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第6章 終焉 ~悲劇の行き着く先~ ④


 高校からの帰り道、司は電車に揺られながら、なんてことをしてしまったのだろうという激しい後悔に苛まれていた。

 あんなことをすれば、泉美は当然司を軽蔑するに決まっている。事実、ここ何日間か、司は泉美にずっと避けられていた。


 あの日――司が風邪を引いた日曜日。

 唇が触れて、一体何が起きているのだろうという一瞬の戸惑いのあと、我に返った泉美はすぐに体を離した。


「……えっ、…………え?」


 司は、混乱を深めていく泉美をじっと見た。

 口元に手をやったまま、姉の表情には複雑なものが浮かんでいる。

 戸惑いと、怯えと、そしておそらく――嫌悪感。


 そのことに気づいた司は、猛烈な恐怖と後悔に襲われた。


 衝動に任せるまま、泉美に「姉」以外の役割を求めてしまった。だからこのまま拒絶され嫌悪され、司は、「弟」という立ち位置すら失ってしまうのではないか。

 「弟」としてすら、泉美のそばに居られなくなるのではないか。


 ――そんなこと、絶対に耐えられない。


 泉美の居ない毎日など、生きていけるわけがない。

 司がここにいる意味を与えてくれるのは、泉美だけなのだから。

 

「――ごめん。急に、くらっときちゃって」


 だから司は、先程の失態をどうにか誤魔化そうとした。あくまで事故を装おうとしたのだ。


 苦しすぎる司の言い訳に、泉美は曖昧に笑う。


「……そ、そうなの。じゃあ私、もう出ていった方がいいね」


 司の目を見ず早口でそう告げ、泉美は逃げるように部屋を出ていった。


「何をやってるんだ……」


 回想を終えた司は、思わずそう呟いてうなだれた。


 あの日以来、泉美は明らかに司を意識している。

 朝起きたときも、夜ごはんを食べるときも。

 なんとか「姉」としての顔を保っているものの、彼女はどこかよそよそしい。必要なとき以外は自室にこもっていることが多い。

 それは泉美が、司の「くらっときた」だなんていう見え見えの嘘を全く信じていないことの証明でもあった。


 司はつくづく、自分が恐ろしいと思った。

 これまで17年間、必死に抑えつけていたものが、突然激流のように溢れ出たのだから。

 

(忘れてほしい。泉美に嫌われたくない……)


 けれども、そう思う一方で、長年の望みを果たせた奇妙な高揚感も渦巻いていた。

 密かに、この積年の想いに勘づいてほしいと願っているのだ。

 「弟」だとしか思っていなかった男に突然キスされ、思う存分戸惑うといい。迷って悩んで考えて、秀明の居場所なんてどこにも無くなるくらい、俺のことでいっぱいになればいい。


 そんな真っ黒な欲望を抱く自分に、司は冷たい笑みを浮かべた。


(『欠陥品』だな)


 そうこうしているうちに、電車が水々丘に到着した。

 電車を降りて駅を出た司は、思わず目を丸くする。

 雪が、水々丘の街を白く覆いかけていたのだ。


 いつもとは違った風景の街を、司は自転車で駆け抜けた。


 吐き出した息が白く消えていく。

 秀明が初めて家に来たのは、ちょうど2年前くらい前のこんな天気の日だったな、なんて考えた。


(帰りたくないな)


 正しくは、「泉美に会いたくない」だ。

 露骨に自分を避ける泉美を見るのが辛かった。その元凶は自分にあるとはいえ。


 それでも自転車はぐんぐん進み、やがて自宅であるアパートに到着する。

 憂鬱な気持ちでドアを開け、「ただいま」と帰宅を告げた司だが、玄関に並んだ靴を見てぱっと顔を明るくした。


「母さん、おかえり!」


 司の言葉通り、リビングのソファに透子が座っていた。


「ただいま。司もおかえり」


 暖房の効いた暖かい室内で、透子は、久々に再会した息子に優しく微笑みかける。

 その隣には泉美が座っていた。


「お、おかえりなさい司」


 ぎこちない笑みを向けられ、ぎこちない笑みを返す。

 しかし透子は、子どもたちに漂う微妙な空気に気づいた様子はなかった。


「泉美に聞いたわよ。体調崩してたらしいじゃない」

「もう大丈夫だよ。泉美が看病してくれたし」

「もうすぐ受験生になるのだし、怪我と病気だけは本当に気をつけてね」


 母の優しさに、司は素直に「うん」と頷く。


「寒くて疲れたでしょ。お茶にしましょう」


 そう言って、透子がテーブルの上にお茶とお菓子を差し出してくれた。


「出張のお土産よ」


 司はそれを見て、2人に向かい合うようにしてカーペットに座る。

 冷えた身体に、温められた麦茶が染み入るようだ。

 一口飲んでちらりと泉美を見ると、彼女は慌てて弟から視線を逸らした。

 司はそんな泉美の態度になんとも言えない気分になりながら、もう一度麦茶を口に運ぶ。


「受験といえば、秀明くんはどうなの、泉美」


 透子の口から出てきた名に、司は茶を飲む手を止めた。


 泉美と秀明は、透子公認の仲だ。泉美が不登校になってしばらくしてから、高校2年生になった秀明が透子に挨拶しに来たのをよく覚えている。透子は娘の恋人であり恩人である秀明をとても気に入り、志野家を自由に出入りすることを許可していた。


