、もしかしたらここにかつて俺に睨まれたヤツが……」
「いないでしょ、さすがに!」
笑いながらも、すかさずツッコミを入れる。司はこういう面白い一面も持っているのだ。実咲は、こんな冗談を言う司が好きでたまらなかった。
それに、以前よりも家族の話を進んでしてくれるようになったのも、嬉しい。
「前から思ってたけど、速水くんって、けっこうお姉さん好きだよね」
「……どうかな。昔はわりと依存してた自覚があるけど」
司は苦笑する。実咲も、「シスコンの速水くんも好きだよ」なんて冗談を言ってやろうかと迷ったけれど、さすがに自重しておいた。
「でも、不思議だな。あの時は、姉と母とここに来て。今は、『彼女』とここにいる」
(……速水くん)
司がそんなことを言うので、実咲は一気に照れくさくなった。ちょっぴり顔が赤いかもしれない。
「……今は、」
司が、繋いでいた手を離して、実咲の顎を持ち上げた。
(……そういえば、周り、誰もいない)
そう気づいたのと同時に、司の顔が降りてきて。
「実咲がいないとダメだ」
暗闇に溶け込むように、そっと。
実咲は、はじめてのキスをした。
◇ ◇ ◇
「これ、よかったら」
帰りの電車で、司が突然プレゼントをくれた。
「お店で、ずっと見てたから」
(うそ……!)
袋を開けて出てきたのは、ブレスレットだった。
実咲が水族館の売店で見かけ、あまりにも可愛いので買おうか迷っていたものだった。
「ほんとに嬉しい……!」
予想外のプレゼントが本当に嬉しくて、実咲ははしゃいだ。どうしても笑みがこぼれてしまう。
水族館らしく、マリンがモチーフのブレスレット。白や水色のビーズを基調として作られていて、とっても可愛いものだった。
「それ、貸して」
司は、実咲の手からブレスレットをやんわり奪った。そして、彼女の左手をそっと取る。
「……やっぱり、似合うね」
司がブレスレットをはめてくれる。それはまるで、恋人たちがその薬指に指輪をはめる、あの仕草のようだった。
(幸せ……)
実咲は、司の目を見つめながら微笑む。
(好き。……司)
◇ ◇ ◇
「小椋総合病院」
そう書かれた建物を横切って、隣の小高い丘陵に建つ高層マンションに入る。ここの最上階が、実咲の家だった。
エレベーターのボタンを押す。その左手には、司に貰ったブレスレット。
エレベーター内には実咲一人。にやける顔を隠す必要もないので、遠慮なくニヤニヤさせてもらう。
最上階に着いた。
実咲は、辿りついた部屋のドアを開ける。
「ただいま」
そう言ったところで、返事はないと思っていた。父も母も仕事、姉は予備校で勉強だろうから。
「……実咲、どこに行ってたの」
けれど予想に反して、リビングに――姉がいた。
「お姉ちゃん。帰ってたんだ」
「ちょっと疲れたから午前で帰ったのよ。それより今日、塾の模試でしょ?」
「…………休んだ」
「『体調不良』だって? 先生方が心配してたわ」
姉の怜奈が、少し口の端を上げながら言う。「体調不良」のところをわざとらしく強調された。
(………このイヤミ女)
確かに、ずる休みをした自分も悪いと思っている。だけど司と予定が合いそうなのは今日だけだったし、何より、実咲にとっては模試なんかよりも大切なことだったから。
「そんなに着飾ってどこに行ってたのよ。……彼氏でもできた?」
ふっ、と嘲笑する怜奈に、かっと頭に血が上る。
「…………彼氏だよ」
ブレスレットに、そっと触れた。
そのときの実咲は、司との約束なんて、きれいに忘れ去ってしまっていた。
怜奈への劣等感だけが、実咲の口を動かしていて。言葉にしてしまってから、しまった、と後悔する。
「あんたに、彼氏って。冗談でも笑えないわよ。……本当、いい身分よね。私だって一日くらい、親に見放されてみたいもんだわ」
実咲は、自分の部屋へ駆け込んだ。怒りに任せて勢いよくドアを閉める。
「くそ姉……」
怒りと、悔しさと、自己嫌悪。入り交じった負の感情は、実咲の心を黒く染め、蝕んだ。
(……あんなやつのせいで泣くなんて)
上を向いて必死に涙を堪える。
(……あんなやつのせいで、司との約束を破るなんて)
ついに堪えきれなかった涙が、頬を一筋、落ちていった。