第4.5章 少女の傷 ④
「そんな顔をしないで」と言ってくれた透子の優しさが、どうしようもなく痛かった。
(ごめんなさい! お母さん、ごめんなさい……!)
泉美は、新しい画材が欲しいと嘘をついて、久しぶりに家に帰ってきた透子に5万円を貰ったのだ。
泉美は、自分が本当に最低な人間に思えてくる。大切な親友を裏切り、その償いのために母親を裏切り、生きている価値など無いとすら思い始めていた。
◇ ◇ ◇
朝、泉美は「1年A組」のドアの前でしばらく立ち尽くす。この先に満ちる敵意を想像すると、あまりの恐怖に思わず逃げ出したくなる。……けれど、泉美は向き合わなくてわならない。己の犯した罪に。
教室に足を踏み入れる。泉美の登場によって、室内の雰囲気が一気に冷たく凍りつく。その場にいる全員が泉美に注目している。
「おはよう、泉美」
待ち伏せしていたかのように、彩女と怜奈が泉美の前に立ちふさがった。その後方では、芦屋をはじめとする男子たちが、机や椅子に腰掛けながら泉美を舐めまわすように見ている。
何事かとびくびくする泉美を、クラスの中心グループの女の子たちが取り囲んでいった。
目の前の彩女は微笑んでいる。しかし、その目は全く笑っていない。
「ねぇ、泉美」
その彩女の言葉を合図に、女の子たちが泉美をぐっと取り押さえる。
(えっ――!?)
突然の出来事に、泉美は抵抗すら出来ず、されるがままに床に押さえつけられた。
「なっ、なにす――」
「こっち向きなさい」
とげとげしい彩女の声に、泉美は顔を上げる。そして顔をこわばらせた。
彩女の手には、先日美術の先生から受け取った、コンテストの賞状が握られていたのだ。
「やめて、それは――」
「コンテスト、入賞して良かったわね!」
泉美の悲痛な叫びもむなしく、彩女が笑いながら賞状を破る。ビリビリという紙の破れゆく音が、呪縛のように泉美の心を締めつける。
あのコンテストで夢への第一歩を踏み出せたと思っていたのに。破かれた賞状の破片たちは、まるで泉美に「お前は夢を追いかける資格すらない人間だ」と言っているかのようだ。
呆然としたまま涙を流す泉美を見て、彩女はますますニヤリと笑った。泉美を押さえつける2人の女子生徒に目配せして、泉美と目が合うように膝立ちになる。
「約束の金、用意したわよね?」
彩女の言葉に、泉美は反応を示さない。
「償うんでしょ、罪を」
けれど、その言葉を聞くやいなや、泉美はハッとした表情をした。自分の使命が親友への贖罪であることを思い出したようだ。
「泉美の財布はどこかしら?」
彩女が言うと、彼女の忠実な取り巻きである怜奈が、すかさず泉美のカバンから財布を取り出す。
「いち、に、さん、よん、ご……やるじゃん、泉美!」
一万円札の枚数を数えて、怜奈がはしゃぐ。芦屋を中心とした、教室中の生徒がワッと声をあげて喜んだ。
泉美は、目の前で起こるそんな出来事を、どこか他人事のように見ていた。
「泉美、次は10万用意しなさい」
彩女の声に、泉美はゆっくりと虚ろな視線を持ち上げた。
「聞いてるの!?」
鋭い怒声とともに、泉美の腹部へ彩女の足が直撃する。
「……っ……!」
「10万。余裕よね?」
余裕なはずがない。もうこれ以上、母に嘘をつきたくなんてない。
「……できない」
瞬間、怜奈が泉美の前髪を掴みあげた。
「いっ……!」
「私たちのこと、裏切ったくせに。償いもできないの、このクズ。ほんと顔だけだね」
女子生徒たちのクスクスという笑いがさざなみのように広がる。かわいいかわいいと持て囃され、絵の才能もある泉美が屈辱的な仕打ちを受けている様子は、教室の女の子たちをこの上なく愉快な気分にさせていた。
(これが……、本当に、私への『罰』なの?)
