第4.5章 少女の傷 ⑥
SHRが終わると同時に、秀明がこちらへやってくるのを視界の端で確認する。
「泉美、帰ろう」
泉美はつくづく、どうしてこの人はこんなに優しいんだろうと思った。笑顔で泉美を誘う秀明は、部活でペナルティを受けたことなど微塵も感じさせない。この優しさを無碍にするのは心苦しいけれど……それでも、泉美は自身から秀明を解放してあげなくてはならない。
「もう、大丈夫だよ」
「えっ?」
泉美の予想外な言葉に、秀明は素っ頓狂な声を上げた。
「私、もう大丈夫。秀明くんが心配するようなことは、きっと起こらない。だから、部活に行って?」
そうは言われても、秀明は納得がいかない様子だった。
「でも……」
「お願い。私を信じて」
抗議の声を上げようとした秀明は、はっと口をつぐんだ。
普段はどちらかというと受け身で気弱な泉美が、真っ直ぐな目をして「信じて」だなんて強い言葉を使うのが新鮮だった。惚れた弱みと言うべきか、秀明はそんな泉美の一面を見せられては逆らうことができない。
それに、自分にはわからない「女子の事情」があるのだろう、と彼は思った。派手な喧嘩したと思えば、いつのまにか修復している。あまり理解できないけれど、女子にはよくある事だ。
「わかった」
まだ気にかかることはあるようだったが、秀明はそれだけ言って教室から立ち去った。おそらく部活に向かったのだろう。
泉美はほっと胸を撫でおろす。多くを語らずとも泉美の願いを聞き入れてくれたのは、秀明が泉美を信頼してくれている証なのだと信じたい。
それに、泉美は、危険なことなどもう本当に起こらないだろうと思っていた。なぜなら彩女も怜奈も、自分を許してくれのだから。
彩女と怜奈はまだ教室に残っていた。一緒に帰ろうと声をかけようとしたとき、ふと、誰かに肩を掴まれる。
「泉美ちゃん」
その人物に名前を呼ばれたのは久々で、泉美は思わずびくりとした。
「更科クンと帰らなくていいの?」
泉美は、声の主――芦屋を振り返る。
芦屋は、にやにやした笑みを浮かべながら、数人の取り巻きと共に泉美を取り囲むようにして立っていた。
「教室のど真ん中であんなやり取りするなんて、相変わらず激アツだねぇ」
皮肉を言う芦屋に、泉美はあからさまに苦い表情をした。
「ごめん、そういう話ならもう――帰るから」
そう言って芦屋を突っぱねて、踵を返そうとする――が、腕を掴まれる。
「ねぇ……親友の好きな男に手を出す男好きなら、ボク達の相手もしてよ」
カッとなった泉美は、芦屋の手を振り払った。
(なんで今さら、そんなことを言うの!?)
この男たちは、泉美がようやく手に入れた平穏を再びかき乱そうとしてくる。終わったはずの苦い過去を蒸し返そうとしてくる。
「あなたたちが何をしようと、もう、私と彩女は崩れない」
普段の大人しい様子からは想像もつかないほど毅然として、泉美はそう言い切った。しかし、男たちはなぜかますますにやりと笑う。
「ほんとに? ほんとに、そう思う?」
芦屋がそう耳元で囁いてきて、嫌悪感でぞっとした泉美は思わず耳を塞ぐ。
「ねぇ、何がしたいの――」
泉美がそう言い終わるより前に、芦屋が彼女の後方を指差した。わけがわからないけれど、とりあえずそれにつられるようにして振り向く――が、泉美は思わず、絶句した。
(……え)
――彩女と怜奈が腕を組みながら、泉美を鋭く睨めつけていた。
「泉美ちゃん、睨まれちゃってるけど、大丈夫? 仲直りしたんだよね?」
楽しそうに弾む芦屋の声は、泉美に届いているのかわからない。彼女はただ、いろんな可能性を頭の中で探った。例えば、2人が睨んでいるのは自分ではなくて芦屋なのではないか、とか。
しかし、彩女と怜奈の冷たい視線の矛先は、間違いなく泉美だった。
「なんで……」
「まぁ、当たり前だよねぇ。彩女の性格から考えて、泉美ちゃんを許すわけないもんね。それなのに泉美ちゃんったら、どこまでもピュアだから」
芦屋が再び泉美の手を取るが、茫然自失として硬直したままの泉美は、それを振り払うことができなかった。
「彩女。――もう、始めていい?」
うっとりとした表情を浮かべ、芦屋は、取り上げた泉美の掌を自分の頬に当てる。
「ええ」
彩女がにやりと頷くのと同時に、男たちが一斉に泉美の身体に手をかけた。
ぐるりと視界が揺れる。
(――えっ)
わけがわからない。
気がつけば、天井を見ていた。背中に硬い床の感触がする。目線をさまよわせると、泉美を見下ろす彩女と目が合った。
「地獄を見てもらいましょう」
怖いほど優美に、彩女は微笑む。
(地獄……?)
その単語がどんな意味であったかを思い出すと同時に、泉美は、ようやくこの状況も理解した。
「…………っ!」
声にならない、悲鳴が出る。
泉美は、瞳に欲望を浮かべた男子生徒たちに、床に押さえつけられていた。
(そんな……!)
信じられない。信じたくない。
こんなこと、あっていいはずがない。
「離して!」
そう叫ぶけれど、男たちの握力は弱まるどころか力を増す。
「いい眺めね、泉美」
少し離れた場所から、恍惚とした表情で彩女がそう言う。その表情には泉美への同情や良心の呵責などは一切存在せず、彼女はただただ純粋に、目の前の娯楽を愉しんでいるようだった。
(いやだ! こんなの、ぜったいにいや!)
