第6章 終焉 ~悲劇の行き着く先~ ②
泉美の合格が決まった週の日曜日、朝目を覚ました司は、全身を襲う強烈な倦怠感に驚いた。
額に手を当ててみると……熱い。おまけに寒気までする。
(……風邪か?)
よろよろになりながらもなんとかベッドから出て、焼け付く喉を潤そうと居間へ向かった。
「どうしたの司!? すごくしんどそうだけど……」
起床してきた司を見るやいなや、すでに起きていた泉美がそう言って彼に駆け寄った。司は、姉のその観察眼にびっくりさせられる。
冷蔵庫の前に立つ司を見上げると、泉美は、弟の額にそっと手を伸ばした。
「すごい熱じゃない……!」
その高い温度に、泉美は驚いた声を上げる。
「平気だよ」
「何言ってるの。ちゃんと寝てないと!」
強がる司を、泉美が厳しい口調で諭す。
姉の剣幕に負けて、司はしぶしぶ自室のベッドに横になった。
風邪を引くのなんて、何年ぶりだろうか。
◇ ◇ ◇
――物心ついたときから、泉美に依存していた。
くりくりの大きな瞳に、ピンク色の頬。ご近所でも可愛いと評判の泉美。司ももちろん、泉美という存在が大の自慢だった。誰にも言ったことがないけれど、大きくなったらお嫁さんにする、と心に決めていた。だから、姉弟は結婚できないと知ったときは、しばらく不機嫌になった。
泉美と半分血が繋がっていないと知ったときは、悲しむどころか、むしろ喜んだ。
半分だけでも、「弟」じゃなくなったこと。
それが司の心を、何よりも喜ばせた。
いつも泉美と一緒にいた。泉美を傷つける者があれば、誰であろうと許さなかった。
――たとえそれが、自分の肉親であったとしても。
司が、幼稚園に通っていた頃のことだった。
夜、いつものように子供部屋で泉美と一緒に眠っていると、部屋に誰かが入ってくる気配がして、司ははっと目を覚ました。
(お父さん)
部屋に侵入してきたのは、父親である速水 勝だった。
勝は、司にとっては実の父であるが、泉美にとっては血の繋がらない義理の父にあたる。
司はなんとなく、目を閉じて寝たふりをした。
すると、布団の中に手が差し込まれ、父はなぜか泉美を抱きかかえて部屋を出て行こうとする。
「ん……どうしたの……お父さん」
司は咄嗟に、物音で起きてしまった演技をした。目をこすり、できるだけ眠そうな声を出す。
「起こしたか? 悪い悪い」
勝は、司の声に多少びくついたものの、何事も無かったかのように泉美をベッドに戻した。しかし、その表情には隠しきれない苛立ちが現れていた。
その時は父親の真意がよく分からなくて、司は、とにかく泉美をベッドから奪われなかったことにほっとした。
何かがおかしいと気づいたのは、司が中学生になってからだった。
あの日の夜、たしか透子は不在だった。
そう気づくと、司の中で、父に対する不信感が募っていく。まさか、と思うが、思い返せば勝には不可解な行動が多い。
たとえば、司は一度も入れてもらったことがないのに対し、泉美はよく彼に風呂に入れてもらっていた。
一度疑ってしまえば、父親に対する猜疑心を止められない。盗み見て暗記したパスワードを入力し、司は父のパソコンをこっそり開いた。
悪い予感は当たった。
画像フォルダの奥深くに隠されていたのは、幼い泉美との入浴を撮影した動画だった。
それはもちろん、家族のほのぼのした日常を収めたものではない。明らかに、勝が自身の性癖に忠実に撮影したものだ。
司は策略をめぐらせた。この男を始末しなければならない。泉美の純潔を奪おうとする男など、司以外に存在してはいけない。
――そんなある日、事件は起こった。
どしゃ降りの雨が降る、夏の日だった。
その日、泉美が突然高熱を出し、中学校を欠席することになった。
しかし透子はどうしても仕事を休めず、速水家は朝から混乱の中にあった。
すると珍しいことに、勝が「俺が会社を休んで泉美の面倒を見る」と言った。
「司はちゃんと学校に行けよ」
リビングで朝食を摂りながらそう言ってきた父に、司は「うん」と返した。
