第6章 終焉 ~悲劇の行き着く先~ ①
速水 司は、大きく分けて2つのことに悩まされていた。
1つ目は、香取 茜のことだ。
司の煽動により、茜は、校内で芦屋雄大を殺害したのち、自ら命を絶った。
今をときめくカリスマモデルの衝撃的なニュースは、学校内のみならず、この国中を揺るがした。
春日井学園は相次ぐ不祥事に入学志願者を激減させ、ワイドショーやネットニュースは連日「香取 茜」について取り上げた。とりわけ彼女と芦屋の間に存在していた歪んだ主従関係にフォーカスし、好き放題議論した。
もし茜が存命していて、現在の世の中を見たならば、プライドの高い彼女はきっと激昴したことだろう。
そんな思慮をめぐらせながら、司はひとつ、ため息をついた。
彼にとって、芦屋雄大を罰せたことは心の底から愉快だった。
しかしながら、彼の心には若干のしこりが残っていた。
「なかなか計画を実行に移せなかった」ということだ。
自らの手を汚すことなく芦屋を粛清するため、彼ははじめから、茜を利用するつもりだった。だから茜の前で、彼女を芦屋から解放する「唯一の救世主」を演じたのだ。
それなのに。
長い時間を共にするうち、茜を、ただの「駒」として見られなくなっていた。
彼女と勉強や将来について語り合うことを心地良いと感じ、気付けば、一度たりとも、誰にも明かしたことのない禁断の秘密――「泉美への想い」を、打ち明けてしまっていた。
そして極めつけは、あろうことか彼女の前で、「『計画』をやめたい」と洩らしてしまった。
「計画」を開始することは、香取 茜の学校生活、そして彼女がすべてを懸けている芸能生活への、終わりのカウントダウンを開始することになる。
そう思うとなぜか、実行を尻込みしてしまったのだ。
(『情』がわいたのか……?)
香取 茜に?
そんなの、全く自分らしくない――。
(俺としたことが、なんだ? この気持ちは……)
――そして、司を悩ます要素の2つ目は。
彼の、「姉」だ。
「司と2人で出かけるのなんていつぶりかな?」
目の前の弟がとんでもない考え事をしているともつゆ知らず、泉美がそう呟く。
すっかり寒くなった2月の中旬。
2人は、家の近所のファミレスに来ていた。
注文した料理を待ちながら、司はうーんと唸る。それくらい、2人でどこかに出かけたのは久々だった。姉弟で出かけるなんて照れくさいという理由もあるし、必要以上の贅沢は律するべきという暗黙の了解もある。
「こういう時、泉美とあんまり似てなくてよかったなって思う」
司はぽつりと本音をこぼした。父親が違うせいでもあるが、たしかに2人は特段似ているというわけではない。初対面の人間にはしばしば恋人同士に間違われたこともある。
「なんで?」
「似てたら、周りから兄妹か姉弟って思われるから」
「え、だめなの?」
「異性のきょうだいって、あんまり一緒に遊びに行ったりご飯食べに行ったりしないと思う」
「そうなのかな……。あ、そういえば秀明くんも、妹さんと2人で出かけたりしない、って言ってた……」
秀明。
泉美の口から出てきたその名前に、司の胸はどうしても反応する。
そして、以前見た、思い出したくもないようなあのシーンが、まるで呪縛のように脳内でリフレインするのだ。
――芦屋雄大を葬った日の、帰り道。
見てしまった。
アパートの階段下で、――キスをする2人を。
「秀明さん、妹いるんだ」
乾いた声でなんとかそう言いながら、司は、テーブルの下で拳を握りしめた。
あの日の夕方。泉美は、ごく自然に秀明のキスを受け入れていた。それは、2人が「恋人」として日常的にその行為を行っていることの証だ。
あの瞬間、泉美の世界にはきっと秀明だけだったのだろう。ただの「弟」である司が入り込む隙なんて、どこにも無いくらいに。
――「姉」ではない、ひとりの「女」としての泉美を見つけるたびに。
泉美が他の男のものであると実感するたびに。
司の心は、きりきりと締め付けられる。
(いっそのこと、秀明さんを毛嫌いできたら、どんなに楽だろう)
しかし、それはできない。
秀明は司にとって、大の恩人でもあるのだから――。
「お待たせいたしました」
司の思考は、料理を運んできた店員の声によって遮られた。
美味しそうなディナーセットを前にはしゃぐ泉美を見て、司は心を覆おうとしていた黒い靄を振り払う。そしてなんとか、爽やかな笑顔を作ることに成功した。
