第5章 反逆 ~下僕にも矜持がある~ ②
速水 司の秘密を知り、茜は、彼との心の距離を更に縮めた気がしていた。今後も彼の「計画」の達成のために尽力しなければ、という思いが増している。
しかし、当の司は一向に動き出さない。
彼は、次の計画――すなわち、芦屋雄大の粛清――の開始を、「2学期には」と言った。
でももう文化祭も終了してしまい、カレンダーは10月に突入してしまっている。
速水 司にしては行動が遅い。
それに、茜は、司が芦屋に対してどんな制裁を用意しているのか、全く知らされていなかった。
もしかしたら、この1年では「計画」を満足に完成させることができなかったのだろうか。だから実行に尻込みしているのだろうか。
何か考えがあってのことかもしれないので、茜は自身の猜疑心を彼に直接ぶつけることはなかった。しかし、未だに続いている芦屋との関係に、時折精神が壊れかけそうになる。司がやるよりも先に、自分で手を下してしまおうかとすら思う。――芦屋の「奴隷」である茜には、実際はそんなことできやしないのだけれど。
――はやく、はやく始めてほしい。
あの憎い男を、地獄へ葬ってやりたい。
そのためなら、何だってすると決めたのだから――。
◇ ◇ ◇
「茜ちゃん、ちょっといい?」
用があって事務所を訪れていた茜は、帰りがけ、社長に呼び止められた。
「はい」
社長に連れられ、社長室に足を踏み入れる。
(なんだろう)
女社長のあらたまった態度に、茜は思わず胸を騒がせる。社長がモデルやタレント本人に声をかけるなんて滅多にないことなのだ。
社長は部屋の奥にあるゆったりとした大きな椅子に腰掛け、目の前のテーブルに置いてあった写真のようなものを手に取った。
「これ、見てみて」
茜は、差し出された写真を受け取った。
そして――愕然とする。
その写真は、茜が芦屋とホテルに入る様子の激写だった。
(嘘――)
頭が真っ白になる。
パパラッチに尾けられていたのだ。全然気付いていなかった。変装したつもりだったのに。
茜は、写真を握りしめる。
憎かった――芦屋が。
この男の呪縛から逃げることはできないのだと、改めて思い知らされた気分だった。
「ずっと前にした私の忠告、もう忘れちゃった?」
社長はやさしい声音で、笑顔でそう言うが、その目は全く笑っていない。
「……忘れてません」
そう言うしかなかった。
写真の芦屋を指差して、「この男に脅されてるんです」なんて訴えても、言い訳でしかない。
茜は、「仕事」をしている「プロ」なのだから。
「この写真、週刊誌の記者から送られてきてね。今回はなんとかしておいたけど。でも、問題はそういうことじゃなくて、……わかるよね?」
「なんとかしておいた」とは「お金にモノを言わせた」ということで、「問題」とは、「こういう写真を撮られてしまったこと」だ。
「……わかります」
わからないはずがない。
悔しい。
きっと社長には、恋愛にうつつを抜かしていると思われているのだろう。まだまだプロ意識の低いひよっこだと思われているのだろう。
「そう。なら、これからは気をつけてね」
「……はい」
社長はそれ以上何も言わず、茜に退室を促した。
(悔しい――)
社長室を後にしながら、茜は、プライベート用のスマホを取り出す。
何度か画面をタップして、司とのトークルームを開いた。
◇ ◇ ◇
次の日、仕事がオフだった茜は、放課後の校舎裏で人を待っていた。10月半ばにもなってくると空気は少し肌寒い。身体を縮こまらせながら、だんだん茶や赤に染まりかけている木々をぼんやりと見ていた。
「茜ちゃん」
伝えておいた時刻ぴったりに、その人物はやって来た。
