第4.5章 少女の傷 ②
冷たい波は、泉美の知らず知らずのうちにクラス中に広がっていた。
「――そしたらさぁ、泉美、こう言ったわけよ。『ああでも言わないと、引いてくれないかなぁって思って』ってさ! 信じらんない! あの田中相手にだよ!?」
「うそ、田中くんに!? 田中くん、ファン多いよ!? 敵作りそう」
「泉美ちゃん、そういうこと言うんだ。大人しそうなのになぁ〜……。ちょっとイメージと違って、ショック」
「あたしは最初から、あの子絶対裏あるって思ってた!」
「可愛くて性格もいい子なんかいないでしょお」
「つーか、あの可愛さで性格もピュアっ子だったら、うちらの嫉妬のやり場が無いじゃんね」
「田中も、なんであんなのが良いかなぁ〜。ホント男子って顔だけしか見てないよね」
心労がたたり、午前中の体育の授業で倒れてしまった泉美。しばらく保健室で休み、昼休みの終わりごろ、教室へ戻ってきたのだが……。
教室のドアに手をかけたまま、泉美は硬直していた。
――中から聞こえる、女の子たちの衝撃的な会話に。
話の主導権を握っているのはどうやら怜奈らしい。クラスでもわりと目立つタイプの女の子たちの輪。泉美の味方になると言ってくれたユリちゃんも、どうやらその輪の中に入っているようだった。
(うそ……)
彩女との関係を守るために咄嗟についた嘘が、とんでもないことの引き金になってしまっていた。
(やだ……こんなの)
ドアにかけていた手を離し、泉美は保健室に向かって走る。
(私……みんなに、あんなこと、思われてたんだ)
まさか自分が、あんなふうに女の子たちの陰口の対象にされているだなんて。
怜奈が進んで話をしているというのも、ショックでしかなかった。
(どうしたらいいの? 私、どうしたら……)
うまく息ができない。
あの教室の中のどの女の子も、あんな本音を隠しているのかもしれないと思うと、泉美はとてつもない恐怖感に苛まれた。
教室に居場所がない。
泉美はいま、教室の女の子たちに、疑いようもなく疎まれている。
◇ ◇ ◇
(着付け……合ってるのかな)
自室の鏡、そしてネットの着付けサイトとにらめっこしながら、泉美はそわそわしていた。
紺色の生地に、白い花が描かれている浴衣。帯は赤紫の大人っぽいデザインだ。
中学生のとき、女友達と夏祭りに行くと言うと、それを聞いた透子が買ってきてくれたものだった。
欲しいとねだったわけではないのに、泉美によく似合うデザインのものを見つけて買ってきてくれて、本当に嬉しかった記憶がある。
(これを……『好きな人』の前で着る日が来るなんて)
更科秀明を「好きな人」だと認めていいのは、今日が最初で最後。
だから……こうやって、泉美にとって特別な「浴衣」を着ることも許してほしい。
髪の毛は、浴衣に合わせてまとめ髪。セミロングの黒髪を三つ編みにし、後ろ頭の下の方でまとめる。
(そろそろ、行かなくちゃ)
時計を見た泉美は少し焦る。身支度に時間をかけすぎてしまった。バスに乗らないといけないので、余裕を持って家を出なくては。
慌てて玄関へ向かうと、ふとドアが開いて、司が姿を現した。
「あ、おかえり。どこ行ってたの?」
「図書館で勉強してた」
受験生の司は、休日は図書館に通っている。
公立の県内トップ校を目指していて、併願する私立校はもちろん春日井学園だ。
司は、数々の模試で優秀すぎる成績を残しているが、塾には通っていない。独学でどうしてそこまで賢いんだ、と言う人もいるかもしれないけれど、本当に賢い人って案外こんなかんじなんじゃないかと泉美は思う。
「お疲れさま。はかどった?」
「うん。あそこは静かでいいよ。ところで泉美……」
「ん?」
「お祭りでも行くの?」
弟にそう問われて、泉美は急に気恥ずかしさがこみ上げてきた。
(『誰と行くの?』って訊かれたらどうしよう……)
「うん、見ての通り」
「へぇ……」
司は物珍しいものを見る目で泉美をまじまじと見つめた。
「どこか変かな……?」
「え? いや……ぜんぜん」
司があまりにもしげしげと泉美を見るので、泉美は照れくささに少し顔を赤くしてしまう。
「化粧してる?」
「あ、う、うん。ちょっとだけ」
