第5章 反逆 ~下僕にも矜持がある~ ①
以前も2人で来たことのある、茜の地元近くの喫茶店で、司と向かい合って座っていた。喫茶店の様子は前と一切変わっていないが、茜の目の前の「速水 司」は、以前とは全くの別人だと言ってしまっていいだろう。
「いい子」の仮面を脱ぎ捨てた司は、茜の前ではその本性を惜しげもなく披露していた。
「泉美は、こういうことをされたんだ」
茜は、司が手渡してきたルーズリーフに目を走らせる。そこには、かつて志野泉美が1年A組で受けた凄惨なイジメの内容が記されていた。
しかし、彼女にとって最も過酷な体験であろう、芦屋に受けた強姦未遂のことは書かれていなかった。
「よく……聞き出せたね」
「辛かったよ。泉美の傷を抉ったんだから」
茜は、哀しい陰りを滲ませる目の前の司と、普段学校で出会う「人気者の速水くん」が同一人物だと、どうしても思えなかった。
「でも泉美は、まだまだ隠してることも多いと思う。だけど、俺はそれを無理に聞き出すつもりはないんだ……というかね」
司は視線をどこかへやると、皮肉な笑みをもらした。
「聞かなくても、想像がつくんだよ。芦屋みたいな人間が泉美という存在に出会えばまず何を考えるか、なんて」
返す言葉がなかった。
おそらく司は、志野泉美が受けた最低で最悪の仕打ちについて予想がついているのだろう。最愛の「家族」が強姦未遂を受けるだなんて。茜にきょうだいはいないが、その怒りや悲しみはきっと耐えられないものだろうな、と彼女は思う。
そして茜は、同時に、この聡い「速水 司」という人物は芦屋の歪んだ人格を見抜いていたのに、自分にはそれができなかったことを悔やんだ。
(だからこそ、私はこの人に託すのよ)
弱みを握られている自分には決してできないけれど、この男なら。
稀有な頭脳と、美しいまでの冷酷さを持つこの男なら。
(私の望みを、叶えてくれる――)
「それから、これが俺の『計画』」
顔色を一つも変えることなく司がそう言ったので、茜はびっくりしてしまった。彼が手渡してきた何枚かのルーズリーフには、綺麗な字がびっしりと並んでいる。
「桃井と小椋の方はね、いい駒がいるんだ」
そう言われ、茜は、見出しに「桃井・小椋」と書かれた数枚に目を走らせた。
「『小椋実咲』?」
「そう。今年同じクラスなんだけどね、どうやら姉にかなりの劣等感を抱いてるらしくて……そこにつけこもうかなと」
平然とした顔をしているくせに、言ってることはなかなか残酷だ。
「ただ、ひとつだけ気にかかることがあって」
司は、ルーズリーフのある行を指し示す。
「小椋実咲をうまく『駒』にできたとして、もし、『小椋怜奈が過去にクラスメイトをいじめていた』って公表されたら、こっちが困ることになるんだ」
「マスコミとかが被害者探しを始めるから?」
「そう。それに、『イジメがあった』と立証するには根拠がなさすぎるから、小椋と桃井を失墜させるにはいまいち決定打に欠ける」
なるほど。
さすがは学年一の秀才と言うべきか、司の言っていることには説得力があった。
しかし、心配には及ばないだろう。
茜は、彼の「諜報員」として、自身が知るとっておきの情報を教えてあげることにした。
「それなら……たぶん大丈夫だよ」
「え?」
「小椋家と桃井家、すんごい黒い繋がりがあるんだって」
それは、芸能界に溢れかえるウワサのうちの一つだった。
「……お金系?」
「そうそう」
「へぇ……」
司は、口角を片方だけつりあげて、頬杖をついた。おそらく自分の勝利を確信したのだろう。
体育大会で短距離走を走り終わった後に見せていたあの爽やかな笑顔とは程遠い、黒い笑み。だけど茜にとっては、こちらの笑いの方が魅力的に見えてしまうのはなぜだろうか。つくづく、この男の二面性には惹き込まれてしまう。
