第4.5章 少女の傷 ③
キスは、哀しみを増すだけだった。
キスをしたら、泉美は秀明をもっと好きになってしまったからだ。
(――でも、もう終わり)
触れ合った唇は、この気持ちに蓋をするための合図でもあったから。
泉美は、大切な気持ちから目をそらす。
どんなに辛くても。
彩女や怜奈を裏切るくらいなら、あのキスが最後である方が何倍もましだ――
彩女にも、怜奈にも、すべてを話す決意を固めてきた。それによって、今の、泉美のまわりを取り巻く冷たい状況が打開されるのかはわからない。もしかしたら、彩女はもっと怒るかもしれない。
だけど、嘘をつき続けたくない。
◇ ◇ ◇
「泉美ちゃんキター」
「よく学校来れたね」
「いくら可愛いからって、ないわ」
教室に足を踏み入れた瞬間、泉美へ飛んできたのは、そんな言葉たちだった。
(…………な、なに……?)
クラスメイトたちが泉美を見ている。その視線のあまりの冷たさに、泉美ははじめ、それらが自分に向けられているとは気づかなかった。
戸惑いつつとりあえず席についてみたが、状況は変わらない。女の子たちは軽蔑するような言葉と視線を、男の子たちはにやにやとした意味深な笑みを泉美に向けている。
いつもの朝とは明らかに違うその状況に、泉美の心臓はどくどくと速まりだす。
――とても、不吉な予感がする。
(なに、これ……)
ふと、クラスメイトたちの視線を避けるために俯いていた泉美の視界が、陰った。顔を上げると、そこにいたのは彩女と怜奈だった。
「泉美、話があるんだけど」
腕を組んだ怜奈の低い声に、泉美はびくりと肩を揺らす。彩女は、泉美を見ているようで見ていないような、冷たく虚ろなまなざしをしている。久しぶりに話しかけてくれたけれど、仲直りをしたい、って内容ではどうやらなさそうだ。
「ちょうどよかった、私も話が……」
「更科と付き合った報告?」
(…………え?)
怜奈の言葉に、泉美は、耳を疑った。
「ボク、昨日、夏祭りに行ったんだよね。そしたら、ものすごいカップルに遭遇しちゃってさ」
話に割り込んできたのは芦屋だ。にやにやした笑みを浮かべながら、スマホを操作しつつ泉美へ近づいてくる。
「見てよ、これ」
芦屋が泉美の眼前に突き出したのは、昨夜の、秀明との密会の激写だった。
(うそ――――!?)
「キスもしちゃって、ラブラブだね。いつから付き合ってたの?」
「ち、ちがっ……! それは……!」
「最っ低!」
彩女が、反論しようと立ち上がった泉美の頬を思いっきりひっぱたく。
「私はまだ、泉美の味方してる部分もあったんだけどね。これはないわ」
組んでいた手を腰にやり、怜奈は笑う。それは愉快な気分からくる笑みではなくて、これ以上ない軽蔑を含んだ皮肉な笑いだった。
(ちがう! 私は、ただ――!)
うまく言葉が出てこない。心臓の鼓動が加速を続け、頭がこんがらがる。
いつの間にか泉美は、クラスメイトたちにぐるりと取り囲まれていた。助けを求めようと必死に見回しても、泉美への同情はどこにも見つからない。どの者もみな、軽蔑と好奇をその表情に浮かべている。
(更科くんは……)
秀明は遅刻癖があって、いつもギリギリに登校してくる。今日も例にもれず、まだ教室にいなかった。
(どうしよう。どうしよう、私……!)
そのまま、1限目の数学の授業に入った。
今朝の出来事で速まった鼓動は、授業に入っても収まるわけがない。震え続ける手でノートを取るも内容はさっぱり入ってこず、泉美の頭には、あの写真と、そしてみんなの敵意に満ちた視線だけが交互にフラッシュバックしていた。
あまりの出来事に、泉美は、事の重大さを理解しきれていなかった。ぶたれた頬が痛み、ただただ、彩女に謝らなくては、と思った。
(そうだ、謝ろう。それから、ぜんぶ話そう。元々、私は今日、そのつもりで来たんだから)
「……野、……おい、志野!」
泉美ははっと顔を上げた。数学の先生がしかめっつらで泉美を睨んでいる。
「おい、ぼーっとするな! 問5を前に解きにこい!」
「す、すみません」
慌てて立ち上がるが、問題の書いてある教科書が無いことに今更気づく。机の中を探ってみるがどこにも無い。
「あの、教科書、見せてもらってもいい?」
泉美は隣の女の子にそう頼んだが、彼女は反応を示さない。
「あの……」
「絵でも描いときゃいーじゃん」
後ろの方からそんな意地悪が聞こえると同時に、クスクスという冷たい笑い声。
(…………そんな!)