泉美が誰と夏祭りに行くのか。口にはしないだけで、聡い司にはもうばれているのかな、と泉美は思った。だからこそ、弟との間に漂う不思議な沈黙が、泉美にとっては耐え難いくらいに恥ずかしい。
「お腹空いたでしょ。ご飯、作っておいたから。食べてね」
「うん、ありがとう。いってらっしゃい」
バスの到着が迫っている。
アパートを出て、泉美は小走りでバス停に向かった。
◇ ◇ ◇
見慣れない風景を走る電車。
そして、あまり降りたことのない駅で、降りる。
何を隠そう、ここは更科秀明の住んでいるところ。
秀明はいつもこの駅から学校に通っているのだと思うと、泉美はなんだかここがとても貴重な場所のように感じた。
秀明に指定された待ち合わせ場所に向かう。秀明はまだ来ていない。毎朝のように遅刻している彼らしくて、泉美はクスッと笑った。
浴衣姿の人がちらほらいるところを見ると、やはり今日ここで夏祭りが行われるのは間違いないらしい。だけど、お祭り自体の規模はそう大きくないようだった。
(そのほうが、いいよね。学校の人もあんまり来てないだろうし……)
泉美はこの休日までに一度、学校を休んだ。高校を欠席したのはそれが初めてだった。
教室にいるだけで息苦しくなるのだ。
陰では怜奈に同調してあんなことを言っていたユリちゃんが、「お弁当を一緒に食べよう」と泉美を誘ってくる。「何かあったらすぐに相談して」なんて、一切の裏も感じさせない笑顔で言うのだ。
――怖かった。
これなら、面と向かって敵意を突き付けられるほうがましだ、と思った。
だから。
けじめをつけようと思った。
この夏祭りが、最後だ。
「君、1人?」
うつむいていた視界に突如現れた、男物の靴。それも2人分。
はっと顔を上げると、見知らぬ男2人組が、泉美の全身を舐めまわすように見ながら立っていた。
「やっべぇ、超可愛いじゃん」
「お祭り行くの? よかったら一緒に行こうよ」
そんなことを言い、にやにや笑いながら距離を詰めてくる男たち。2人とも大学生くらいで、茶や金に染髪してピアスを開けて、見るからに遊んでいそうな風貌だった。
「……すみません、人と待ち合わせしてるので」
男たちから視線を逸らしながら、泉美はそっけなく言った。こういった男に絡まれたときは「できるだけそっけなく突き放す」よう、透子から常々教えられている。
「待ち合わせって? 女の子?」
「女の子なら一緒に遊ぼうよ〜」
けれど男たちに臆する様子はなかった。声をかけた泉美が想像以上の可愛さで、泉美が根負けするまで粘るつもりなのだ。
(待ち合わせって言ってるのに……)
「あの……、『男の子』と、待ち合わせてるんです」
苛立った泉美は最終手段を持ち出した。「彼氏を待ってる」と匂わせるのだ。透子によると、この技の効力は絶大らしい。
泉美の言葉を聞いて、たしかに男たちはひるんだように顔を曇らせた。
しかし……。
「ホントに男の子? オレら撒くためにウソついてねぇ?」
「ちょっと遊ぶだけだから、そんな牽制しなくてもいいじゃん。行こうよ」
そう言って男の一人が泉美の腕を掴む。
「離してください」
泉美は、こうやって男の人に声をかけられるのは初めてではないが、ここまでしつこいのは初めてだった。どうあっても泉美を連れていこうとする男たちに、我慢の限界が来た泉美は、思わず声を荒らげる。
「離してって言ってるでしょ!?」
「志野さん!?」
泉美の声に被さるようにして、背後から、泉美の待ち焦がれていた人物の声がした。
「更科くん!」
秀明は、目の前の状況をよく呑み込めていないようだった。
「更科くん、助けて……」
けれど、泉美の腕を掴む男たちと、彼女の震える声に、彼は咄嗟に目の前で起きていることを悟った。
「すいません、こいつ、俺の連れなんで」
「あ?」
「志野さん、行こう」
そう言って秀明は、泉美の腕を引いて走り出した。
◇ ◇ ◇
お祭りが行われている神社が見えてきて、秀明と泉美は減速した。
「――っ、久々に走ったかも」
インドア派だから、と自嘲しながら泉美は笑う。全速力ではないとはいえ、浴衣で、陸上部員の秀明についていくのはかなりしんどい。どさくさに紛れて秀明と手を繋いでしまったことも含めて、汗をかいた泉美の顔はほんのりと上気していた。
「大丈夫だった? この辺、ああいうやんちゃな人多いから」
