第5.5章 少女の恋人
12月のはじめ、泉美は、来客の訪れたアパートのドアを怖々と開けた。隣では、恋人である更科秀明が固唾を呑むようにして彼女を見守っている。
「や、やった!」
郵便局の配達員から渡された封筒を見て、泉美は思わず歓喜の声を上げた。
「受かった!」
泉美は、緑色の封筒を秀明の眼前に両手で突き出す。
そこに「高卒認定試験 合格証明書在中」と大きな文字で書かれているのを見つけて、秀明は思わず泉美を抱きしめた。
「おめでとう!」
配達員の目の前だというのに、秀明の腕の力はいつもより強い。
とんだバカップルだと思ったのか、配達員はやれやれというような目で2人を見つめたのち、仕事に戻っていく。
「よく頑張ったね、泉美」
戸を閉め再び2人きりになった部屋で、秀明は泉美の髪を労わるように撫でた。
「……ありがとう」
泉美はそのくすぐったさと労いを素直に受け入れる。
もともと春日井学園に合格できるほどの能力があるので、高卒認定試験の難易度について大きな不安があったわけではなかった。
泉美が乗り越えたいと思ったのは、春日井学園を卒業すれば得られたであろう、栄光や将来だった。
(高校に通ってたら、今ごろセンター試験の勉強真っ最中かな)
泉美がかつて行きたいと思っていた国立の芸大は、芸大の中でも名門中の名門だ。センター試験や二次試験における高い得点率と、実技試験における高い技術力を必要とする。高校の美術の先生も、泉美をそこに通すために尽力してくれた。
(できることなら、挑戦し続けたかったな)
――でも、だめだった。
芦屋に受けたあの一件以来、足が学校へ向かうことはなかった。
出席日数は足りていたのでなんとか2年生に進級することはできたが、それでも学校へ行こうという気は起こらなかった。
あの事件の後、秀明は泉美のために奔走してくれた。担任の先生、果てには理事長にまで、桃井彩女や小椋怜奈、そして芦屋雄大の悪事を訴えた。
しかし、秀明は敗北した。春日井学園という組織は、泉美の想像を超えて腐ったものだった。
イジメを受けて学校に行けなくなったこと、退学を考えていることは、すべて司が透子に伝えてくれた。それを聞いた透子は、泉美の苦しみに気づくことができなかった自分自身を嘆き、泉美を抱きしめてくれた。
泉美が「ごめんなさい」と謝ると、透子はそれを咎め、「もうそんな高校行かなくていいのよ」と言ってくれた。
泉美は、母のその優しさに救われ、悩まされた。
(就職したら、ぜったいお母さんに恩返しする)
「あとは、一般入試だけだね」
秀明の言葉に、回想を終えた泉美はゆっくりと頷いた。2月に専門学校の一般入試を控えているのだ。
簡単な面接と実技試験だけだが、それでも緊張する。無事に合格して、夢への切符を掴みたい。
「俺も頑張らなきゃな」
リビングに移動して帰り支度を始めつつ、秀明がそう言った。彼が今日ここへ来たのは、泉美の高卒認定試験合格を祝うためと、恋人とのしばらくの別離を惜しむためだった。
「いちばん早くて、3月9日……だよね。会えるの」
ハンガーに掛けていたダウンジャケットを秀明に着せながら、泉美が寂しげに呟く。「3月9日」とは、秀明の志望大学の前期試験合格発表日だ。
1月中旬にセンター試験、2月後半に二次試験を控える彼は、これから約3ヶ月間、予備校でラストスパートをかけるつもりらしい。もちろん、泉美に会うことすら律するそうだ。
「そうなるなぁ。でも正直、前期で受かる自信が全く無いから……もうちょっとかかるかもしれない。場合によってはもう1年かも」
「そんなこと言わないで。秀明くんなら、ぜったい大丈夫だから」
秀明は1年生の頃からずっと同じ大学を志しているが、模試の判定もずっと「E」を貫いているのだという。
それでも泉美は、彼ならきっと大逆転できると信じていた。
ネックウォーマーを着け身支度を終えた秀明は、玄関の方へ向かう。
「そういえば、司くんはまだ帰ってないの? 2年生は今日から期末テストのはずだけど」
秀明の言う通り、春日井学園は今日から期末テスト期間に入る。しかし3年生は受験勉強に集中してほしいとの理由でテストが行われない。通常授業も数日前に終了しており、秀明に残された登校日はごくわずかだ。
「たぶん学校に残ってるんだと思う。司、家ではあんまり勉強しないから」
「へぇ〜、やっぱ要領いいなぁ。俺も司くんの頭があればなぁ……」
靴を履きながらそう自嘲する秀明は、これから待ち受ける数々の試練に少なからずナーバスになっているみたいだ。
「秀明くん、あのね、これ」
そんな秀明に、泉美は、ずっと準備していたあるものを手渡した。
「勉強の合間に、こつこつ作ってたの」
それは、フェルトと綿で作られた、だるまの形をしたマスコットだった。
「これから3ヶ月間、秀明くんが、ケガも病気もなくベストを尽くせますように」
だるまは黒い字で「絶対合格」と書かれたハチマキを巻いていて、刺繍糸で細部まで丁寧に作り込まれていた。その勇ましい表情は、これから受験に立ち向かう秀明の心を代弁してくれているかのようだ。
「こんなの、気休めにもならないかもだけど」
「そんなことない……」
秀明は、泉美が心を込めて作ってくれた「御守り」に、感激して言葉を失っているようだった。
「ありがとう。センターも二次もこれ持っていく」
そう言って彼は、手のひらサイズのだるまをぎゅっと握りしめた。
そのまま2人は、手を繋いで部屋を出た。
アパートの階段下まで来たところで、秀明が立ち止まる。
「もう暗いし寒いから、ここまででいいよ。……御守り、本当にありがとう」
駅まで着いていくつもりだった泉美は、予定よりも早く訪れた別れに、急激に寂しさがこみ上げた。
しかし、ここで自分のわがままで秀明を引き留めるのは、あまりにも彼に失礼だ。
泉美は繋いでいた手をほどき、秀明に向き直った。
「最後まで頑張ってね。応援してるから」
彼が頑張っているのは充分知っているのに、頑張ってとしか言えない自分がもどかしい。
それでも秀明にとっては、泉美の言葉はこれ以上ないエールとなったようだった。
彼は、自身より頭一つ分背の低い泉美を見下ろすと、その肩にそっと触れた。
「もし俺が受かったら、春休み、どこか……旅行にでも行こう」
恋人からの嬉しい誘いに、泉美は満面の笑みで頷いた。
そのまま近づいてきた彼の唇を、目を閉じて受け入れる。
こんなときでも、そっと触れるだけの、優しい優しいキスをする。
泉美はそんな彼をあらためて愛おしく思い――そして、「3ヶ月」をよりいっそう長く感じてしまった。