恐怖と、羞恥と、憎しみと。こみ上げる感情を抑えようともせず、泉美は震えながら解放を求めて泣きわめく。
「た、助けて! 誰か、助け――」
しかし、それを芦屋が遮る。彼は泉美の口を掌で覆うと、自分の下で恐怖にうち震える学年一の美少女の姿を思う存分に堪能した。
「無理だよ、泉美ちゃん。だってキミの唯一の味方は、もう部活に行っちゃったでしょ?」
(ああ――)
泉美は、全てを悟った。
彩女と怜奈は、おそらく芦屋と結託していたのだろう。
泉美を許した演技をし、油断させて、秀明という邪魔者を泉美から遠ざけるのが彼女たちの役目。
――そして芦屋は、無防備になった泉美に――
(いやだ!)
無駄だとわかっていても、四肢を押さえつけられていても、泉美は身体を捩って抵抗した。
絶対に、こんなやつらの思い通りになんかなってやらない。
「あれー? 男好きのくせにやたら抵抗するじゃん? 今さらピュアっ娘演じたって無駄だよ、泉美」
そんなことを言った怜奈を、泉美は鋭い瞳で睨めつける。さすがの泉美も、こんなことを平気でやってのける怜奈や彩女をもう友達だとは思わない。
「いや〜、女って怖いね」
飄々と言う芦屋だが、その左手は泉美のカッターシャツのボタンを外しにかかっていた。
(やめて……!)
声が出ない。
「特に、進学校の女なんて、プライドの塊だからねぇ」
(離して!)
大粒の涙をこぼしながら、泉美は怯えたように首を振り続ける。しかし、泉美の嫌がる姿は、芦屋の加虐心にますます火を点けるだけだった。
「泉美ちゃん。キミがここに居るだけで、教室の女の子たちは鬱憤溜まってたんだよ。泉美ちゃんの前じゃ、どの子もキミの引き立て役だからね。泉美ちゃんと更科クンの一件は、A組の女の子たちにとって、それまでのキミへの鬱憤を晴らす丁度いい口実になったんだよ」
ボタンのすべて外されたカッターシャツが開かれ、まだ誰にも晒したことのない、泉美の白い素肌があらわになる。
「っ――!」
髪を乱して抵抗する泉美の口を、芦屋はますます強い力で圧迫する。
「泉美ちゃんの『贖罪』なんて、もはや誰も興味ない。それなのにキミは、馬鹿正直に罪を償おうとした。『一生懸命伝えれば、いつか分かってもらえる』そう思ったんでしょ? ……ほんと、世間知らずって言うか、世渡りが下手だねぇ」
呼吸をすることを許してもらえず、意識が朦朧とする。遠のく聴覚に響いた芦屋のその言葉は、泉美を更なる絶望へ突き落とす。
「……ま、ボクら『男』は、そんなことどうだっていいんだけど」
芦屋の指が、いよいよ泉美のスカートの下に忍び込んだ――その時、だった。
「おい! 入るな――」
「どけッ!」
教室のドアの向こうから、鋭い怒号が飛んだ。
「泉美っ!」
物凄い勢いでドアをスライドさせ、現れたのは――秀明だった。走ってやってきたのか肩で息をしている。秀明の後方では、見張りをしていた芦屋の取り巻きがしゃがんで苦しげに呻いている。どうやら秀明に突き飛ばされたようだった。
「……クソ」
芦屋は舌打ちをして立ち上がり、近づいてくる秀明に睨みをきかせる。対する秀明は能面のように無表情だった。だが彼の纏うぴりぴりとした空気が、彼の内側に秘められた憤怒を容易に物語っていた。
「部活に行きながら、気づいた」
ぴんと張り詰めた沈黙を破った秀明の声は、唸るように低い。そのあまりの低さに、彩女と怜奈は思わずびくりと身震いする。
「教室に、お前たちが残ってたこと」
泉美のそばに到達した秀明は、自分のブレザーを脱ぎ、あらわになった泉美の胸元を隠すために彼女の肩にかけた。
「それはそれは、勘のいいことで」
芦屋はにこりと笑ってそう言うが、もちろん目の奥は全く笑っていない。何度もいいところを邪魔する秀明が――、学年一の美少女という格好の獲物を横取りした秀明が、憎くてたまらないのだ。
「狂ってる」
「英雄」は、彼の前に存在する数人の「悪」たちに、宣言した。
「俺は、お前たちを許さない――絶対に」
その目の奥に、怒りの炎をくすぶらせながら。
◇ ◇ ◇
誰もいなくなった教室で、秀明は泉美を抱きしめた。
泉美は焦点の合っていない目で、異常なほどにガタガタと震えていた。
「何かが変わるかも」だなんて絵空事を信じていた自分が憐れだった。
泉美が泉美である限り、ここは地獄であり続ける。
「罰」だと称した、泉美への理不尽な迫害が行われ続けるのだ。
「……ごめんなさい、秀明くん。……私、もう、限界です」
本当は、戦いたい。
だけどもう、無理だった。
芦屋に突きつけられた哀しい現実――泉美は絶対に、この冷たい地獄から逃げられない、ということ。
あの平穏な日々は二度と戻ってこないということ。
泉美の言葉を受けても、秀明は決して、「一緒に戦おう」だなんてことは言わなかった。
彼はただ、震える泉美をかき抱き続けた。
「泉美……ごめん。守れなくて、ほんとうにごめん……」
泉美の手の甲に、冷たいものが落ちた。
それが秀明の涙だと気づき、泉美は、何があってもこの人だけは信じ続けようと誓った。