呼吸ひとつ乱していない秀明が、泉美を労る。
「ちょっと怖かったけど、もう大丈夫。走ってスッキリしたし」
「俺ほんとバカだなー。浴衣姿の志野さんを一人にさせとくなんて。遅れちゃってほんとゴメン」
泉美は必死でかぶりを振った。
「謝らないで。助けてくれて、本当に嬉しかった」
「いえいえ」
秀明は屈託なく笑う。
この笑顔をこんな間近で見られるのは今日が最後だと思うと、泉美はどうしようもない気持ちになる。
(どうしよう。なんだか――泣きたい)
「何か食べる?」
「う、うん」
「俺、焼きそば」
「りんごあめ……食べたい」
泉美は、歩き出した秀明についていく。
少し後ろから見るその広い背中も、さっき泉美を守ってくれた腕も、高い背も。すごく頼もしくて、……すごく――。
「志野さん、この前学校休んでたよね。珍しい」
りんご飴の屋台の前に出来ている列に並びながら、秀明がふとそう言った。
「あ、えっと……うん。ちょっと体調悪くて……」
完全に不意をつかれたものだから、泉美は動揺してぎこちなく言葉を返す。
「桃井さんと、小椋さんと。……何か、あった?」
(…………あっ)
遠慮がちな秀明の言葉に、泉美ははっとした。秀明だって気付かないはずがないのだ。男の子は女の子のそういう部分に疎いとはいえ、あれだけ仲の良かった彩女と怜奈と突然あんな風になれば、誰だって不思議に思うだろう。
「あ…………えっと」
「お次お待ちのお客様ー!」
泉美の震える声は、屋台の店員の声によって遮られた。
「あ、順番来たよ」
秀明の意識がそちらへ移り、泉美は心のどこかでほっとした。
(私にこの時間を惜しむ権利なんて無いのに……)
秀明が手渡してくれたりんご飴を、なかなか食べる気になれない。この一夜が永遠になればいいのにと思ってしまう浅はかな自分がいる。
(どうしよう。どうしよう私――)
秀明と並んで焼きそばの屋台に並ぶのが心地よすぎて、決心がどんどん鈍っている。
(でも――――!)
「志野さん、どうしたの?」
秀明にそう言われ、泉美ははっと顔を上げた。
「……えっ?」
「なんか考えこんでたから」
「えっと……そうかな」
ごまかすようにぎこちなく笑う泉美に、秀明は眉根を寄せて困ったように微笑む。
「人が多くてちょっと疲れたね。川の方に行ってみる?」
秀明は、少し離れた場所にある人気の少ない河川敷を指差した。
「うん……。そうしようかな」
◇ ◇ ◇
河川敷にはぽつぽつと人がいた。2人だけの世界に入ってしまっているようなカップルもいれば、微笑ましい家族連れもいる。泉美と秀明は適当な場所で立ち止まり、腰を下ろした。
しばらく2人の間に沈黙が降りる。
こうやって肩を並べている様子は、傍から見ると恋人同士に見えるのだろうか、なんて、泉美は沈黙に紛れてぼんやり考える。
お互いが話の切り出し方に困っているのを、お互いが感じていた。秀明は何度も頭を掻いたりして落ち着きがない。
泉美はただ、夜の川の、ゆるやかな流れをぼうっと見つめ続けた。
「志野さん」
秀明がようやく言葉を発したのは、冷たい夜風が吹いた時だった。
泉美は、一瞬にして空気が変わったのを感じた。それまで2人のあいだに漂っていた、おだやかでゆっくりとした雰囲気は、まるで風によってすべて流されてしまったかのようだ。
秀明はぎこちなく泉美の方を向く。
「俺、志野さんのこと……」
張り詰めた空気に負けないように、ゆっくりと、たどたどしく言葉を紡ぐ秀明。
「更科くん」
けれど彼は、泉美の強い瞳に、ふと口をつぐんだ。
拒否のようなものすら感じられるくらいの、泉美の強い声音に、秀明は泣きそうな表情をする。
泉美はそんな秀明を見て、とても申し訳ない気持ちになってくる。
彼が何を言おうとしているのか。
泉美にも、分からないはずがなかった。
受け入れたい。
秀明の気持ちを受け入れてしまいたい。そうすれば、泉美は大好きな人と結ばれ、恋人同士になれる。
(だって……更科くん)
こんなに、まっすぐな瞳なのに。
今日会ったときからずっと、そわそわした雰囲気を見せていて。いつ言おうか、どこで言おうか、ってちょっと焦っていて。
それでも泉美は、秀明の決心を決して受け入れられない。秀明がずっと、ずっと用意していたであろう言葉を、最後まで言わせてあげられない。
