第6章 終焉 ~悲劇の行き着く先~ ③
司ははっと目を覚ました。
「っ……」
ゆっくりと身を起こし、彼は不愉快な感情に顔をしかめる。
息は荒いし、全身がじっとりと汗ばんでいた。
父親の夢を見たのは久々だった。昔はよく見ていたものだが、高校生になって見たのは、思い返す限りこれが初めてではないだろうか。
普段はできるだけ、その存在を意識の外へ追いやっているというのに。
それなのに、夢なんて見てしまうと、否が応でも父のことを考えてしまう。
(……本当は、苗字を変えたい)
あんな男と血が繋がっている、なんて証拠はすぐにでも捨ててしまいたかった。
しかし、透子が子ども2人を連れて勝のもとを離れた際、相続上の複雑な理由で、司だけ苗字を変えることができなかったのだ。それでも長年かけて透子が相続問題を解決し、司に苗字の変更を提案してくれた。しかし彼は、「計画」という私利私欲のためにそれを拒否してしまった。
たとえばもし、司が「志野 司」になったとしたら。
春日井学園が司を「志野泉美」の親族だと疑い、小椋や桃井、そして芦屋を襲った一連の事件の関係者だと推測しても何らおかしくはないのだ。
彼はそれらのリスクを冒さないために、現在も苗字を変えないままでいる。
司は、「計画」を練っていると、たまに辛くなることがあった。自分はあの強欲な、どうしようもない男のれっきとした「息子」なのだと実感してしまうからだ。
泉美に対する強い執着も。
どんな手を使ってでも自分の思い通りにするところも。
似ている。どうしようもなく「親子」なのだ――
「司、入るよ」
ノック音とともに泉美の声が聞こえて、考え込んでいた司は、飛び上がらんばかりにびくついた。
「わ、汗びっしょりじゃない。インフルエンザじゃないといいけど……」
おそるおそるドアを開けて姿を現した泉美は、弟の憔悴した様子を見て目を丸くする。
「大したことないよ」
「またそんなこと言って……」
強がる司を咎めつつ、ゆっくりこちらへ近づいてきた泉美は、ベッドのそばの学習机に食器とお箸の乗ったお盆を置いた。
「お昼ごはん、ここに置いておくから。食べきれなかったら残してね」
泉美のその言葉にはっとして時計を見ると、時刻はもう正午を過ぎていた。どうやら司は、気づかない間にかなり眠りこんでしまっていたようだ。
「熱のほうはどう?」
かがんだ泉美が、両手で無遠慮に首元に触れてくる。
そっと当てられた彼女の手は、やけにひんやりと感じた。
「まだ高いね」
(そりゃ、泉美がそんな風に触ってくるから)
なんて言えるはずもなく、司はただ、泉美が着ているニットの柄をじっと見つめる。
「……すごく、うなされてたよ」
そうしてしばらくぼんやりしていた司は、泉美の言葉を、一瞬理解することができなかった。
「……え?」
「心配になって、一回見に来ちゃったもん」
「うなされてた」?
もしそれが真実だとしたら、思い当たる原因は一つしかない。
司はしばし黙り込んだ。
俯くと、締めつけられるような頭痛と身体の火照りを実感する。
いつも通り気丈に「大丈夫だよ」と言おうとしたが、彼はすぐにそれを思い直した。そんな強がりはきっと泉美に簡単に見抜かれて、崩されてしまう。
けれども、代わりになんと言えばいいのか分からない。
長い沈黙と熱で弱る思考に、次第に疲れてくる。
「……父さんの、夢を……見てた」
――気づけば、そう口にしてしまっていた。
予想もしないような人物の名が司の口から出て、泉美ははっと息を呑んだようだった。
けれどもすぐに「良き姉」としての表情を取り戻し、彼女は、弟の首元に当てていた掌を彼の頭へ移動させた。
「……私が、いるからね」
ぽんぽんと頭を優しく叩かれ、司は、身体中の熱が一斉に目の奥に集まるのを感じた。
(――ああ)
やっぱり。
やっぱり、この世で泉美だけなんだ。
――俺の、救いは。
そう気づくと同時に、司は、泉美に手を伸ばしていた。
その細い背中に腕を回し、引き寄せる。
「つ、司?」
弟の唐突な行動に驚く泉美の声が、耳の外側で聞こえた。それには構わず、司は、離すまいとするかのように必死で泉美に縋りつく。
――香取 茜に対する、蟠りに。
更科秀明に対する、葛藤に。
そして何よりも……父に対する、愛憎に。
疲弊し凍りついた司の心を、泉美は癒し、溶かしてくれる。
(もう、自分でも十分……分かってるんだよ)
司は、彼が父親に与えてもらえなかったものを、泉美という存在に求めているのだ。
彼にとってずっと、泉美は「救い」だった。美しく心優しく、司を無償の愛で包んでくれる。
だから、泉美が傷ついたり、弱ったりすると……彼の心は大きくバランスを崩す。
――そしてそれはもちろん、泉美の愛が、他の男に注がれるときもだ。
「どうしたの、司」
泉美の問いかけを、司は無視した。
「熱が出ると素直になるのね。いつもこうならいいのに」
(そうじゃない)
俺が泉美へ向けているのは、姉への思慕なんかじゃない……。
司にとっては違うのに、「抱きしめる」ことは姉弟のスキンシップなのだと、泉美は信じて疑わない。
ぼんやりする意識の中、以前見たシーンが思い浮かんでくる。
秀明にキスをされる泉美。
あのとき2人を繋いでいたのは、想い合う者同士の特別な愛情だった。
(――ずるい)
俺の方がずっと、泉美を見ていた。何年も一緒にいた。ずっとずっと……手にいれたくてたまらないのを、ひた隠しにしていたのに。
半分しか繋がっていない血が、泉美の「姉弟」という価値観を壊してくれない。
半分しか繋がっていない血が、秀明の登場を許した。
半分しか繋がっていない血が……、司と泉美を、決して結ばせない。
――気がつくと司は、自分の唇を、泉美のそれに重ねていた。