だとすればもう、限界だ。
自分にそんな権利は無いとわかっているけれど、誰かに助けを乞いたかった。
本当に、まだ、足りていないのだろうか。彩女が受けてしまったのと同じ「痛み」に、至っていないのだろうか。
(これは、償いなんかじゃなくて、ただの――)
その時だった。
「――おいっ!? 何してるっ!?」
突然教室のドアが開く。そこから現れた人物に、泉美は思わず息を飲む。
「更科クン来たーー!」
更科秀明のようやくの登場に、待ってましたと言わんばかりに芦屋が囃し立てた。芦屋の取り巻きたちも野次を飛ばし更科をからかう。しかし、彼はそんなものを気にした様子もなく、まっすぐ泉美のもとへと歩いていく。
「志野さん」
秀明は泉美の前に膝立ちになり、彼女に手を差し伸べた。それはまるで、騎士が囚われた姫を救い出す、おとぎ話の中のワンシーンのようだった。
「更科。あんたが好きなコイツ、男好きの性悪女だからね」
「……どっちが性悪だ?」
横槍を入れてきた怜奈を、秀明はいつもの飄々とした様子からは想像もつかないほどの剣幕で睨む。その眼差しのあまりの鋭さに、泉美ですらも恐懼したほどだ。
「ひどいなぁ、更科クン。男子の中で決めたじゃん。泉美ちゃんは抜けがけ禁止だって。なにチューまでしちゃってんの?」
「芦屋。 今そんな話はしてないでしょう」
彩女はむっとしながら芦屋を制するが、彼女が本当に気に入らないのはもちろん泉美だった。
ただ顔がいいというだけで男たちの話題になり、「抜けがけ禁止」なんて取り決めが作られる。そして何よりも、今、更科秀明が、泉美を庇うようにして彩女の前に立ちはだかっているのが、これ以上なく憎たらしかった。
「これで終わったと思わないで」
解放された泉美にそう言い放ち、彩女と怜奈は教室から出ていった。
◇ ◇ ◇
その日は、その後とくに大きな事件が起きるということもなく、放課後を迎えた。
「志野さん、一緒に帰ろう」
下校時刻になるとすぐ、秀明は泉美の腕を掴んで教室から引っ張り出した。
「本当にごめん!」
学校から少し離れたところにある公園のベンチに座るなり、秀明はものすごい勢いで頭を下げた。
「俺が志野さんを夏祭りに誘わなければ……ううん、桃井の気持ちにもっと早く気づいていれば。あいつらが、あんなにヤバい奴らだったなんて……」
秀明は顔を歪めた。彩女へ怜奈、芦屋への嫌悪感からだ。
「更科くんのせいじゃないよ。 私が悪いの。写真を撮ったときも、LINEをしたあの時も、罪悪感はちゃんと感じてたんだよ。それなのに自分を止められなかったから、恨まれて当然だよ」
「でも、ひどすぎるだろ。あんなの……! 志野さんはあの時ちゃんと、最後にするって言ってくれたのに」
「それでも隠れて会ったのは変わりないし、……キス……したし。やっぱり、私が全部悪い。更科くんも、私に関わったらだめだよ」
「強がらなくていいよ」
ちょっと笑みさえ浮かべて、気丈に振る舞ってみたけれど、秀明には全く通用しなかった。
「俺、ずっと志野さんのこと見てた。あんな素敵な絵が描けて、何事にも一生懸命で、素直で健気で。抜けがけ禁止って言われてるの破って、勇気出して近づいたんだよ」
「更科くん……」
「学校もさ、辛い日は休んじゃえ。何かされたらすぐに俺に吐き出して。遠慮せずに俺を頼ってほしい」
そこで、秀明はふぅっと一つ息をついた。
「それがさ……『彼氏』の役目、だよね」
泉美は、その言葉に不覚にもどきりとさせられてしまった。
「だ、だめだよ、私は……。それに、私と、……そ、その、付き合ったら、更科くんの評判も」
「俺の評判なんてどうでもいいよ」
秀明は泉美の手に触れた。
「守りたいんだ、泉美を」
「なっ……」
泉美は口をぱくぱくさせた。
さらりと呼び捨てにされて、手を握られ、熱っぽく「守りたい」なんてセリフを言われるだなんて。なんだかまるでドラマでも見ているみたいだ。
――もう抗えないな、と泉美は思った。
素直になってもいいだろうか。
――この手を握り返してもいいだろうか。
「私の家、父親がいなくて、母子家庭なの。お母さんにすっごく無理を言って春日井を受けたんだ。だからいつかまた、笑って学校に通えるようになりたい」
いつか、彩女と怜奈に、泉美の思いが伝わってほしい。それが無理なら、せめて、クラスに充満するあの敵意たちに、真正面から立ち向かいたい。
「……だから、ご協力、お願いします。……秀明くん」
ぺこりと頭を下げた泉美に、秀明はとても嬉しそうな表情をした。
◇ ◇ ◇
それからしばらく2人は、ベンチに座って取り留めもない会話をした。
「……そういえば、更……秀明くん、昨日学校休んでたけど、体調崩してたの?」
更科くん、と言いかけた泉美をふふふと笑いながら、秀明は照れたように頭を掻いた。
「いや……実は、……やっぱり、ショックだったみたいなんだよ、俺。めっちゃ勇気出したしさ」
「えっと……何か、あったの?」
きょとんとする泉美に、秀明は困ったように眉根を寄せる。
「……告白、だよ。……一応。未遂に終わったけど。……あんな事実を告げられて、……もう泉美に近づけないと思うと、仕方ないとは言え、けっこう、キツかった……みたい。学校休んじゃった」
泉美は思わず赤面してしまった。秀明が自分のことを好きなのだという事実を、今更ながらに実感する。
「だけど昨日の夜、鈴木たちから連絡が来たんだ。『志野さんがやばい』って。それで、昨日クラスであったこととか、全部電話で教えてもらった」
鈴木は、秀明がよくクラスで仲良くしている男子生徒だ。
「みんな芦屋みたいな奴じゃないよ。……少なくとも俺がよく一緒にいるメンツは。みんな、心の中では泉美の味方だから」
それを聞いて、泉美は思わず泣きそうになった。どこもかしこも泉美への敵意に満ちていて、まるで地獄だと思っていた教室が、少しだけ怖くなくなる。
(大丈夫だ。私……戦える)
ひとりじゃない。味方がいる。
そう思うだけで、学校に行く勇気がどんどん芽生えてくる。
「とはいえ、しばらく一緒に帰ろう」
秀明の思いがけない提案に、泉美は目を丸くした。
「……え、ひ、秀明くん、部活は」
「休むよ。当たり前だろ」
「そんなの駄目だよ! 私なんかより、部活に……」
秀明に抱きしめられたので、泉美は言葉を続けられなかった。
「『彼女』を危険な目に遭わせられない」
優しい声が降ってくる。
「素直に甘えてほしい、俺に」
髪を撫でられて、泉美はもう、何も言うことができなかった。