「志野……さん?」
気づけば、泉美は泣いてしまっていた。
(私に泣く権利なんてない……)
そう思うけれど、涙は目の奥から溢れて止まらない。
「志野さ……」
「更科くんは、気づいてるよね? 彩女が、更科くんのこと、好きだって……」
「……え…………?」
「まさか、気づいてない?」
秀明のきょとんとした顔に、泉美は愕然とした。
「確かに、遊びに行こうって誘われたりLINEしたりもしてたけど、桃井さん、わりとフランクだから、誰とでもあんなかんじなのかなって。ほら、芦屋とかとも仲いいじゃん」
「そうじゃないの。そうじゃないの更科くん……。彩女は、更科くんのことが本当に」
「志野さん、でも、俺の気持ちは……」
「言わないで!」
泉美の剣幕に、秀明は反射的に口をつぐむ。
泉美は、大粒の涙を零しながら、唇を噛み締めた。
その先に続く言葉は、泉美だって聞きたくてたまらないのだ。そしてできることならば、自分も同じ気持ちなのだと伝えてしまいたい。
「……お願い、わかって」
絞り出すようにそう言った泉美に、秀明は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局黙り込んだ。
少し離れたところにいる小さな子供が、川に足を浸して歓声をあげている。すぐそばで、その子の両親が、我が子に優しい眼差しを向けている。
あたたかくて、幸せに満ちたその光景は、いまの泉美たちにとってはあまりにも眩しすぎるものだった。
「私、これが最後のつもりで、今日ここにきたの」
涙が乾く暇もないまま、ついに泉美は告げた。
この期に及んで、まだ、心が「言いたくない」と何度も叫んでいる。
「……え?」
「わからない? 私、これ以上更科くんと会ったりしたら……、彩女を裏切ることになる」
「じゃあ、俺から桃井さんに説明するから」
「そういうことじゃない!」
泉美は少し、苛立ちすら感じていた。
――なぜ、「男の子」たちは分からないのだろうか。
――なぜ、「女の子」たちは――――……
「更科くんには、たぶんわからない。女の子っていうのは、そんなことで丸くおさまるものじゃない。……私がいま、彩女たちとケンカになってるのも……」
「…………そんな」
「……悲しいけど、そうなの。私は、彩女を裏切れない」
涙をぐいと拭った泉美は、夜空を見上げた。
「彩女も怜奈も――大好きだから」
ついに全て明かしてしまった。零れそうになる涙を必死に堪える。
ここまでくれば後悔も未練もないと思っていた。しかし心のどこかで、言わなければよかったと思ってしまう。自分は想像以上に重症なのかもしれない、なんて泉美は皮肉に笑う。
秀明の顔が見れない。こんなことをいきなり告げられてどう思っただろう。
最低だなと詰られても、軽蔑されても、泉美はそれでよかった。
しかし……
「ごめん」
泉美を向いた秀明は、労るように泉美の頬に触れた。
「え……」
「俺のせいで傷つけた」
そのまま彼は、その親指で、泉美の涙の跡をそっと拭う。
「俺も、今日が最後ってことにする。だからもう、泣かないで」
あまりに優しい声に、指に、瞳に、泉美はさらに涙ぐんでしまう。
(どうしてこんなに優しいんだろう)
この人を好きになってよかった。
……まだ、好きでいたい。
そんな気持ちがぐるぐる渦巻いて、胸の奥につっかえて、どうしようもなくなった涙はついに泉美の頬を流れ落ちていく。
「今日が最後。最後だから……」
そう言って秀明は、自分の額を、泉美のそれにそっとくっつけた。
「……最後に、キス、していい?」
……抗えるわけがなかった。
あまりにも、あまりにも優しい誘惑に、泉美は考えるより先にこくりと頷いた。
そんな泉美に、秀明はふっと微笑む。間近で見た彼の笑顔は、やっぱり誰よりも魅力的で。
けれどその笑顔に少し、悲しみのようなものを見つけた――瞬間、まつげがぶつかりかけて、泉美は思わず瞳を閉じる。
(あぁ、私は――最低だ)
最後なんていや。
写真の笑顔。
ミルクティーを渡してくれた手。
泉美を守ってくれた高い背に、広い背中。
――やさしい、口づけ。
幸福なはずなのに、あまりに苦しくて。
泉美はまた、涙を零した。