それに、速水 司のこんな本性を知っているのは自分だけだと思うと、茜は優越感のようなものも感じた。
「……で、芦屋のほうなんだけど。こっちが煮詰まっててね……」
「芦屋」という響きを聴くだけで、心臓が不吉な早鐘を打つ。茜も志野泉美と同じく、あの男の歪んだ性の捌け口にされた被害者なのだ。
茜は、「芦屋」と書かれたルーズリーフを手に取る。確かに、
「・香取 茜に接近する」
以降が空白だった。相当「計画」を練ることに苦戦しているらしい。
「情報が欲しいんだ」
頬杖をついたまま、司は茜を見据えた。
まるで「魔王」が、部下の「諜報員」に命令しているかのようだった。
「こうやって春日井でたくさん問題を起こすことは、春日井自体への復讐にもなるしね」
綺麗な眉の下の黒い瞳が妖しげに光って、茜を離さない。
茜は思わず、ごくりと唾を飲んだ。
何でもしよう。
この男のためなら、何だってする。
何にだって、なってみせる。
――私達は、取り引きしたのだから。
◇ ◇ ◇
速水 司と協力関係になってから、約一年。
速水 司は、まず、一年かけて学園内で絶対的な人気と信頼を勝ち取った。
その手腕に、茜は感心を通り越して呆れてしまう。速水 司のどこにも隙はない。速水 司といえば、みんな口をそろえて「いい人」という。
それに彼は、ものすごい強運の持ち主だと思う。
ターゲットである小椋実咲と2年生でも同じクラスになるし、席が前後になるし、小椋実咲は明らかに司に好意を抱いているし。
小椋実咲は司にどんどん依存していって、やがて心の崩壊を迎え、姉の怜奈と共に学校を去った。彼女はいとも簡単に司の姦計に嵌ったのだ。
茜は、決して小椋実咲に同情することはなかった。そんな人間らしい感情など、芦屋によってとうの昔に放棄させられた。
茜は茜で、一年かけて念願の「ブレイク」を果たした。テレビ出演のオファーもコンスタントに来るようになり、気軽に街を歩くことはもう出来ない。学校も、以前よりもっと休みがちになったが、彼女は今の生活に満足していた。
前までは、「キャラ」を演じ続けることにしんどさを感じていた。しかし司と出会ってから、呼吸をするように自然と「芸能人としての自分」で振る舞えるようになっていた。殺意や狂気を内に秘めながら生きることで、茜にも、司のような二面性が生まれてきたのかもしれない。
そして茜は、ひとつだけ、司にある疑問を抱き始めていた。
それは、ある時の会話だった。
「速水くんって、お姉さんのこと名前で呼び捨ててるの?」
茜はなんとなく、ずっと気になっていたことを彼にぶつけた。
「え? あぁ、昔からだけど……」
「変わってるね」
「半分しか血、繋がってないし。幼心にも、『お姉ちゃん』とは呼びにくかったんじゃないかな」
「でも、今ならもうそんなこと気にならないんでしょ? 呼び方変えてみたら?」
様々な苦難を一緒に乗り越え、長年連れ添った家族なのだから、父親が違うことなど大した問題ではないはずだ。いや、この2人はもはや、普通の姉弟よりも強い絆で結ばれている。
しかし司はその時、これまで一度も見せたことのないような表情をした。
茜がそれにはっとすると同時に、司の瞳が切なげに細められる。
「……茜ちゃんまで、俺に『いい弟』を強要するんだ?」
彼のそんな弱々しい声を聞いたのは初めてだった。
司はそれ以上何も言わなかった。茜も、決して深入りしてはいけないと悟ったけれど、心にはある疑問がしっかりと残った。
速水 司は、決して「姉」に向けてはいけない感情を、志野泉美に抱いているのではないか――と。
◇ ◇ ◇
