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第6章 終焉 ~悲劇の行き着く先~ (完)


 もう、迷いはなかった。

 一度決意してしまえば、まるで今までの葛藤など嘘であったかのように、司の心は晴れやかだった。


 相変わらず、泉美には微妙な距離を置かれている。しかし司はもはや、そんなことは問題にしていなかった。彼はただこっそり、じっくりと、計画遂行の機会を伺い続けた。


 そして――ついにその日はやってきた。


 3月9日。

 その日は皮肉にも、雲一つない快晴の日曜日だった。


 季節が早送りされたのかと勘違いしてしまいそうなぽかぽかとした陽気の中、泉美がベランダで洗濯物を干している。

 

「いい1日になりそう」


 リビングへ戻ってきた泉美が、朝食を摂る司にそう告げた。

 司は「そうだね」と返事するが、泉美がどこか自分に言い聞かせるような口調なのに気づいていた。それに、今朝からどこか上の空であることにも。


 司はその理由を知っていた。


「合格発表、何時からだっけ?」 


 ついに今日、秀明の入試の合格発表が行われるのだ。

 泉美は恋人の合否が気が気でないようで、朝からずっとそわそわした様子を見せていた。


「12時だって」


 そう言われてリビングの壁掛け時計を見ると、短針は10のところを指している。


「あと2時間か」

「早くしてほしい! 心臓がもたないよ」


 泉美は、胸のところを両手で抑える仕草をする。

 今までの司なら、こんな泉美の姿を見るたびに嫉妬に狂っていた。

 しかし今の彼の心には、不思議となんの波風も立たない。むしろ、秀明に対する優越感すらあった。


 ――もうすぐだ。


 もうすぐ、待ち焦がれ続けた瞬間がやってくる。


「秀明さん、もし合格してたら、うちに来るかな?」

「ううん。合格しててもダメだったとしても、とりあえず今日は電話でって。うちにはまた今度来るって」


 それを聞いて、司がわずかにほくそ笑んだのに、泉美は気がついていなかった。


◇ ◇ ◇

 

 そして、時計の針はついに、正午を示した。


 泉美はダイニングテーブルの椅子に座って、目の前に置いたスマホの画面をじっと凝視している。

 秀明からの着信にいち早く気づくためだ。


 司も、そんな泉美を固唾を呑んで見守る。

 緊張で、家中の空気がぴりぴりと張り詰めていた。


 しかし、待てども待てども、電話がかかってこない。


(もう……15分か)


 もしかして、という悪い予感が2人に()ぎる。

 やはり……E判定を覆すのは難しかったか。

 センター試験の結果が足を引っ張ったか。


 泣きそうになっている泉美に、司が声をかけようとした、その時。

 

「来たっ!」


 泉美のスマホが、勢いよく震えた。


「もしもし!?」


 間髪入れず、彼女は着信に出る。相手は秀明で間違いないだろう。


「うん、うん……ほんとに!?」


 その驚きと喜びの混ざった声音に、司はすぐに、電話の内容を悟った。

 

「おめでとう……! 本っ当に、おめでとう!」 


 涙ぐむ泉美が、震える手でスマホを握りしめている。


(……受かったんだな)


