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第5章 反逆 ~下僕にも矜持がある~ ③


 中間テストが近づいている。

 高校2年生の秋ということもあって、周囲にはちらほら受験を意識しだす声が上がっている。

 茜も例外ではなく、仕事の合間や放課後を利用してテスト勉強に励んでいた。


 しかし、仕事をしているときでも、勉強をしているときでも、茜の頭の片隅にはいつも「計画」のことがあった。


 司はいつ動き出すのだろうか。中間テストが終わったあたりだろうか。


 はやる気持ちを抑えられない。茜は、芦屋がもがき苦しむさまを見たくてたまらないのだ――。


◇ ◇ ◇


 テスト1日前の放課後、自習のために行った図書室で、司に出会った。テスト勉強だろうか。彼はけっこうな頻度で図書室にいるので、別に意外ではなかった。

 小椋実咲の一件を抱えながら1学期の期末テストで1位をとったのだから、もう誰も彼を超えられる気がしない。


「速水くん」


 彼のそばに行き、小声で話しかける。隣に座っていいか尋ねると快諾してくれた。


 しばらく2人は、ろくに会話もせず勉強に没頭した。

 司は分厚い物理の問題集を解いていたが、ちらっと見えたその中身は、文系の茜には暗号にしか見えなかった。


「……ちょっと疲れたから、休憩しようか」


 勉強を始めて一段落ついたころ、司がそう提案した。

 頭のいい人はオンとオフの切り替えが上手だって言うけれど、それはまさに今の彼だ。

 司の言う通り、疲れと飽きを感じ始めていた茜はすぐに頷き、そのまま2人で中庭にある自動販売機へ向かった。


「速水くんって、どこの学部志望?」


 並んで歩きながら、茜は司にずっと気になっていたことを問いかけた。彼が目指しているであろう大学はなんとなく想像がつくが、学部は尋ねたことがなかった。


「理学部だよ」


 司の解答は、正直意外だった。

 これだけの頭脳があれば、てっきり医学部を志しているものだと思っていた。

 それでも、文系で数学が苦手な茜にとって、理系で一番の成績を修める司はエリート中のエリートであることに変わりはないが。


「へぇー、そうなんだ。医学部も余裕で現役で受かっちゃいそうなのにね。担任の先生にも医学部勧められるでしょ?」


 春日井学園は実績を欲しがる学校だから、こんな逸材にはできるだけ高みを目指してほしいはずだ。


「勧められるけど……俺に医者は向いてないと思う」


 中庭に辿り着きそう言った司は、どこか自嘲的だった。


「茜ちゃんは? 大学行くの?」


 自販機の前でジュースを選びながら、今度は司が質問してくる。彼とこんなに将来について語り合うのは初めてだ。……というか、こんな話は友達とすらしない。


「そこそこの私立大でいいから、大学は行きたい。……でも、4年で卒業できなかったらすっぱり辞めるつもり」


 将来自分はどうなっているんだろうか。

 モデル業でいつまでも生き残れるわけがない。年齢に合わせてうまく路線変更していかないと、すぐに「モデルの香取 茜」の需要なんてなくなってしまうだろう。

 かといって、タレント路線で長く売れ続けるのも至難の業だ。頭の回転の速さ、トーク術、大御所に気に入られるためのコミュニケーション力など、求められるスキルのレベルはとても高い。

 だけど茜は、あの華々しい世界に居続けたいと思っている。


「芸能界に賭けてるんだね」


 購入したジュースを自販機から取り出しながら、司がそう言った。あえて茨の道を選ぶ茜を馬鹿にせず、理解してくれているのが嬉しかった。


「速水くんは、将来の夢とかあるの?」

「ないよ、別に。いい企業に就職できればそれでいいと思ってる。学部だって、とりあえず理学部ってだけで、別に工学部でもいいかなって思ってるし、なんなら3年生から文系に行って経済学部でもいい」

「興味あることとか、ないの?」

「ないよ。……俺には、何もない。泉美とは違って」


 志野泉美には素晴らしい「絵」の才能があると司から聞いていた。茜も、興味本位で彼女の名前をインターネットで検索したことがあったが、出てきたのは様々なコンテストにおける彼女の受賞歴だった。

 茜の予想だが、志野泉美にそんな恵まれた才能があることも、桃井彩女や小椋怜奈といった「女」たちの嫉妬の感情を膨らませたのではないだろうか。


「泉美とか茜ちゃんみたいに、夢があって、それを一途に追いかけてる人は羨ましいよ」


 県で一番賢い高校の一番賢い人に「羨ましい」なんて言われても、嫌味にしか聞こえないかもしれない。しかし茜には、彼が心から茜や志野泉美を羨望しているように聞こえた。


「…………ところで、俺、茜ちゃんに話があって」


 ふと、飲み終わった缶をゴミ箱に捨てながら、司が言う。


「場所、変えてもいいかな」


 こちらを見た司が「外面モード」ではなくなっているのを見て、茜は、彼がこれから何を話そうとしているのかすぐに理解した。


◇ ◇ ◇


 校舎裏へと到着した茜は、高揚を抑えられかった。


 ついに、明かされるのだ。

 司の「計画」の全貌が。

 芦屋雄大に下される制裁が。


「……俺、『計画』、やめようと思う」


 そんなふうに期待を高めていた茜だから、開かれた司の口から出てきた言葉の意味をすぐに理解できなかった。


「…………は?」


 茜の反応も無理はない。

 つい先日、「そろそろ始める」と明言したばかりの彼が、まさか計画を中断するだなんて。そんなこと、茜に予想できるはずがないのだから。


「何の冗談……」


 茜は、右の口角だけを吊り上げて笑った。


「計画をやめる」?