桃井家と小椋家によって少し長引いた夏休みも明け、学園は文化祭ムードに沸いていた。生徒たちは、夏休み前にスキャンダラスな事件が起こったことなどすっかり忘れ、劇や展示、模擬店などの準備に大忙しだった。茜も、できるだけそれに参加しようと心に決めていた。
文化祭1日目、たまたま仕事がオフだった茜は、終日文化祭に参加することができた。中等部と合同で開催されるからか、やっぱり春日井の文化祭は毎年大盛況だ。茜はクラスの模擬店のシフトに入ったり、友達と校内を周ったりして、文化祭を大いに楽しんだ。
午後、2回目のシフトに入っていた時の出来事だった。
「は、速水 司だ」
茜と一緒に商品の受け渡しをしていた女子生徒が、興奮気味な声を上げる。
見ると、ワッフルを注文して会計を済ませた速水 司が、友人の男子生徒数名とこちらへやってくるところだった。
「あ、茜ちゃん。ここのワッフルが美味しいって評判だから、来ちゃった」
茜に気づいた司が手を振りながら、例の殺人スマイルでそう言う。蝶ネクタイのついた、オシャレなカフェの店員みたいな衣装がよく似合っていて、茜の隣の女の子はもれなくハートを撃ち抜かれてしまったようだ。
「速水くん、あとで絶対写真撮って!」
「うん、撮ろ撮ろ!」
司は、一寸の綻びもない笑顔でその子に応じる。
(恐ろしい男だよ、ほんと)
この完璧な仮面を見抜ける人物など誰一人として存在しないだろう。たとえば、司を一番側で見守り続けた志野泉美でさえ、きっと騙されている。
「この男が小椋実咲を傀儡にして世間を混乱に陥れた」なんて言っても、おそらく誰も信じない。
「おっ、司くん!」
そんな考え事をしていた茜は、誰かの声でふっと我に返った。
司に声をかけたのは、焼けた肌に白い歯が眩しい、ガタイのいい爽やかな好青年だった。おそらく3年生だろう。
「秀明さん!」
男女問わず知り合い多いなぁ、なんて思った茜だが、司の表情が一瞬強張るのを見逃さなかった。
(……あれ)
秀明といえば、もしかして更科秀明のことだろうか。
そう思うと確かに、この好青年は、以前芦屋に見せられた写真の男に似ている。
あの芦屋に、桃井彩女に、小椋怜奈に立ち向かい、志野泉美を救ったという「英雄」。ならば、司にとって彼は恩人のはずなのに、茜にはどうも、司が更科秀明に畏怖しているように見えた。
「学校内で会うなんて珍しいなぁ〜。司くんのクラスは何やるの?」
「カフェらしいですよ」
「へぇ〜! 俺も1年のときカフェやったなぁ、懐かしい」
更科秀明の話ににこにこ頷く司だが、茜はその笑顔が白々しい気がしてならない。
「シフトかなり入ってて、今から不安なんですよ」
「そりゃあ司くんは接客の要だろうからなぁ。俺のときも、泉美が……」
茜たちにとっての重要人物の名を言いかけて、更科秀明は口をつぐんだ。
「いや、ごめん、ここでする話じゃないな」
――やっぱりこの人物は「更科秀明」で間違いないらしい。
「おい、司、そろそろ行こうぜ」
しばらく何かを考え込むかのように沈黙していた司だが、友人の声で我に返ったようだった。
「じゃあ秀明さん、また」
小さく会釈し、司は去っていった。
◇ ◇ ◇
文化祭1日目が終了し、校舎からは少しずつ人が減っている。模擬店の売り上げ計算を手伝ったり、雑用をしたりしていると、もう日も落ちかけている時間になった。
明日は仕事があるので早く帰らなくてはならないが、なんとなくまだ帰る気分になれず、茜は一人で校舎内を歩いていた。
ようやく夕暮れ時の、人気のない学園は趣があって悪くない。まだ1日目とはいえ、楽しい文化祭が確実に終わりに近づいているという哀愁が校舎全体を包んでいるような気がした。茜は明日文化祭に出席できないので、その哀愁感は尚更だった。