「どうした、教科書を忘れたのか!? さっきまでどういうつもりで授業を受けてたんだ!」
びりびりと鼓膜に響く先生の怒鳴り声に、泉美は肩をすぼめる。
「……すみません」
「それでも春日井の生徒か! 信じられんな……。もういい、座れ志野」
椅子に座りながら、泉美はすべてを悟っていた。
この厳格な数学の先生は、日付と出席番号で生徒を当てる。
教科書は、誰かに隠されたのだ。きっと今日、泉美が授業で当てられると予想されたうえで。
――泉美はそのとき、自分がしでかした罪の重さを自覚した。
一度は握ったシャーペンを、机に放るようにして転がす。ノートの上に突っ伏して、泉美はその授業の終わりまで顔を上げなかった。
◇ ◇ ◇
秀明が現れないまま、1限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。ものすごい勢いで教室を出ていこうとする彩女を、泉美もものすごい勢いで引き止める。
「彩女! 話を聞いて!」
「あんたの話なんか聞きたくない!」
泉美に掴まれた腕を振り払い、彩女は教室のドアに手をかける。当然、教室にいる他の人物たちは、2人の動向に注目していた。
「彩女!私、本当に酷いことした! 本当に……ごめん!」
泉美は、彩女の背中に必死に語りかける。しかし彩女は何も答えない。外野からは「謝って済むとでも思ってんの」という心ない野次が飛んでくる。
「彩女……」
「土下座して」
泉美は、自分の耳を一瞬疑う。
「え?」
「土下座よ。……あ、絵ばっかり描いてテストであんな点取るバカだから土下座の意味分からないわよね、ごめんね?」
外野からクスクスと笑いが起きる。それは、彩女が、泉美の成績を心の中で馬鹿にしていたことを暗に意味していた。
(…………これが、私への『罰』なんだ)
彩女が泉美に向ける表情は、かつて親友であった人物のそれとは到底思えない。だがそれは当然のことだ。大切な親友を裏切るも同然のことをしたのだから。その親友の優しさと信頼を得ることなんて、もう二度とできない。そんなに甘いものじゃない――泉美の「罪」は。
泉美は、震えながら膝をついた。
「……本当に、ごめんなさい」
両手をついて、か細い声で。
許しを乞うているのではない。自分の「罪」を認め、クラスメイトたちの前で土下座する、という行為自体が泉美への「罰」なのだ。
「なにが、『ごめんなさい』なの?」
けれど、彩女にとって、それは「罰」には至っていないようだった。
「何をして、誰に、『ごめんなさい』なの? ちゃんとわかって謝ってるの?」
彩女が要求しているのは、泉美への更なる羞恥と屈辱だ。しかし泉美は、自分がそれを受け入れるのは当然だと思った。
「……更科くんのことを好きになって、隠れて更科くんと会って……、…………キスをして……。彩女を裏切ってしまって、……本当に、ごめんなさい…………」
それを聞いたクラスメイトたちに広がる、冷たい笑い。泉美は震えながらひたすら床を見つめ続けた。こみ上げる羞恥を抑えるようなことはしない。彩女が受けた傷は、こんなものよりもっと深い。
「……じゃあさ、5万。5万円、用意してきてよ」
口を挟んできたのは怜奈だった。
怜奈も彩女も、泉美の家庭があまり裕福でないことをそれなりに理解しているはずだ。そして、誰もが高貴だと認める家柄出身の2人にとって、5万円など大した意味を持たないだろう。
つまり、怜奈の言っていることの意味は……
「『償い』。当然でしょ?」
泉美は唇を噛み締めた。
まだまだ、足りていない……「痛み」が。
まだ、彩女に与えてしまった「傷」に、釣り合っていない。
「わかった……」
絞り出すようにしてそう言うと、彩女と怜奈は教室から出ていった。クラスメイトたちの注目も、自然と泉美から逸れていく。
唇を噛み締めたまま立ち上がった泉美は、ふと芦屋と視線が合った……が、思わず身震いする。
――片方だけ口角を上げて、芦屋は不気味に微笑んでいた。
◇ ◇ ◇
「志野。ほら、これ。おめでとうな」
昼休みに入るとすぐ、美術の教師から呼び出され、職員室に向かった泉美。
何事かと思っていたが、絵画のコンクールで入賞した際の賞状を渡されただけだった。
こんな状況であっても……、いや、こんな状況であるからこそ、入賞した証である賞状を渡されたことは素直に嬉しかった。親友を裏切るという最低な行為を、少しだけ赦されたように錯覚する。
「ありがとうございます」
「……おい、なんか、顔色よくないけど、大丈夫か?」
心配そうに泉美の顔を覗き込んでくる先生に、泉美は力なく笑った。
「ちょっと体調が優れないだけです」
そのまま職員室を後にする。廊下を歩くが、何も考えられない。
ただひたすらに、自己嫌悪していた。
あのとき、秀明のキスを拒んでいたら、こんなことにはならなかっただろうか。
……いや、キスをしたとかしていないとかではなくて、隠れて秀明と会ったということ……秀明を好きだという気持ちを抑えられなかったことが、まず問題なのだ。
でも泉美は、キスを拒めなかった自分を責め続けていた。「これが最後」だなんて言い訳をして。「ふたりだけ」の甘い秘密に酔って、隠し通そうとした。
(最悪だ、私)
芦屋に見つかっていなければ……、なんて虫のいいことは考えない。泉美は自分の罪を背負い、償わなければならない。
食欲を全く感じず、泉美は昼食を摂らずに昼休みを終えた。しかし、5限目に出る――いや、教室に戻る気は起きず、下校時刻になるまで保健室で過ごした。