 さすがだな、と司は思った。敵ながら、秀明の土壇場の底力は尊敬に値する。


「司に代わるね……!」


 涙を拭いながら、泉美がスマホを手渡してくる。

 「合格だって」と小声で囁いてくるのに頷き、司は電話に出た。


「もしもし、おめでとうございます」

『司くん、久しぶり。ありがとう』

「さすがですね。本当にお疲れ様でした」

『いや……正直、俺が一番びっくりしてるよ』


 謙遜ではなく、秀明は本気でそう思っているようだった。


「うちには来られないんですか?」

『今日は……ちょっとバタバタしてるから、また落ち着いてからお邪魔させてもらうよ』


 「わかりました」と言って通話を終えスマホを返すと、泉美はすぐにメールアプリを起動した。


「お母さんにも報告しなきゃ……!」


 いまだ震えのおさまらない指先を動かしながら、泉美は必死でメールを作成している。


「よかったね、泉美」

「うん……!」


 堪えきれなかったのか、泉美の頬を光るものが一筋、流れ落ちていく。


 司は、その涙をどこか他人事のように見つめた。


「あのさ、泉美」

「ん?」


 司が呼びかけても、泉美はメールを作成するのに夢中で生返事だ。


「この前風邪引いたとき、俺が泉美にしたこと覚えてる?」


 しかし、乾いた声で発せられた司の言葉に、泉美はさすがに顔を上げてしばらく硬直した。

 数秒おいて、必死に思考を巡らせ、あのとき司にキスされたことだろうと思い至った彼女は、しどろもどろになりながらもなんとか口を開く。


「え、……あ、じ、『事故』のことでしょ。覚えてるよ」


 泉美はあのことを、あくまで「事故」だと思いたいようだ。

 突然ふたりの間のタブーに触れた弟に、泉美は少なからず混乱している。 「なんでこのタイミングでそんな話をするの」という抗議文が顔に書かれている。


「どうしたの、急に。私、別に気にしてないよ」

「あれ、事故じゃないよ」

「……え?」


 表情を固くする泉美に、司は詰め寄った。


「わざとやった」


 そう言いながら彼は、姉の手からスマホを奪う。逃げ道を失くすためだ。


「な……なんで」


 後ずさる泉美に、司は手をかけた。

 そのままソファに押し倒して、戸惑う姉をじっと見下ろす。


「えっ……!?」


 何が起こっているのかよく飲み込めていない泉美が、怯えた表情で司を見上げた。

 司はそれには構わず、いたって冷静に、姉のブラウスのボタンを外しにかかる。


「な……、つかさ、なんで……んっ――!?」


 抗議の声をあげようとした口を、舌をねじ込むことで封じる。逃げまどう彼女の舌に強引に絡みつき、吸いついた。


 声を奪われた泉美は、代わりに、腕に力を込めて司を押し戻そうとする。しかし彼女の細い腕が本気を出したところでたかが知れていた。

 そんな姉の両腕を、司はいとも簡単に掴んで、押さえつける。


 やがて司がいったん泉美から離れると、お互いの唇を細い銀糸が結んでいた。それは姉弟である2人には決して許されぬはずの光景で、泉美は、そんな目の前の現実を受け止めきれていないようだった。彼女はただただ愕然として、ぼうっと司の瞳を見つめる。


「どうして……」


 震えながら、泉美はそう呟く。


「気づいてなかった? ずっと泉美しか見てなかった。泉美のこと、『姉』だなんて思ったことない」

「やめて!」


 泉美は泣き叫ぶような声をあげた。


「こんなの……おかしいよ!」


 彼女は必死に弟の拘束から逃れようとするが、できない。

 嫌悪の表情を浮かべる泉美の口を、司はもう一度塞ぎにかかった。

 