 本気で、たちの悪い冗談だと思った。


 ――「やめる」だなんて、ありえない。

 だってこの男は、「計画」のためだけに、この春日井学園に来たのに。


「変なことを言うのはやめて。それより、早く教えてよ。私は何をすればいいの?」


 司はこの頃どこか不安定だ。

 志野泉美への秘密を明かしたと思えば、今度はこんな冗談を言ったりして。


 茜は、以前の彼を取り戻そうと、司の腕を掴み必死にその瞳を覗き込んだ。


「ごめん…………」


 しかし彼は、茜と目を合わせようとしない。


(なんで……!)


 「冗談だよ」って、笑い飛ばしてほしいのに。


「ねぇ、もしかして、1年じゃ『計画』、完成しなかったの?」


 司の腕を掴む力を強めていく。

 どうにか、「やめる」という言葉を撤回させたかった。


「いいんだよ、それでも。私、いつまでも待つよ? だからどうか、ちゃんと考えて、成し遂げてよ。あいつがこのままのうのうとここで過ごし続けてもいいの?」


 司にとっても芦屋は、姉の人権を踏みにじった、憎くてたまらない男のはずだ。


 茜は必死に司の体を揺さぶるけれど、彼はこちらを見ようとしない。彼はただ、なにかに耐えるような苦い表情をしながら、そっぽを向き続けた。


「……本当に、ごめん…………」


 小さく呟かれた司の謝罪に、茜の口の端がひくつく。


「何よ、それ……。何を謝ってるの……?」


 信じられない。

 信じたくない。


(まさか、本当に…………、やめる、の)


 ここまで来ておいて、なんで今更。


「…………ありえない」


 司の腕を掴む力が、更に増す。


「この1年、私、これだけのために生きてきたんだよ!?」


 なんで。

 どうして。


「やめないよね? 冗談だよね!?」


 司は、何も答えない。


「何とか言ってよ!」


 苦しげな表情とか、逸らされた視線とか、弱々しい謝罪とか。

 茜が信じていた「速水 司」とは程遠い、今の彼の軟弱な有り様に、苛立ちと焦燥感が募る。


「……ねぇ、じゃあ、泉美さんはどうするのよ。あの男が何の罰も受けずに生き続けるのなら、泉美さんは……」


 焦った茜は、司にとって最も効果的であろう人物の名を出した。


「思い出して。泉美さんがあの男に何をされたのか」


 姑息な手段だが、これが一番、「魔王」を煽れる。


「――あなたの『使命』は、復讐なんでしょ?」


 眠ってしまった彼の本性を呼び覚まそうと、茜は必死になっていた。「志野泉美」という存在を使って、司を焚き付けた――つもりだった。


 しかし、司が沈黙を破ることはなかった。


(……………………なんで)


 長い静寂の末、彼はたった一言、


「やめる」


と発した。


(…………は)


「意味わかんないんだけど」


 掴んでいた彼の腕をありったけの力でぐいと押して、校舎の壁に押しつける。


「ふざけないでよ! この1年、私がどんな思いで過ごしてきたかわかってるの!? あなたってそんな程度だったの!?」


 信じていたのに。

 稀有な頭脳と冷酷な心で、必ず成し遂げてくれると思っていたのに。


「なにが『取引しよう』よ!? よくあんなこと言えたわね!? こんな中途半端な覚悟で!」


 あの取引以来、ひとつの目的を共有した盟友のように思っていたのに。姉に対する秘密も打ち明けてくれて、唯一無二の絆が生まれていると思っていたのに。


 茜は司の体を何度も揺さぶる。

 幾度も背中を壁に打ちつけられて痛いはずなのに、司はされるがままになっていた。


「あなたがやめてしまったら、誰があの男を…………」


 茜には、司だけだったのに。


「なんでなのよ……」


 やっと見つけたはずの希望の光が、あっさりと消えてしまった。

 やりきれない気持ちは行き場を失くし、目の奥に熱く集まってくる。


「いつまで……」


 茜の手が、司の腕から離れた。


「私、いつまで……あいつの…………」


 これからも永遠に、茜の首に芦屋の魔の手がかかっているのだと思うと、茜の心は、真っ黒な絶望で埋め尽くされるようだった。


「誰か、助けて……」


 そう呟く茜を、司が空虚な瞳で見下ろしていた。


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