第4章 邂逅 ~魔王の諜報員~ ⑦
痛みを分かち合えると思った佐藤ハルカがあんな人間で。茜は、言いようのない孤独感に、どうにかなってしまいそうだった。
茜にとって、佐藤も芦屋も「普通ではない」のだけれど……。それはもしかしたら、自分が「普通ではない」だけじゃないのか、なんてことも考えそうになって、茜はまた、瞳に涙を滲ませる。
(そんなことない。私はおかしくなんかない。おかしいのは、あいつらだ――)
心も身体も、ぼろぼろだった。
仕事でもミスを連発し、叱責される回数が増えていく。
(死んでしまいたい)
(もう、『殺す』か『死ぬ』しか、選択肢はないような気がする)
茜は間違いなく、限界のところにいた。
――そんな中、事件は起きた。
仕事が終わってから、茜は芦屋に呼び出される。帰りたいのはやまやまだが、茜は彼に逆らえない。
なぜか今日は、ホテルでも芦屋の家でもなく、学校近くの高架下に呼び出された。
目的の読めない芦屋の行動に、不安しか覚えない。恐怖と、憎悪と、諦観の混じった気持ちを抱きつつ駅を出て、河川敷の方へ向かう。
ほどなくしてたどり着いたそこには、芦屋と、彼が普段から仲良くしている、春日井の男子生徒たちが数名いた。
(……何なの、一体……?)
芦屋も男たちもまだ制服姿だ。こんな時間まで何をしていたんだろう。
もうすっかり夜がふけてしまっている。今夜は満月のはずだが、空を覆う多数の雲にその姿は隠されてしまっていた。そのせいで、電灯も何もない高架下は、暗い。――茜の恐怖心を煽るには、充分すぎるほどに。
「もっとこっち来なよ、茜ちゃん」
芦屋は、にっこりと笑っていた。
薄暗い中、彼のその表情は、茜の目にいつもにも増して不気味に映る。
男たちの視線にさらされつつ、従うしかない茜は、ゆっくり歩を進める。ある者はニヤニヤしながら茜を見、ある者は値踏みするような目で茜の全身を見る。それが気持ち悪くて、茜は全身が粟立つのを感じた。
やがて立ち止まった茜に、芦屋が、いたっていつも通りの声音で尋ねた。
「佐藤ハルカって知ってる?」
どきりとした。
茜の視線が右往左往する。
芦屋の言葉に対する、無言の肯定だった。
「一週間くらい前に茜ちゃんに突然話しかけられて、ボクのことを侮辱されて怒ったら、逆ギレした茜ちゃんに平手打ちされた、ってこないだ泣いてたよ」
(……あの女……!)
茜は唇を噛み締める。あんな女に話しかけるんじゃなかった、という後悔。そして、彼女とは絶対に相容れない、という深い哀しみが、茜の心をきりきりと痛ませる。
「ハルカちゃんは、本当にボクのことを好いてくれてるからねぇ」
うっとりするような目つきの芦屋が、これ以上なく憎かった。
(……なんで、こんな男なんかに……なんで!)
感情をあらわにして、その整った顔をを歪ませる茜。芦屋は満足げに、そんな茜を見下ろす。そして、取り巻きの男たちに、顎をくいっと上げて合図した。
「やってやれ」
「っ!?」
男たちが、茜の四肢をぐっと掴む。何が起きたのか分からないままに地面に転がされ、馬乗りになるようにして身動きを封じられる。
「っ――――!」
あまりの恐怖に、悲鳴は声にならなかった。
(やっ、やだっ、何っ――!?)
欲望の浮かんだいくつもの男たちの瞳に見下ろされ、茜はどうにか男たちの下から抜け出そうともがく。けれども、四肢を地面に押しつけてくる彼らの力がそれを許さない。
(っ!?)
男のうちの1人が、茜のシャツのボタンに手をかける。瞬時に、自分が何をされようとしているのか悟って、茜はありったけの声で叫ぼうとした。
「たすけ―――っ!」
けれど、それに気づいた芦屋がすぐにしゃがんで、茜の口を塞ぐ。
「大きな声を出したら……これ、分かるよね……?」
ポケットに手をやった彼が取り出したのは、――ナイフだった。
(そんな……!)
芦屋は微笑みながら、茜の頬にナイフを添わせる。こんなことを笑いながらやってのける芦屋に、茜は、今更ながら震えが止まらなくなる。
「ほら……暴れたら、顔切れるよ?」
芦屋は容赦なく茜から抵抗を奪う。それに従うしかない自分が愚かで情けなくて、茜は視界を滲ませる。
(殺したい! 殺したい殺したい!)
肌を露にされていくほどに、強く芽生えていく殺意。男たちの欲望をダイレクトに感じ、震える身体。――そして過ぎる、あの、写真の中の、志野泉美の姿――
(いやだ! ……私は『香取 茜』なのよ!? ……それなのに、それなのにこんな……!)
