第4.5章 少女の傷 ⑤
たびたび休むことはあっても、泉美は学校に通い続けた。
何があっても秀明が守ってくれるから。1人じゃないから。
彼女はそう自分の心に言い聞かせ続けた。
そして何より、母である透子に報いたかった。受験生である司に、余計な心配をかけたくなかった。
秀明はとても、とても優しかった。あれだけ遅刻魔だったのに、泉美と一緒に登校するために、毎朝駅で泉美を待ってくれていた。実際、秀明の監視下では、泉美へのあからさまな攻撃は行われなかった。
けれど女子生徒たちは、秀明の庇護のちょっとした隙をついた。少しの時間でも泉美がひとりになるようなことがあれば、すぐに彼女を虐げた。
じわじわと泉美を苦しめる、陰湿な嫌がらせも行われた。数学の教科書だけにとどまらず、持ち物が頻繁に隠された。ノートにひどい言葉たちが書きなぐられていたこともあった。
心の限界を感じたとき、泉美はよく保健室に駆け込んだ。
(大丈夫。大丈夫……。私には、更科くんがいる)
ベッドで布団にくるまって、泉美はしばしばそう唱えた。
けれど、どうしようもなくなって、涙を堪えきれないこともあった。
(……こんな高校生活、望んでなかった)
◇ ◇ ◇
季節はそのまま冬を迎え、3学期に入る。
支えてくれる秀明のために前を向き続けたい、春日井に通わせてくれる透子に恩返ししたい、という気持ちと、もう限界だという気持ちが半分ずつだった。
毎日毎日、好奇と軽蔑の目に晒され、人権などまるで無視した仕打ちをされ、なんのためにこんな学校に来たのだろう、とすら思う。心から、冬休みが明けて欲しくなかった。
それでも、立ち向かい続ければ何かが変わるのではないか、とも思う。
(戦う。いつかきっと、分かってもらえる日が来る)
そんな決意を胸に秘めながら、泉美は久しぶりに「1年A組」の重いドアを開けた。
「おっはよー! 泉美っ!」
飛んできた声に、泉美はびくりと肩を震わす。しかしその直後、驚いて硬直した。
(……え)
怜奈と彩女が笑いながら泉美に近づいてくる。思わず、何かされるのではと身構えた。しかし2人のその笑みは、この頃見慣れた皮肉な冷たいものではなくて、大の友達として一緒にいたあの頃のような、友好的な笑みだったのだ。不可解な2人の言動に、泉美は助けを求めるように隣の秀明を見る。もちろん秀明も、わけがわからないというように顔を引き攣らせていた。
「もう、そんな暗い顔してどうしたの、泉美」
3人がいちばん仲の良かった文化祭の頃のように、彩女が親しげに泉美の腕をとった。
「どんな冬休み過ごしたか聞かせてよ!」
彩女と怜奈が泉美の両脇を固める。2人のこの行動には、他のクラスメイトたちもさすがに呆気に取られていたようだった。「あいつら仲直りしたのか?」「女ってわかんねえな」というような言葉が飛び交っている。そんなクラスメイトたちを代表するように、秀明が2人に疑念をぶつけた。
「お前ら、何考えてるんだ?」
秀明は普段女の子に「お前」なんて二人称は決して使わないが、この2人だけは例外だった。
そんな秀明に、怜奈が、
「彩女はね、あんた……更科のことはもうどうでもよくなったの。だから、泉美と仲直りしたいんだよ」
と、泉美の肩を抱きながら得意げに言う。
「いまさら『仲直り』って……どの口が言ってるんだよ」
「そちらこそ、女子の事情に口を挟まないでくれる?」
あれだけ秀明に執着していた彩女が、きつい眼差しで彼を睨んだ。それは、もう彩女の気持ちが秀明に無いことの証明でもあった。
そのまま彼女は、隣の泉美に視線を移す。
「泉美、本当にごめんね。私、周りが見えてなかった。冬休みのあいだ、頭を冷やして反省したの。謝って許されることじゃないけど……」
泉美の両手をとって、包むように握る。
「本当にごめんね……」
そんなことを言われても、泉美はただただ戸惑って、どうすることもできなかった。瞳を潤ませて謝罪する彩女を信じたいけれど、どうしても裏を感じずにはいられないのだ。冬休みに入るまでのあいだ、この2人からどんな仕打ちを受けていたか、泉美は決して忘れない。
不可解な出来事は解決を迎えることなく、そのまま授業が始まった。
