エピローグ 少女でなくなる日
寒い冬のある日、スーツ姿にコートを羽織った更科秀明は、水々丘にあるとある美容院を訪れた。
「――まあ、秀明くん。早いわね、もうちょっと待っててくれるかしら」
店内に入ってすぐ、ソファに腰掛けていた志野透子が、立ち上がって秀明を迎えてくれた。
「はい、すみません。早く着きすぎてしまって」
「いいのよ。それより、スーツ似合ってるわね。モデルみたいよ」
明るく話す透子だが、その髪には白いものがたくさん混ざっていた。かつての美貌もほとんどといっていいほど失っている。
それもそのはずだ。
この2年間……悪夢のような出来事ばかり経験したのだから。
「おまたせ」
背後から声がして、秀明はすぐに振り返った。
そこに立っていたのは――振袖姿の泉美だった。
「綺麗よ、泉美」
透子は娘の晴れ姿に感極まっているようだ。振袖がもともと透子のものであるということも関係しているのだろう。
秀明も、美しく着飾った泉美の姿にしばし見とれた。
高校時代と比べてやつれているし、表情も暗くなってしまったけれど、やっぱり美女だなぁと改めて思った。
「2人の写真、撮ってあげるわね」
透子の提案で、秀明は泉美とともに、美容院の入り口に並んだ。
美形の2人が並んで微笑むその光景は、まるで雑誌の撮影かなにかのようだ。店内にいる美容師たちも、興味津々といった様子で2人を観察している。
「……じゃあ、成人式楽しんできてね」
やがて、写真を確認した透子が、2人に向かってそう告げた。
今日は、1月の第2月曜日。
――成人の日だ。
◇ ◇ ◇
「外に出るの、久々だなぁ」
駅への道を歩きながら、泉美がぽつりとそう言った。秀明はそれに無言で頷く。
ここ2年ほど、泉美は、1日中家でぼうっと過ごしていることが多い。
なぜなら彼女は、約2年前のあの事件以来、心を患ってしまったからだ。
2年ほど前――弟である速水 司に、強姦未遂を受けて以来。
泉美は、普段の生活をしているときでも、突然震え出したり、取り乱したりするようになってしまった。しばらく入院し、現在はある程度回復したが、それでも通院はずっと続けている。
そしてなによりも、泉美に起こった一番の変化は――彼女が「男」という性別を毛嫌いするようになってしまったことだろう。
司との一件により、泉美は異性を全く信じられなくなってしまったのだ。
かろうじて秀明だけが泉美のそばにいることを許されているが、秀明は、以前のように「恋人として」泉美に触れることは不可能になっていた。
約4年間一緒にいるけれど、彼女と体の関係はいまだにない。それどころか、キスやハグすらできなくなってしまった。
泉美は何度もそのことを詫び、「もう離れてくれていい、見捨ててくれていい」と秀明に繰り返した。
しかし秀明は、泉美から離れるつもりは毛頭なかった。
これまでも、これからも。
彼は、ずっと泉美に寄り添い続けるつもりだ――。
白い息を吐き出しながら、秀明は、あの悪夢のような日々を思い返す。ずいぶん前のことのようで、昨日のことのようでもあった。
――司が泉美を犯そうとし、志野家を去って以来。
透子は公的機関の力も借りて必死に息子を捜索したが、彼が発見されることはなかった。
カリスマ的存在が行方をくらましたことに、春日井学園もしばらくの間大騒ぎになっていた。
そして、透子たちを何よりも苦しめたのは、失踪した司の部屋から、数々の「悪夢」とも呼べる計画書が発見されたことだった。
あれらを初めて見たときの衝撃を、秀明は一生忘れないだろう。
小椋怜奈と桃井彩女の失墜も、芦屋雄大と香取茜の死も。
春日井学園を次々と襲った奇怪な事件の黒幕は、他でもない、司だったのだ。
秀明は以前から、なぜ司が春日井学園に入学したのかを不審に思っていた。姉がひどい仕打ちを受けた高校に、どうして自ら通うことにしたのだろうか、と。
その真意がこんなにも黒いものだったなんて、一体誰に想像できるだろうか。
――速水 司は、色々な場所から、色々なものを変え、奪っていったのだ。
とりわけ彼は、姉である泉美からたくさんのものを奪い去った。秀明はそれを許すつもりはない。
秀明は思う。
司は決して、泉美を愛していたのではない、と。
彼は泉美よりも誰よりも、彼自身を愛していたのだ。自身を保つために泉美を欲し、自身から泉美を奪う者がいれば、あらゆる手段で排除した。
そんなのは本当の愛情ではないと思う。
ただその一方で、秀明には、司を哀れだと思う気持ちもあった。
事件がある程度落ち着いてから、透子から司の生い立ちを聞いた秀明は、彼の左肩の傷が実の父からつけられたものだということに驚愕した。
(まっとうな父親のもとで、まっとうに愛を注がれて育ったとしたら、今ごろ彼は……)
そう思うと、秀明はやりきれない気持ちになった。
――司は、悲劇が呼んだ悲劇の、加害者であり犠牲者なのだ――
「秀明くん? どうしたの?」
泉美の声にはっとして、秀明は顔を上げた。
どうやら立ち止まって考え込んでいたようだ。
「ごめん、何でもない」
そう言った秀明に、泉美がたたたっと駆け寄ってくる。
何事かと思う秀明の手を、泉美はきゅっと掴んだ。
「早く行こ?」
秀明は、泉美の行動に目を見開く。
「……うん」
思わず視界がじわりと滲む。
彼女から触れてきてくれたことが……本当に嬉しかった。
(……泉美)
涙が零れそうになるのを、上を向いて必死に堪える。すると視界いっぱいに、青く澄み渡った空が広がった。
(もう……終わりにするんだ)
――哀しい物語に、とらわれるのは。
秀明は目元を拭うと、大切な人の手をぎゅっと握り返し、歩き出した。
ACTOR ~魔王のいる学園~ 完




