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第4.5章 少女の傷 ①

 教室に足を踏み入れると、彩女と怜奈が駆け寄るようにして泉美のところへやって来る。


「おはよー!」

「おはよう、泉美」


 いつも通りの朝。

 自分の席に向かいながら、泉美は2人とたわいもない話をする。


「まだ文化祭気分が抜けてないわ」

「私も〜。いきなり1限目から数学とか勘弁してほしいよね」


 そんなこと言いつつ2人ともびっくりするほど頭がいいのだから、泉美はちょっぴり口をとがらせる。


 3人はそのまましばらく談笑を続けていたが、ふと誰かの声にそれを遮られた。


「志野、ちょっといいか?」


 名前を呼ばれた泉美は教室のドアの方を見る。そこにいたのは、美術の先生だった。


(次のコンテストについての話かな? )


 手招きされるままに、泉美は先生のところに駆け寄った。


「何話してたの〜?」


 教室に戻ってくるとすぐに、怜奈が泉美に問いかけてきた。


「あ……なんかね、前のコンテストに出品した作品を、審査員の画家の先生がかなり気に入ってくれたみたいで……。その人、芸大の教授もしてるみたいで、よかったら大学の講義を見学しにこないかって……」

「へぇ〜、すごいじゃん!」


 はにかむように、泉美はえへへと笑った。


(嬉しい……!)


 週に一度、美術の先生に課題を与えてもらい、指導してもらうのを繰り返しているうちに、泉美は技量も表現力もどんどん成長させていた。

 それに、教授は、県内にある国立の芸大――つまり、泉美の志望校――の人物なのだ。

 今回の誘いに、自分は夢に近づけているのだと勇気づけられて、泉美はかなり舞い上がっていた。


「芸大に行きたいって泉美が最初に言い出したときはどう説得しようかと思ったけど、なんか今は純粋に応援しようって気分になってるよ」


 嬉しそうな顔をする泉美を見て、怜奈はやれやれといったふうに泉美の頭をぽんぽんとした。


「ありがとう! 怜奈も、ぜったいお医者さんになってね!」

「はいはい」


 医者を志す怜奈は、国立大の医学部を志望している。泉美には想像もつかないほどの勉強量が必要なのだろう。けれど泉美は、怜奈ならきっとその夢を叶えられると確信していた。


 しばらく盛り上がっていた怜奈と泉美。

 ――そこに水を差したのは、彩女だった。


「……絵だけで、食べていけるのかしらね?」


 独り言のようにそう呟いた彩女に、怜奈も泉美も会話を止める。


「……彩女?」


 目を合わせようとしない彩女を訝しんで、泉美が彼女の名を呼ぶ。けれど彩女は目をそらしたまま、低い調子で言葉を続けた。


「泉美なら、『美人画家』とかいって最初はもてはやされるかもしれないけど、きっとそれって一過性のものよ。ブームが去っても、食べていくだけの仕事をもらえる人間なんて、一握りなんじゃない?」


 彩女の言うことは正論だった。

 この学校では、「文系に進む」ことすら下に見られる風潮がある。文系よりも理系の方が手に職をつけやすい、とかそういうことらしい。そんな中で芸大に進学したいと主張する泉美は、かなりの向こう見ず。

 ……だけど、諦めきれない夢だから。泉美にとってどうしても叶えたい夢だから、険しい道だとしても突き進もうとしていた。彩女も、きっとそれを理解して、応援してくれていると思っていたのに……。


「……彩女、何か怒ってる……?」


 泉美がおそるおそる問いかけても、彩女の返事は無かった。


(もしかして、機嫌、悪いのかな)


 それからは3人で普通に過ごしていたけれど、泉美は、なんとなく彩女の目の奥が笑っていないような気がしてならなかった。


◇ ◇ ◇


 放課後を迎え、3人は一緒に下校する。

校門にさしかかろうとしたその時、泉美は、後ろから誰かに肩を叩かれた。


「志野さん」


(えっと……、誰だろう)


 他クラスの野球部の人らしい。ユニホームを着ているところを見ると、これから部活なのだろうか?

 野球部やサッカー部などの男子生徒は派手で騒がしくて、泉美はなんとなく苦手としている。


 身構える泉美に、その男子生徒は、照れと緊張の混じった強ばった表情を向けた。


「あのさ。オレ、D組の田中っていうんだけど、ずっと志野さんのこと気になってて……。良かったら、付き合ってくれない?」


(……えぇっ!?)


 泉美も怜奈も彩女も、ぽかーんと口を開けていた。


「え、えっと、あの……!?」

「気持ち悪いよね、ろくに話したこともないのに……。でもさ、少しでも可能性があるなら、付き合ってくれないかな。ぜったい、好きにさせてみせるから」

「……えっと…………!?」


 驚きのあまり目も口もまんまるにして、泉美は面食らっていた。


(どっ、どうしたらいいの……!?)