「あらためて、合格おめでとう、泉美」
こうして珍しく2人で外食した目的は、泉美の専門学校合格を祝うためだった。
先日一般入試を終えた泉美は、今日、学校から合格を知らされたのだ。
「ありがとう……!」
ドリンクのグラスを差し出してきた司に、泉美も慌てて自身のグラスを合わせて乾杯する。
「進路決まって、本当によかった……」
ジンジャーエールをひとくち飲み、泉美がしみじみそうこぼした。
「当然だよ。泉美は頑張ってたんだから」
「ううん……。司がたくさん勉強教えてくれたからだよ。本当にありがとう」
高卒認定試験では、中学生から高校2年生前半までの学習内容が出題される。
高2の内容はもちろんのこと、高1の範囲すらあやふやだった泉美のために、司はしばしばそれらを解説することがあった。
年下の弟の指導を、泉美は年上の姉であることを恥じずとても真面目に、素直に吸収していった。
「俺は何もしてないよ」
司は心底そう思っていた。
絵の予備校に、勉強に、泉美が毎日こつこつ頑張っていたのは、司がいちばんよく知っている。
「……ただ、せっかく合格したのに、こんなこと言うのもなんだけど……」
ふと、先程までより低い声で泉美がそう洩らしたので、司はサラダを口に運ぶ手を止めて彼女を見た。
「学校、楽しみだけど……やっぱりちょっと、不安だな」
ああ、と司は思った。
当たり前だ。高校時代に受けた深い深い泉美の傷は、たとえ環境が変わっても消えるはずがない。一生、彼女の心の奥深くに横たわり続けるのだろう。
「絶対に、無理しないで」
司は真剣な眼差しで、心からの願いを口にした。
もし再び、泉美があのような仕打ちを受けたなら……司は、自分がどうなるか、何をするか分からない。
「母さんも、俺も、……秀明さんもいるから」
秀明の名も挙げるか本気で迷ったけれど、泉美の心を少しでも和らげるためだと思った。
「……ありがとう」
泉美は俯くと、バジルのほんのり香るパスタを口に運んだ。
「あと2ヶ月したら、司も3年生だね」
しばらく思い思いに食事を楽しんだあと、デザートの到着を待っているとき、泉美がそう言った。
「あっという間だなぁ……」
感慨にふける泉美を前に、司は、この2年間に起こったことを思い返す。
――激動の、2年だった。
泉美だけを見つめ、泉美のためだけに動いた。
そんな2年間だった。
「もう、勉強は始めてるの?」
「ぼちぼち……かな」
「また、あの図書館にこもるつもりなの?」
「うん」
あの図書館、とは、司が高校受験時によく入り浸っていた市民図書館のことだ。
「『予備校に通う』って発想がないのが、司らしいよね」
泉美の言う通り、司の周囲では、ほとんどの人が1年後の受験を意識して大手の予備校に通い始めていた。
「学校の授業で充分だからなぁ……」
「そんなこと言ってたら、まわりの子に恨まれるよ」
泉美がそう茶化すと、司は可笑しそうにははっと笑った。
「……笑った」
そんな弟を見て、泉美がなぜか、泣きそうな顔をする。
(……え?)
なぜ、ただ笑っただけでそんな表情をされるのだろうか。
わけがわからず、司は目をぱちくりさせる。
「最近、司、元気なさそうだったから」
(……あ)
司は驚いた。
確かにここのところずっと、茜と泉美のことで思い悩んでいた。
しかし表面上は、まるでそんな懊悩など存在していないかのように、普通に毎日を過ごしていたつもりだ。
それをまさか泉美に、……見透かされていただなんて。
「そんなことは……」
「あるよ。私は司のお姉ちゃんなんだよ。わかるよ」
身を乗り出してそう諭してくる泉美に、司の心は熱く震える。
秀明だけじゃなくて、ちゃんと自分も気にかけてくれていることへの喜びと、彼女が司を「弟」だとしか思っていないことへの悲しみ。
それらが交互に司を支配して、彼をどうしようもない気分にさせる。
「辛いことは、私に吐き出してくれていいからね」
吐き出せるわけがない。
泉美が好きで、泉美のせいで、悩んでるんだと。
そんなことを馬鹿正直に暴露したあかつきには、司はもう二度と、泉美に近づくことを許されなくなるだろう……「弟」としてすら。
建前の感謝を述べる余裕すらなく、彼はただ、左肩をそっとさすった。