「んっ……! んん――」


 司は一切の容赦なく、思うがままに姉の口内を蹂躙した。その間にも、空いている方の手であらわになった姉の身体を好きなようにもてあそぶ。


 震える泉美を押さえつけながら、司はいま目の前に、ずっと心の奥底で望み続けた光景が広がっていることに打ち震えていた。


 それはあまりに孤独で、独りよがりの欲情だった。


「だ、だれか……誰か、助けて!」 


 唇を解放された泉美は、無駄だと分かっていても助けを乞う。


「ひ、秀明く……」


 憎い男の名を口にしようとした泉美の首を、司はぐっと掴む。

 この期に及んで、まだあの男の入る隙間があるのか。


「……っは、く、くるし……」

「他の男のものになるなんて許さない」


 うわ言のように、司は呟く。泉美の苦悶の表情すら、彼にとっては快感だった。


「一生俺に怯えて暮らせばいい。一生俺のことで悩めばいい」


 どうあっても秀明から離れないというのなら。

 どうあっても司の手に入らないのなら。


 ならば、心を支配するまでだ。

 司から離れていても、秀明のそばにいるときも。


 呪縛のように、常に司という存在を植え付けてやる。


「一生あいつに負い目を感じればいい」


 ――その時、だった。


 玄関のドアが開く音がして、2人ははっとそちらを見る。


 バタバタという(せわ)しない足音が響いて、リビングに現れたのは――秀明だった。


「泉美! 俺、どうしても今日会いたくて……」


 合格発表の喜びをそのままに表現した笑顔の秀明は、目の前に広がっている光景を認めると、しばし固まった。


 恋人が弟に犯されかけているという、信じられない光景。

 

 あまりの出来事に思考が停止したのか、秀明は呆然としたまま硬直している。

 

 しかし、それは司も同じことだった。想定外の(ちん)(にゅう)(しゃ)に、彼は行為の途中で凍りついたかのように動きを止めていた。


 やがて我に返った秀明が、司を泉美から引き離す。部活を引退して半年以上過ぎたとは思えない力強さだった。


「どういうことだ!?」


 庇うように泉美の前に立ち、秀明は司に詰め寄る。

 

 司は無表情でそんな秀明を見返した。

 温厚な秀明はこういう風に怒るのか、と、どこか他人事のようにそう思った。


 司のがらんどうのような瞳に臆することなく、秀明は彼の胸ぐらをがっと掴む。


「説明しろ! 自分が何をしたのか分かってるのか!?」


 体を揺さぶられても、司は抵抗や弁解をすることはなかった。


「あんたがずっと邪魔だった」

「……え?」

「泉美は、俺のものだ」


 その言葉を聞いた瞬間、秀明は顔を歪めた。それは司への軽蔑が滲んだ、いつもの彼からは決して想像がつかない表情だった。


「泉美、ここを出よう。こんなのと一緒に暮らし続けるなんてだめだ」


 秀明は背後の泉美を振り返ると、彼女の腕を掴んで立たせた。


 泉美はブラウスの前をかき合わせたまま、がたがたと震え続けている。まだ司に受けた行為を受け止めきれていないのだろう。

 秀明はそんな彼女の肩を抱いて、玄関へと歩き出す。


「……はは」


 そんな2人を見ながら、司は笑った。

 笑いが止まらなかった。


(――どうあがいても、手に入らないのか?)


 ならばそんな人生になんの意味があるのか。

 なんのために自分はここまで生きてきたのか。

 

「泉美」


 それでもまだ捨てきれない執着心が、泉美に向かってゆっくりと手を伸ばした。


 ――しかし。


「近づかないで!」


 震えながらもはっきりと発された泉美の言葉に、司は伸ばしかけていた腕をぴたりと止める。

 秀明に抱かれながら司を睨めつける彼女の瞳には、家族として十数年の時間を一緒に過ごした「弟」に裏切られたという絶望と混乱がひしめきあっていた。


「もう弟じゃない! 二度と私の前に姿を見せないで!」


 その宣告は、司の世界から、ありとあらゆる要素を奪い去っていった。


 色も、音も、においも、――感情も。


 その瞬間、彼はただ息をしているだけの生物になったも同義だった。


 やがて泉美が秀明とともに部屋を後にしても、司はそれを追おうともしなかった。


 泉美という存在だけが、司の生きている意味だった。

 そんな存在を奪われて、これからどうして生きていけるだろうか。

 

 ふ、と司は笑う。


 おそらく、これが自分への罰なのだ。

 誰よりも愛する存在のために、他人の生活や命を奪った自分への。

 

 手足が冷たくなっていく。

 瞳を閉じると、記憶にこびりついた過去たちが脳内を駆け巡る。


 ――水族館ではにかむ実咲。

 満月の夜、取引をした茜。

 血に染まりゆく芦屋。

 雪の日の秀明。


 暑い夏の日、浴衣姿の泉美――


「さようなら……泉美」

 

 目を開けた司は、玄関の戸を静かに開くと、アパートを後にした。


 その後、彼がそこに戻ることはなかった。


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