(今日の速水くん、なんか変だったな)
校舎を歩きながら、茜は、午後会った司のことを思い返していた。
いつも完璧なはずの彼の仮面が、更科秀明によって少し外れかけていた。もっとも、司のその僅かな違和感には、茜以外の誰も気づかなかっただろうけれど。
(更科秀明のこと、苦手なのかな)
彼にそんな人物がいるとは考え難いけど、誰にでもそりの合わない人間はいるものだ。
そんなことを考えながらなんとなく訪れた校舎裏で、茜は、偶然にも出会ってしまった。
「速水くん」
人気のない校舎裏にひとり、速水 司が佇んでいた。
校舎にもたれかかるようにして立つ彼は、どこか打ちひしがれたような表情をしている。決して彼が「学校」という場で見せることのない表情のはずで、茜はそんな彼を怪訝に思った。こんな時間になるまでずっと、一人でここにいたのだろうか。
「速水くん、どうしたの」
茜は、どこかを見たまま反応を返さない司に近づく。
こんな彼は珍しい。何か、あったのだろうか。
「…………が、……………のに」
開かれた司の口から、聞き取るのがやっとな小さい声が出てくる。
「え?」
「俺の方が、先に好きだったのに」
「先に好きだった」?
何を? ……誰を?
「速水くん?」
司の意図が読めなくて、茜は説明を求めようと彼の名を呼んだ。司は依然として茜を見ようとしない。
夕暮れにそのまま溶けていってしまいそうなほど、今の彼は儚くて弱々しい。
そして、しばしの沈黙の後、彼はやっと口を開いた。
「…………俺の方が、好きだ。泉美のこと……」
(……え)
ずっと茜の中にあった疑念がいま、確信に変わる。
やっぱり。
やっぱり、この男は。
この男は、どうしようもなく焦がれているんだ。
「姉」と呼ばれる存在に。
だから彼は、更科秀明に対して少しぎこちなかったのだろうか。
「速水くん……」
なんと声をかけていいのか分からなかつた。
想いをひた隠しにしながら、誰よりも愛する女性と毎日暮らす気持ち。
誰よりも大切にしたい女性が、犯されかけた気持ち。
誰よりも愛しい女性に、恋人がいる気持ち。
その恋人が、よりにもよって、姉を救ってくれた「英雄」――。
司を蝕む強烈なジレンマを想像すると、茜はどうしようもなく胸が痛んだ。
同時に、彼が抱える重苦しいものを知れば知るほど、この男との協力意識が高まる気がした。
速水 司を理解できるのは、自分だけだ。
人気者で、学園のカリスマ的存在である「速水 司」は、実は血の繋がった姉に恋焦がれている。そんな背徳的な彼の秘密を知っているのは茜だけだし、彼がそれを開示するのも茜だけだった。
「今から……2年前、かな。俺が中3の時だ。泉美が浴衣着て、化粧して、夏祭りに行ったことがあったんだ 」
司の話に、茜はすぐに見当がついた。以前芦屋に見せられた写真の中の、志野泉美の姿が思い浮かぶ。あそこに映る志野泉美は、清純さとほんのわずかな色気が同居して、どんな男も虜にしてしまうような魅力があった。
「あのとき俺は、何の疑いもなく、女友達と行くんだろうって思ったんだよ。――ほんと、おめでたすぎて笑えてくる。あれでただの『女友達』に会うわけないのに」
聡い司が、志野泉美に「彼氏」の存在を疑わなかった。それは、彼が姉に対して盲目的に「純粋である」という理想を押し付けていたせいでもあるのだろう。
そして茜は、誰もが憧れる「速水 司」がここまで執心する「志野泉美」とは、いったいどんな女性なのだろうという純粋な興味もわいた。
(速水くんが、志野泉美の『弟』じゃなければ。――『姉弟』として出会わなければ、2人はどうなったんだろう)
そんなことを思っても、茜も司も、運命を受け入れるしかないことは分かりきっていた。




