第5章 反逆 ~下僕にも矜持がある~ ④
季節はめぐり、カレンダーは師走の上旬を示すようになった。
3年生は、そろそろやってくるセンター試験への準備に慌ただしい。それを見た2年生たちも、来年は自分たちの番だと気を引き締める。とくに、明日から期末テストが始まるので、まずはここで結果を残そうと意気込んでいる生徒も多い。
しかし、香取 茜はそうではなかった。
絶望という名の深淵に落とされたままの彼女は、快も不快も感じない人形と化してしまっていた。
仕事も、学校生活も、何もかも。
目に映るもの、関わるもの、全て。
(ぜんぶ、どうでもいい――)
だって彼女は一生、狂った男の性奴なのだから――
虚ろな目で学内を歩いていると、ふと、廊下にある掲示板のとある貼り紙が目についた。中間テストの成績優秀者が掲載されている貼り紙だ。
(…………この男は)
茜は、2年理系の1位に君臨する者の名に、拳を突き立てる。
「速水 司」
茜をこんな地獄に突き落とした張本人の名だ。
(この男は、こんな頭脳を持ってるくせに、なんで)
どうして。
「やめるのよ……」
茜は、彼が、茜のこの1年間の拠り所であった「計画」を頓挫したことに打ちひしがれてしいた。
芦屋という男に嬲られ植え付けられた憎悪の心を、彼に託していたのに。
彼なら、必ず成し遂げてくれると思っていたのに。
「茜ちゃん?」
そうやって掲示板の前で考え込んでいた茜は、斜め後ろに誰かがやってきたのに気づいていなかった。
「具合悪いの?」
――速水 司だった。
茜は、久々に顔を合わせた彼にじろりと視線をやる。それは、同じ目的を共有し達成しようと奮闘していたひと月前までとは打って変わった、冷たく鋭いまなざしだ。
司は、そんな茜を見て悲しそうに眉尻を下げる。しかし茜は、司のそんな表情にすらこの上ない苛立ちを覚えた。「諜報員」としての、茜の彼への信頼を失わせたのは、他でもない司自身なのだ。
「待って」
何も言わずその場を立ち去ろうとする茜の腕を、司が咄嗟に掴んできた。
「話したいんだ……なんで、やめたか」
俯いている茜に、司が必死にそう訴えてくる。
放課後という時間帯のせいか周りに他の生徒は見当たらないが、もし誰かが人気者同士のこんなシーンを目撃したならば、一体何事だろうと注目するに違いない。
「明日、3限のテストが終わったら……校舎裏に来て」
それだけ告げると、司は茜の腕を解放し、その場から立ち去ってしまった。
◇ ◇ ◇
速水 司がどんな言い訳をしようと、許すつもりはなかった。あんなに期待させておいて裏切ったことを、茜の高いプライドが許すはずなかった。もう一度、気が済むまで詰ってやるつもりだった。
そんなふうに意気込んでいた茜だから、次の日の3限後、校舎裏で待っていた人物を見て盛大に驚いてしまった。
「……な、なんで」
その人物は、茜を見るやいなや、ものすごい剣幕でこちらへやって来る。
油断しきっていた茜は、あっと言う間もなく手首を掴まれ、壁に打ち付けられた。
「放して!」
血が止まるのではないかと思うほどの強い圧迫が、茜の手首を襲う。しかし、その人物――芦屋は、茜の言葉などものともせず、彼女の眼前に1枚の紙を突きつけた。
「これ書いたの、茜ちゃん?」
茜は、突きつけられた紙に書かれた写植の文字を読み、そして――驚愕した。
『志野泉美に代わって、お前に制裁を加える。放課後、校舎裏に来い』
(…………な、なに、これ)
白地の紙に無機質なフォントで書かれた文言に、茜は思わず目を疑った。
「朝、靴箱の中に入ってたんだけど。……何してくれてるの、茜ちゃん」
芦屋の微笑みには、茜をずっと苦しめ続ける、彼の「狂気」が滲んでいる。しかし、今の茜はそれに怯える余裕すらなかった。
「こんなことをして、ボクをどうしたいのかな?」
(わ、私じゃない)
こんなもの、まったく身に覚えがない。
しかし、かつて芦屋が心身ともに志野泉美を傷つけたことを知る人物など、小椋姉妹の去ったこの学園には、もはや数えるほどしか存在していない。
存在しているとしたら、茜と、更科秀明と、桃井彩女と…………。
(……まさか)
茜は、はっとした。
(速水 司……が?)
