第1章 序幕 ~お嬢様は魔王がお好き~ ④
チャイムが鳴った。
「終わったぁぁぁぁ!」
そんな叫び声と共に、教室内の生徒が一斉にシャーペンを置いた。解放感からかハイテンションになっている生徒たちを、教師もやれやれといったふうに見守っている。
「実咲っ! お疲れ! どうだった?」
期末テスト最後の教科が終わり、ミカとチエがすぐさま実咲に駆け寄ってきた。
「お疲れ様! ……どうしよ、いつも通り悲惨だよ〜!」
数学があまり得意ではない実咲はうーんとうなだれる。
「だいじょーぶだいじょーぶ、赤点じゃなきゃいーって!」
進学校とはいえ、ミカと実咲はそこまで勉強面にプライドがあるタイプではなかった。それよりも、これから待ち受けている大イベントの方がよっぽど重大である。
「いよいよだね、実咲」
チエはわくわくして目を輝かせていた。ミカもそれに同調する。
「彼は今回も一位なんだろね〜」
にやにやしながらミカが見た先には、もちろん司。実咲は、逸る気持ちを抑えきれない。
それもそのはず、なんと彼女は数日前、司に、「テストが終わったら遊ぼう」という約束を取り付けていたのだ。
(うわ、どうしよどうしよ、緊張してきた)
勇気を出して、LINEで、「テストが終わったら遊びに行かない?」と司を誘った。出来るだけ軽いノリを心がけたつもりだ。その時の実咲は、断られてもいいや、くらいの気持ちだったので、司がそれを快諾したことにかなり舞い上がっていた。
胸に手をやると、心臓がバクバク言っているのが分かる。おかげでテストなんて全く集中できなかった。
実咲も司も部活をしていないから、このあとすぐ近くのショッピングモールで映画を観ることになっている。朝から、髪を巻いて申し訳程度のメイクもしてみて、気合十分だ。
「うわー、緊張はんぱない」
つい本音を漏らす実咲の肩を、ミカがばんと叩く。
「だいじょーぶ! 実咲、チョー可愛いよ。速水のこと、しっかり見極めてきな」
「実咲、きっと上手くいくよ」
2人の励ましに、実咲は破顔した。
そして、教室のドアの側にいる司が、こちらを見ているのに気付く。
「小椋さん」
司が実咲を手招きして呼び、ミカとチエはそれぞれに散っていった。
(……ついに)
カバンを取って、ひとつ息をする。これは夢じゃなくて、現実なのだ。これから司の隣を歩くのだ――
「待たせちゃってゴメンね」
実咲は、司のもとへ駆け寄った。
◇ ◇ ◇
司と共に校門への道を歩く。実咲は緊張しながらも、なんとかいつも通りのテンションで他愛ない会話を続けられていた。
「テストどうだった?」
「……聞かないで」
「今日の教科苦手?」
「うん。数学がある時点でいろいろ諦めてた。……速水くんは全部カンペキでしょ?」
嫌味ではなく、完全なる本心で実咲はそう言った。司は困ったように顎を掻く。
「いや、数学かなりミスしたよ。やっぱり睡眠不足はダメだね」
「えー、遅くまで勉強してたの?」
「そういうわけじゃ……」
「速水くん、バイバイ!」
司の声に、突然誰かの声が重なった。と、同時に、後ろからやってきた女の子が2人を追い越していく。
「おー、バイバイ」
司がその子に愛想よく挨拶を返す。つられて実咲もその子を見た――けれど、一瞬、息が止まった。
(香取さん……)
香取さんは、早足で駅への道のりを歩いていく。よほど急いでいるのか、その後ろ姿はどんどん小さくなっていった。今日もモデルのお仕事があるのだろうか。それでもテストは受けにくるだなんて、なかなか律儀な子だ。
「香取さんって、あの子だったんだね。俺、最近やっと知り合えたよ」
香取さんの後ろ姿を見送りながら、司が言う。実咲はハッとするけれど、彼の声の調子も表情もいつも通りで、嘘をついているようには到底思えなかった。
(今、聞けちゃうくらいの勇気があればな)
香取さんと本当に何もないの? ――その一言を聞けばいいだけなのに、なぜか、怖い。あの日のミカの険しげな顔と、今見た司の表情が、頭の中をぐるぐる回る。
せっかく、司とこうしているのに。
実咲の心は、どんどん曇っていった。
◇ ◇ ◇
「小椋さん、もしかして映画好みじゃなかった?」
ショッピングモール内のカフェで、司と向かい合って座っている。なのに実咲は、どうやらぼんやりしていたようだ。
「え!? ううん、面白かったよ!」
実咲は慌てて言葉を返す。映画のチョイスは司だったから、気を遣ってくれているのかもしれない。実際、映画は面白かったし、楽しめたけど。実咲の心を占めているのは、やはり……。
(速水くんの考えてること、全然分かんない)
司は、おそらく実咲の様子が変だということに気付いている。余計な気を遣わせるのはよくないと思ったけれど、気がついたら悶々と考え込んでしまっているのだ。
そもそも、この約束を取り付けた目的も、司の真意を見極めるためだった。賢い彼の本当の気持ちなんて、実咲に暴ける気がしなかったけれど。このままでは埒があかないし、なにより司に迷惑をかけると思ったから。
(もう、言っちゃおう)
決意は、意外にも早かった。
すぅ、と息をすい、アイスティーを一口飲んだ。
それでも乾いている口を、開く。
「……そういえばミカが、図書室で速水くんと香取さんが仲良くしてるの見た、って言ってた」
早口になりそうなのをなんとか我慢する。声が少し震えていたかもしれない。司の目を見れなくて、実咲は、アイスコーヒーのグラスを持つ彼の指先をひたすら見つめていた。
しばしの、沈黙。
実咲にとってそれは、あまりにも長かった。空気が重くて、息が出来ない。もしかしたら司は、聞こえていないふりをするのではないか、とすら思った。
けれど彼は、静かに口を開く。
「なんだかそんな言い方されると色んな人に誤解されそうだけど、あの時たまたま隣の席になって、そこで初めて話したんだ。すごくノリのいい子だったから、傍から見たら仲良さげに見えたかもしれない……だけど、」
司はそこで、一旦言葉を区切った。彼もなぜか、実咲の目を見ない。少し長めの沈黙のあと、彼から再び紡がれたのは、いつもより低い声だった。
「……小椋さんは、どうやら俺とあの子の仲を疑ってかかってるみたいだけど、正直辛いよ。だって俺……」
刹那に、実咲の中にあった予感や期待が、確信に変わる。その先に続く言葉は、その目を見て聞いていたい。そう思って視線を上げると、ちょうど彼と目が合った。
「……小椋さんのことが、好きだから」
あまりにも幸福なよろこびは、痛みと区別がつかないほどに強く、実咲の心を貫いた。