 泉美は咄嗟に、怜奈の方を向いた。すると彼女は、何度もこくこくと頷くジェスチャーをしてみせる。


(お、『OKしろ』ってこと、かな……!?)


 彩女の方を向いた。

 ……けれど彩女は、泉美を見ようとはしなかった。


(彩女……?)


「志野さん。返事、聞かせてほしい」


 はっと我に返ると、田中君の真剣な瞳と目が合う。あまりにも突然だったけれど、真摯で、そして熱っぽい告白をされたことは素直に嬉しかった。けれど……。


(私には……)


 泉美は、苦しげに目を細めた。


「あんまり、あなたのこと知らないから……」

「じゃあ、今度の日曜日、どこか遊びに行かない? 少しでもオレに可能性感じてくれたら、付き合ってほしい」


 泉美の遠回しな拒否を感じたのか、あくまで食い下がる田中君。強気な彼の発言に、怜奈が「おおっ!」と歓声を上げた。


(どうしよう、私……)


 じっと泉美を見つめる田中君。その切ない彼の表情に、泉美の良心は思わず呵責を起こしそうになる。


 ――だけど――。


「志野さ……」

「ごめんなさい。好きな人がいるの」


(――――えっ!?)


 考えるより先に出た言葉だったから、泉美は自分で自分に驚いた。そばにいる怜奈も彩女も、さっきよりももっと口をあんぐり開けている。


(私、今、なんて――――!?)


 気まずすぎる沈黙がしばらく降りた。それがあまりにも田中君に申し訳なくて、なんとかしなければと思うけれど、泉美の頭は混乱していてた。


「そっか、そうだったんだ……。……ごめんね、突然」


 驚いた表情のあと、田中君は絞り出すようにそう言った。


「う、ううん。私の方こそ、ごめんなさい」


(――どうして。……私、どうして……)


「えっ、ちょっ、ちょ、泉美、好きな人いたの!?」


 田中君が踵を返して去っていくのを見ながら、怜奈は飛びつくようにして泉美に問いかけた。


(私、無意識に……)


 怜奈に肩を掴まれて揺らされるようにしながら、泉美は自分に呆然とする。「好きな人」――泉美の口から出たその言葉が指す相手は、「彼」しかいない――。


(ちがう! 彼は、彩女の……!)


 ここで怜奈の言葉を肯定してしまえば、きっと「好きな人」が誰なのか追求されてしまう。それだけは避けねばと思い、泉美は引きつった顔で嘘をついた。


「う、ううん! 違うの……。ああでも言わないと、引いてくれないかなって思って……」


 苦い笑みを浮かべて、困ったような表情で。

 友達を騙すのは心苦しいけど、これは必要な「嘘」だ。――そう、思ったけれど。


 ……どうやらむしろ、彩女の気分を害させてしまったようだった。


「……それって失礼じゃない? せっかく勇気を出して想いを告げてくれてる相手に、それはないでしょう。今まで、さぞかし男の子をふってきてるんでしょうね」


 彩女は、無表情で泉美にそう言い放った。そして、苛立ったような足取りでさっさと行ってしまう。


(そんな……!)


 確かに泉美の「嘘」は、上から目線で嫌なふうに取られてしまうかもしれないけれど……。それを彩女が、こんなにも冷たく、まるで嫌味のようなことを言って諭してくるなんて。


(なんで、そんな言い方……)


「彩女!」


 怜奈も、彩女のトゲのある言い方に驚きを隠せない様子で、慌てて彼女を追った。


(彩女……)


 「嘘」をついていること。

 「嘘」なのに彩女を怒らせてしまったこと。


 ぐるぐると負の感情が頭の中で渦巻いて、泉美は、泣きそうになるのを堪えながら帰路についた。


◇ ◇ ◇


 その日以来、だった。

 彩女も怜奈も、目に見えてはっきりと泉美を無視しだした。


 朝、教室のドアを開けても、2人が駆け寄ってくることもなくなった。

 話しかけても浮かない返事ばかり。移動教室の時も置き去りにされてしまう。


 泉美はすぐに、自分たちが「ケンカ中」であることを悟った。


 何かに感づいたのか、他のグループの女の子たちが泉美を輪の中に入れてくれて、「ひとりぼっち」は避けられた。

 けれど、泉美の心は、まったく穏やかではなかった。


「……それにしても、珍しいね。泉美ちゃんのとこがケンカだなんて」


 教室で、他グループにまざって、輪になってお弁当を食べていたとき。

 そのグループのリーダーとも呼べる、いつも元気な「ユリちゃん」にそう問いかけられた。


 もともと4人グループだったその子たちは、突然の泉美の加入を快く受け入れてくれていた。


「いつも3人一緒で、ケンカとか無縁そうなのに」


 そう言ったのは、泉美の隣に座る「ミユちゃん」。他のメンバーも、ミユちゃんの意見にうんうんと頷いている。


「そう……かな」


 彩女とも、怜奈とも、すごく仲が良かった。……仲が良いと、思っていた。


 いつか、元に戻れるのだろうか。

 彩女も怜奈も、どこか別の場所へお弁当を食べに行っているのか、教室にはいない。

 それは、2人に泉美の存在を無視されているという紛れもない証拠でもある。


「けっこう、ガチな方向で揉めてる?」

「コラ、無神経だよ」


 落ち込む泉美を見てユリちゃんがそんなことを言ったのを、ミユちゃんが慌てて制した。


(……そうだよね。私たち、はたから見ても『揉めてる』んだよね……)