やがて、制服を着て荷物を持った司は家を出て、どしゃ降りの雨の中、学校への道のりを歩く。
――が、その道中。なぜか彼は突然立ち止まり、来た道をものすごい勢いで引き返した。
息を切らして自家に戻ってきた司は、音を立てないよう、そっと玄関のドアを開けた。友人や近隣の住民にしばしば「豪邸」と形容される大きな家は、勝の経済力を象徴している。
足音を忍ばせ、1階にある泉美の部屋へ向かう。
恐る恐る覗いた室内では、――司が想像した通りの光景が広がっていた。
勝が、熱にうなされ眠りにつく泉美を、いまにも姦淫しようとしていた。
司は、怒りに震える手でなんとか携帯電話を取り出し、開いた。実の父の悪行を画像におさめ、彼をこの家から排除するための証拠品にするのだ。
しかし、まだスマートフォンの普及していなかったその時代。
カメラのシャッター音が司の想像以上に響き、勝が、はっとしたようにこちらを見た。
「司、てめぇ!」
大声をあげ、突進するようにこちらへやってきた勝は、逃げ出そうとした息子の首根っこを掴んだ。
「なんでここにいる!? 何を撮った!?」
司はしばしば、勝に体格や顔が似ていると言われることがあった。
だからだろうか。司がどれだけもがいても、長身で引き締まった体をしている勝の拘束は、並の男より遥かに強い。
「全部……全部、母さんに言ってやる……!」
陸上部で毎日鍛えているはずなのに、父に力が及ばない。
勝は司の携帯を奪うと、廊下にあった花瓶を司めがけて振りかぶった。司はすんでのところでそれを躱し、背後に花瓶の割れる大きな音を聞きながら、ベランダに向かって全力で走った。
しかし、あともう少しというところで、再び勝に首を掴まれてしまった。
「ぐ……う……は、離せ……」
容赦がなかった。実の息子であろうと、本気で首を絞めてくる。
「……っ……こ、この家から……消え……ろ」
――その時、だった。
「司に何してるの!?」
突然、居間に透子が現れ、勝の手の力がふっと緩んだのだ。司はその隙に素早く身を捩って、父の拘束から抜け出した。
しかし、すぐに我に返った勝は、花瓶の大きな破片を振りかぶる。
司は、背後の父のその動作に気付いていなかった。
「――――っ!?」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
ただ、左肩から溢れた大量の血が、背中や腕をしとどに濡らしていた。
「司ぁっ!」
泣き声のような声を上げ、透子が司をかき抱く。スーツが司の血で染まっていくのにも構わず、彼女は息子を必死で抱きしめた。
透子が言葉のかぎり夫を詰っていたが、それはあまり耳に入ってこなかった。司はただ、泉美を守れたという高揚感で誇らしくなっていた。
それから3人は、しばらく透子の実家に移った。
「司。泉美を守ってくれて、ありがとうね」
透子は実家で、司に何度もその言葉を繰り返した。彼女は事件当日どうしても泉美の様態が気になり、通勤中、会社にどうにか頼み込んで午後出勤に変更してもらったのだという。勝が長年泉美を性の対象にしていたことは気づいていなかったそうだ。父はそれほどまでに秘密裏に計画的に、泉美を狙っていたのだ。
泉美には、父の蛮行は伏せておいた。司の肩の傷は、父が司との口論の末、激昴してやったものだということにしておいた。
やがて司たち3人は、水々丘――つまり、現在住んでいる小さなアパートに移ることとなる。
邪魔者を排除できて、司は大満足だった。
しかし、肩の傷が消えないことは、司をたまにどうしようもなく苛々させた。泉美を守った証とも呼べる傷なのに。
父がなんの迷いもなく凶器を振りかざしてきたというのが、なんとなく気に食わなかった。
こう思ってしまうあたり、あんな男でも、息子として少なからず親愛の情があったのかもしれない。
たとえば風呂に入れてもらったことも、公園でキャッチボールをしてもらったこともない。本来父から息子に与えられるはずの愛情など、何一つ受け取ったことはないけれど。