そう思い至ったその瞬間、彼女は、手首を襲う強烈な痛みすら忘れていた。
「……そんな」
司は、容赦がない。彼のやり方は狡猾で残忍で、普通の人が知れば非情すぎると叫ぶだろう。
だけど、「普通」のものさしがすでに無くなった茜なら。
茜なら司と対等になれると、心のどこかで思っていた。
彼と計画を共有し、誰よりも憎い芦屋を罰せると思っていた。
――しかし。
(魔王だ)
利用されていた。
芦屋の「奴隷」からやっと逃れられたと思えば、いつの間にか、速水 司という魔王の「下僕」になっていた。
(なんで、気づいてなかったの。速水 司は、『手段を選ばない』……)
――残酷だ。こんなの、あんまりだ。
そう思ってしまうぶんには、茜はまだ、「普通」だったのかもしれない。
(そうだ。『普通』じゃないってことはつまり、芦屋みたいになるってことだ)
いつか喫茶店で司に見せられた、あの、空欄だらけだったルーズリーフを思い出す。
あれはきっと、スペアだ。
彼は「煮詰まっている」と言った。それは茜の前での建前で、本当は、きっともう1枚ルーズリーフが存在しているのだ。ちゃんと、「結末」まで描かれたものが……。
――「駒」は、茜だった。
「話したい」と嘯いてこの場所へ呼び出して、茜と芦屋を鉢合わせることが司の真の目的だったのだ。
そう気づくと、茜はもはや、絶望や憤怒を超えた場所にいた。
「司に騙されていた」という事実に悲嘆することもなければ、激怒することもない。
「痛い目見てもらおうかなぁ」
だから、目の前の芦屋がポケットから鋭い刃物を取り出し、茜の首にあてがっても、特になんの感情も湧いてこなかった。
「もう、いいわ」
――男に騙され続ける、こんな人生。
茜は、芦屋からナイフを奪うと、それを彼の眼前に突き立てる。
「……いいの? こんなことして。キミはボクに逆らえないはずだけど」
従順な奴隷が反抗的な態度を取るのが気に入らないのか、芦屋は嘲笑を浮かべつつ茜を脅した。自身が茜の弱みを握っていること――芸能人としての茜の地位を失墜させる、数多の写真の存在――をちらつかせ、もう一度、ふたりの間の力関係をはっきりさせようとしている。
しかし、茜はそれにまったく動じない。
色のない空虚な瞳に見つめられ、うろたえたのは「主人」であるはずの芦屋だった。
「もう、どうでもいい」
この私が、奴隷として下僕として、くだらない男どものために動いて。
もう……うんざりなのだ。
――私は、「香取 茜」だ。
「香取 茜」として、殺したい男を殺す。
それが結果的に、魔王の思惑と合致することになっても。
「死んで」
――拍子抜けするほど、あっさりと。
鋭い刃が、憎い男の皮膚を貫いた。
◇ ◇ ◇
芦屋が動かなくなるのを見届けて、茜は、血に濡れたナイフを両手で自身の腹に突き刺した。
男に翻弄された、みじめな人生を放り出せるのだと思うと、不思議と怖いという気持ちはなかった。
痛みすら、あまり感じなかった。
じわりと、セーターの腹のところから赤いものが広がっていく。それを止めようともせず、茜はただ、初冬の静寂に耳をすませた。
それでもやがて立っていられなくなって、茜はついにその場に倒れこむ。
朦朧とする中、枯葉を踏む誰かの足音が近くに聞こえて、茜は、消えかける意識を必死に繋ぎとめ顔を上げた。
「ありがとう、茜ちゃん」
――茜を見下ろしていたのは、魔王だった。
「こいつが罰を受ける様子は、ぜひこの目で見ておきたかったんだよ」
微笑みながら、魔王は、芦屋が握っている紙をゆっくりと奪う。
「俺を訴えてもいいよ」
すべての証拠であるその紙を奪われた時点で、この男を訴えるなんて不可能だ。
何か言おうとする前に、茜の意識はそこで途切れた。