「ぜんぶ、私が悪いの……」

「泉美ちゃん…………」


 どんより落ち込む泉美に、ユリちゃんは、我慢できない! という様子で抱きついた。


「あ〜〜、可愛すぎ! ほんっと、味方になるからね! いつでも頼って!」

「ありがとう……」


 こじらせてしまった元凶は、自分なのだから。自分が誠意を見せれば、きっといつか2人と元通りになれる。


 ユリちゃんの腕の中で、泉美はそう思った。


 けれどその考えは――とてつもなく、甘かった。


◇ ◇ ◇


「泉美、疲れてる?」


 聡い弟に問いかけられて、ぼーっとしていた泉美は、はっと我に返った。


 一日の終わり。リビングでくつろぎモードになっていた泉美と司は、ソファでなんとなくテレビを見ていた。


「そんな風に見える?」

「うん。なんか……覇気がない」

「覇気って……」


 笑おうとするけれど、できない。


「疲れてるね」


 鋭い弟は、泉美をどこまでも見透かしてしまう。心配をかけたくなくて、泉美は、ごまかすように司の髪をくしゃっとした。


「司くんはどーしてお姉ちゃんのことを呼び捨てにするんですかー」

「はぁ? 昔からじゃん、そんなの」

「どうして?」

「別に意味とかないよ。呼びやすいだけ」


 そっけない弟の髪をさらにわしゃわしゃしてやると、司はむっとしながら乱れた髪を整える。


「たまには『お姉ちゃん』って呼ばれたいなぁ」

「やだよ、気持ち悪い」


 憎まれ口を言う弟を叱りつけてやろうと、泉美はさらに口を開きかけたが、ふと震えたスマホに意識を奪われた。


「……電話? 珍しい……。お母さんかな?」


 LINEをするようになってからというもの、誰かと電話をすることはめったにない。机の上に置いてあったスマホの画面を見た瞬間、泉美は目を見開いた。


(なっ、なんでっ――――)


 慌てて自室に駆け込んで、「通話」のところをタップする。


『もしもし、志野さん?』

「さっ、更科くんっ?」

『はい、更科です』


 上ずった泉美の問いかけに、秀明は可笑しそうに笑いながら、いつもの調子で返事をした。


『ごめんね。突然、電話なんかして』

「ううん! ぜんぜん!」


(う、わ……ほんとに、更科くん、だ)


 耳元から聞こえるのは、まぎれもなく秀明の声。それは泉美の鼓動のピッチを上げるには充分すぎるものだ。


「どうしたの、急に?」

『あ。えっと……、志野さん』

「うん?」

『夏祭り、行かない?』


(え…………!)


『俺の地元で毎年9月にやってる、ちょっと遅めの夏祭り、なんだけど。よかったら、一緒にどう?』


(夏祭り…………!)


 心の中でそう呟いてみると、自然と胸が高鳴った。浴衣、花火、屋台――そんな単語たちが頭の中に浮かんでくる。そして、秀明の隣を歩いて夏祭りを楽しむ自分を想像すると……、泉美は赤面してしまった。


 けれど、浮かれる一方で、理性的な自分もきちんと存在していた。


 ――これは、彩女と怜奈との関係を回復する、いいきっかけになるのではないか? と、泉美の頭の中の、のぼせていない部分が問いかけてくる。


 彩女は、秀明のことが好きだ。

 泉美は、そんな彩女を裏切ってしまう感情を秀明に抱き、やましさのあまり嘘をついて――そしてその嘘が、泉美たち3人の友情を壊しかけている。


(……これで、最後にしよう。更科くんとの関係は、この夏祭りで終わりにしよう。そうしたら……彩女にも怜奈にも、すべて話そう)


 「すべて」話すとは、つまり、泉美が更科秀明に好意を持ってしまったことも含めている。

 そんなことを打ち明けてしまっては、彩女も怜奈も、もっと怒るかもしれない。だけど、「誠意を見せる」ってそういうことだと泉美は思う。包み隠さず話せば、きっといつか、分かってもらえるはずだから……。


「……うん、行きたいな」


 泉美は瞳を閉じて、穏やかにそう答えた。



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