「それが……センター試験、あんまり良くなかったみたいなの。緊張しちゃったみたいで……」

「そうだったの……」

「でも、ぜったい挽回するって」


 泉美の言う通り、秀明の不合格はまだ決まったわけではない。

 国公立大学の入試では、大学や学部ごとにセンター試験と二次試験の配点が異っている。

 秀明の志望大学は二次試験に高い配点がされていて、もしセンター試験で失敗しても、後から充分挽回可能なのだ。


「そうね。まだまだチャンスはあるわよね。ねぇ、司」


 突然話を振られ、司は、挙動不審なくらいにびくついた。


「そう、だね……。厳しいかもしれないけど、頑張ってほしいね」


 なんとかそう言いながら、彼は、麦茶の入ったコップをぎゅっと握りしめた。


◇ ◇ ◇


 それからしばらく経ち、月日は2月の24日になった。

 

 明日はいよいよ国公立大の前期試験ということで、学校の教師たちはどこか右往左往していた。


 そしてそれは、志野家でも同じことだった。


 恋人の入試を明日に控え、泉美は心ここに在らずという感じだった。1日中、そわそわ落ち着かない様子を見せている。心なしか、透子も若干緊張しているようだ。

 今からそんな調子じゃ合格発表までもたないのでは、なんて考えつつ、司は、いまだ泉美との間に微妙な距離があることに落胆していた。


 そんな日の夜のこと。

 たまたま通りかかった泉美の部屋から何やら話し声が聞こえてきて、司は思わず足を止めた。透子はいま入浴中で、部屋には泉美1人であるはずだ。


「……秀明くんは……」


 小さく聞こえてきた声に、更科秀明と電話中なのだと悟った。

 おおかた、明日の試験のために、泉美が秀明を勇気づけているといったところか。

 通話なんてせず早く寝たらいいのに、なんて冷たいことを考えつつ、司は耳をそばだてる。

 すると泉美の口から、衝撃的な言葉が出てきた。


「……ぜったい、旅行いこうね」

 

 息が止まりそうだった。


 ……「旅行いこうね」?


 いつ?


 どこで?


 ――まさか、2人で?


 そう思い至ったとき、司の胸が、どくどくと早鐘を打ち始めた。


 やがて、泉美の「頑張ってね」という言葉とともに、2人の会話は終了したようだった。

 しかし司はその場から動くことができず、姉の部屋の前で呆然と立ち尽くす。

 すると突然扉が開いて、中から泉美が姿を見せた。


「わ、司!?」


 まさかそこに人がいるとは思わなかったようで、不意をつかれた泉美が大声をあげる。

 それに構わず、司は彼女に、「秀明さんと旅行いくの?」と静かな早口で問いかけた。


「え……。聞こえちゃってた……?」


 久しぶりにまともに会話できたという喜びすら忘れ、司は、泉美の返答を一心に待った。どうにか、「2人で旅行にいく」ということを否定してほしかった。

 しかし彼の願いも虚しく、泉美はほんのり頬を染め、弟から目を逸らしながら小さく口を開いた。


「秀明くんが受かったら……行くかも。お母さんにはまだ黙ってて」


 泉美の言葉は、司に、とんでもない衝撃を与えていった。

 まるで殴られたかのようなショックだった。


 ――恋人が、2人で旅行にいく。

 2人でどこかに泊まる。


 その奥にある意味を理解できないほど、司は子どもではなかった。


「つ、司!?」


 気がつけば司は、身を翻していた。


「どこ行くの!?」


 泉美の制止を振りきって、彼は、ものすごい勢いで家を出る。


 降り積もった雪にも、肌を刺すような寒さにも構わず、司は何かに取り憑かれたかのように街を駆け抜けた。

 走って走って、以前小椋実咲を連れてきたことのある公園に辿り着いたとき、堰を切ったように涙が溢れ出した。


「ずるい!」


 実咲と腰掛けたベンチに拳をぶつけながら、司は叫んだ。


「ずるいずるいずるいずるいずるいッ!」


(どうして手に入らないんだ!? どうして他の男のものなんだ!?)


 憎かった。


 秀明が、誰よりも憎いと。

 その時彼は、はっきりとそう思った。

 

「俺の方が、好きなのに……」


 もう十数年も一緒にいるのに。

 どうして泉美は、出会ってたかが2年の、あの男がいいのだろう。


 弟というだけで、視界にも入れてもらえない。

 「いい弟」という認識を、一度たりとも外してくれたことがない。


 頬を伝った大粒の涙が、木製のベンチを黒く染めていく。


 ――ずっと、葛藤していた。

 感謝と独占欲とのあいだで、揺れ動いていた。


 しかし今、司の心は、真っ黒なもので覆われ始めていた。

 旅行に行かせて……2人きりになんか、させない。


「泉美は、俺のものだ」 


 小椋も、桃井も、芦屋も、――父も。

 邪魔者はすべて、排除してきた。


 ――今度は、秀明だ。


 迷いを振り切った司は、哀しいくらいに美しく、笑った。


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