茜は、積もった枯れ葉を踏みしめてこちらへやって来るその人物――司に、目を向ける。
「茜ちゃんがこんな風に俺を呼び出すとか、珍しいね。何かあった?」
こちらへ近づいてきた司は、学校内でよく見かける、人の良さそうな爽やかな笑みを浮かべていた。茜の前であっても一応学校内なのだから、あくまで「外面モード」のままなのだろう。
そんな司に、茜は用意していた質問を投げかける。
「……あのさ、ちょっと聞いていい?」
にこにこ微笑んでいた司だが、少し低めで真剣な茜の声に何かを察したのか、さっと真顔に戻った。
「……『計画』、いつ始めるの?」
茜の問いかけに、司は、茜の目をじっと見たまま口を開こうとしない。その真顔はまるで能面のようで、感情を読み取ることができない。
「『2学期には』って言ったよね? 何してるの?」
昨日の出来事で、茜の心には焦りが生まれていた。自分はパパラッチにマークされているのだ。このまま芦屋との関係が続けば、遅かれ早かれ、茜のスキャンダルが芸能界を賑わすことになるだろう。
茜の問いかけには答えず、司は、真顔をほんの少し緩めて――、そして一瞬、悲しげな表情をした。
そんな彼に、茜は驚きを隠せない。
勉強も運動もできて、顔もスタイルも完璧で、自信に溢れている人だと思っていたのに。
どうも最近、そんなイメージとは裏腹な彼を見つけてしまっている気がする。
「……ごめん。ちょっと、色々考えてることがあって」
目を逸らしながら司がそう小さく呟いたので、茜は苛立ちを隠せない。
何を「考えてる」のか知らないが、この人の、こんな気弱で頼りない姿なんて、絶対に見たくない。
できることなら、もう一度、あの夜みたいな彼に戻ってほしい。
取引をした夜――あの日の彼はまさに、孤高の「魔王」だった。冷たく美しく、こちらが思わず畏怖してしまうほどだったのに。
今の彼が、あの日の彼と同一人物だとは到底思えない。
「しっかりしてよ……」
信じているのだ。速水 司だけが、憎いあの男に審判を下してくれる「魔王」なのだと。茜の唯一の頼みの綱だと。
信じているのに。
「私、何でもするから。協力するから。だからどうか――私たちの目的を果たして、絶対に」
彼の腕に縋りつくようにしながら、茜は訴える。
司がどうして計画の実行を踏みとどまっているのかは分からないが、「諜報員」として、彼が望むことはなんだってするつもりだ。
「……うん」
しばらくの沈黙の後、司は、茜に向き直る。
「始めるよ……そろそろね」
彼は、何かの迷いを振り切ったようだった。
◇ ◇ ◇
いよいよ、始まるのだ。
そう思うと、奇妙な高揚が身体中を駆け巡った。
「気に入らないなぁ」
だから、芦屋雄大が隣にいても、茜の心は愉快だった。
「もっと、そのかわいい顔を苦痛に歪めてほしいんだよねぇ」
芦屋の家で。
薄闇の中白く浮かび上がる茜の身体を、芦屋はいいように扱う。高いプライドの持ち主である茜は、いつもはそれに激しい抵抗を見せるが、今日は何も動じず、むしろ勝ち誇った笑みさえ浮かべていた。
(だって、もうすぐ、自由になれる――)
春日井学園に人知れず存在している、「魔王」が。
圧倒的な頭脳とカリスマ性を持つあの男が、もうすぐ動き出すから。
これから芦屋を待ち受けていることを想像すると、笑いを堪えきれない。茜を、そして、志野泉美を餌食にしていた芦屋が、今度は「魔王」の餌食になるのだ。
司が何を考えているのか、どんな「計画」を企てているのかは未だに知らされていないけれど。
あの男なら、必ずやる。
あの月夜、彼だけを信じると決めたのだから。
(頼んだよ――速水くん)
茜は瞳を閉じ、ただひたすらに「魔王」の勝利を祈り続けた。