休み時間になるたび、彩女と怜奈は泉美のところへやってきて、世間話をした。カフェの新作ドリンクが出ただとか、冬休みどこへ行ったとか、あのブランドのコスメが良いだとか、まるで時間を巻き戻したかのようだ。
はじめのうちは、泉美は警戒心を露わにして、目の前で繰り広げられる2人の会話にほとんどと言っていいほど参加しなかった。少し離れた場所で他のクラスメイトと談笑している秀明も、泉美の方をしきりに気にしていた。
しかし、2人があまりに気兼ねなく話をするので、泉美は次第に、その状況を明るいほうへ考えたいと思うようになった。
(……変わったのかな。私が、何かを信じて、立ち向かったから)
そう思うと、思わず涙腺が緩んだ。
(元通りに、なれるのかな。信じていいのかな)
頑張ってよかった、と、泉美は心から思った。
◇ ◇ ◇
そのまま時は過ぎ、1月の終わりごろには、A組で泉美に対するイジメがあったことなどほとんど忘れ去られていた。
怜奈や彩女に加担して、面白がって泉美をいじめていた女子生徒たちは、2人の態度のあまりの変わり様が腑に落ちない様子だったが、心の中で泉美に味方していた大人しめの生徒たちは、クラスと泉美に訪れた平和を心から祝福していた。芦屋たち男子中心グループも、もう泉美のことなど飽きてしまったかのようになんの波風も立てなかった。
泉美と秀明は、完全に警戒心を解いたわけではなかったが、以前よりはかなり気楽に学校に通えていた。ただ、秀明はできるだけ2人で登下校しようと主張し続けた。部活を休んでもらうのが申し訳なくて、泉美はそれを拒もうとしたが、秀明の意志は固かった。
◇ ◇ ◇
カレンダーは2月に入った。
世間はバレンタインデーに浮き足立っている。春日井学園も例外ではなく、男の子も女の子そわそわとした雰囲気を見せていた。
すっかり元通りになった泉美たち3人は、次の体育の授業に備えて、更衣室で着替えをしていた。
「もうすぐバレンタインだねー」
そう言ったのは怜奈だ。
泉美はいまだに、こうやって3人で行動し世間話に花を咲かせているのが信じられない。3人のあいだにあったわだかまりなどすっかり消えてなくなっていた。
「泉美は更科にチョコあげるの?」
「えっ……」
特に何も気にした様子もなくそう聞いてきた彩女に、泉美は驚いて思わず声を上げる。そんな泉美から何かを察したのか、
「もうっ。『気にしてない』って、何度も言ってるでしょう?」
彩女がそうフォローを入れた。「気にしてない」とは、もちろん更科秀明のことだ。
「だから、泉美も……。どうか、この数ヶ月のことは許してね」
即座に、「この数ヶ月」にあったことが泉美の頭にフラッシュバックしていく。それは思い出すのも辛い、苦い体験たちだ。正直、まだ心の傷は完全には癒えていない。
(でも、私だって、本当に最低なことをしたから)
「うん……」
彩女は、目を伏せてこくりと頷いた泉美をぎゅっと抱きしめた。
「あ、更科と言えばさ。陸上部の友達から聞いたんだけど」
ふと、そう口にしたのは怜奈だ。彼女はジャージを着ながら、軽い調子で言葉を続ける。
「更科さ、冬休みにあった陸上の試合、選手として出るの確定だったのに、外されたんだって」
「…………え?」
彩女に抱きしめられていた泉美は、思わず顔を上げた。
「あまりにも練習に来ないから、部員の士気を上げるために懲罰的な意味で、らしいよ」
「そんな……」
そんなこと、一言も聞いたことなかった。泉美と登下校する秀明はいつも笑顔で、楽しそうで。冬休みに電話で話したときだって、そんな気配は微塵も感じさせなかった。
(秀明くん……)
泉美はそのとき、自分はあまりにも秀明に頼りすぎていたと実感した。一緒に帰ろう、一緒に学校に行こうと言ってくれる秀明がどんな犠牲を払っているか、想像したこともなかった。
(私、ほんとに自分のことばっかりだな)
泉美は思わず、自己嫌悪で顔を歪める。
壊れそうになる心を、秀明に依存することでなんとか保っていた。優しい秀明に、甘えきっていた。
(……もう、困らせたりしない)
誰よりも、大切な人だから。
髪を纏めて、唇を噛み締めて。
そんな決意を固める泉美は、彩女と怜奈が不敵に笑っているのに、気が付いていなかった。