頬に押し当てられている刃物の冷たさも、身体を執拗に這う男たちの指先の感覚も、残酷なほどにリアルだ。「香取 茜」であるはずの自分が、こんな屈辱的な状況にあることをまざまざと知らされているような気がして、茜はきつく目を閉じた。
――この現実を放棄できたらどんなに楽だろう。
芦屋なんかと出会う前まで戻れたら、どんなに幸せだろう――
ズボンのベルトが外される音が聞こえて、茜ははっとして目を開けた。
(ダメ、それだけは…………!)
「ん――っ! んん――――っ!」
言葉にならない声を必死にあげる。けれどもそれは、助けを求めるにも、抵抗をするにも、悲しいくらいに音量が足りていない。
獣のような瞳をしながら、いよいよ男が欲望をあてがってくる――
(――誰かっ! 誰か助けて!)
――心の中でそう叫んだ瞬間、だった。
「何してるんですか!?」
突如聞こえたのは、――第三者の声。
息苦しさで朦朧とし、白くかすみはじめた茜の視界に、男物の靴が映った。
「やべぇっ!」
部外者の男が突然現れ、男たちは慌てふためいて去っていく。
「……邪魔すんなよ」
芦屋も、普段の言葉遣いからは想像もできないような棘のある言い方でぼそりと呟き、舌打ちしながら駆け去っていった。
解放された茜は、起き上がって、必死で乱れる息を整える。まだ恐怖で奥歯がガチガチ言っている。身体中に砂と汗が張り付いていた。けれどそんなことに気を回す余裕もないまま、早鐘のような鼓動を収めようと深い呼吸を繰り返す。
茜はそっと男を見上げる。補導のための見回りをしている警官かと思ったが、男の様子でそうではないと分かった。若者の着るような、ラフな服装――少なくとも、警官などではないだろう。
男は目深にキャップを被っているので、その表情がよく伺えない。茜にとって救世主とも呼べる男だが、屈辱的なシーンを見られたプライドが邪魔をして、そして何よりまだ恐怖感から抜け出せず、茜は黙ったまま酸素を吸い続けた。
男は何も言わず、茜の前に立ち尽くす。少し不気味だった。茜を助けてくれたことは間違いないのだが……。
ようやく息を整えた茜は、シャツの前をかき合せて立ち上がり、ぺこりと男に頭を下げたのち、歩き出した。
「ねぇ」
男に呼び止められたのは、2歩ほど歩いてからだった。
急に話しかけられたので、思わず体がびくっとなる。
「頬の傷、モデルさんには致命傷じゃない?」
はっとして頬に触れると、指先に血がついた。
(切れてたんだ)
それに気づくと、思い出したように痛みがやってきた。
振り向かないまま、茜は下唇を噛み締める。やっぱり、自分が「香取 茜」だとバレていた。プライドを傷つけられた気がして、茜は、振り向きざまに男を鋭い視線で睨んだ。
「あんたに関係ないでしょ」
「あるよ」
(こ、この声……!)
その時ようやく、男の声に聞き覚えがあると気づいた茜は、思わず胸を騒がせる。
(誰だっけ、この声…………!?)
答えが喉の奥にまで出かかっているような気がする。もどかしい気持ちと胸騒ぎで、再び速まりだす鼓動――
雲に隠れていた月が顔を出して、辺りが少しだけ明るくなる。
男がキャップを外した瞬間、茜は驚きすぎて声も出なかった。
(速水 司……!?)
「なんで…………」
速水 司は、無表情で、茜をまっすぐに見ていた。
(なんで、ここに…………?)
屈辱的な場面を見られたこととか、助けてもらったこととか、そんなことが一瞬で吹き飛ぶくらいの衝撃だった。
制服でない速水 司が、放課後に、ひとりでこんなところにいる理由。それがどうしても思い浮かばない。
「志野泉美って知ってる?」
(……え!?)
腑に落ちない顔をする茜に、速水はさらに衝撃的な質問を投げつけてくる。
(な、何が、どうなって――――)
速水が口にしたのは、予想もつかないような人物の名前。
身動きの取れない茜に、彼が何かを差し出してきた。
(……写真?)
わけのわからない展開に取り残されつつも、それを受け取る。
(…………えっ!?)
そこに写っているものは、茜の頭をさらに混乱させた。
40代くらいの綺麗な女性と、学ラン姿の速水 司。そして、春日井の制服を着た、志野泉美――。
アパートの階段の前で、笑顔を浮かべる3人。子どもたち2人は、茜が知っている志野泉美よりも、速水 司よりも、幼くて――しあわせそうな顔をしている。
「姉なんだ。父親は違うけどね」
速水の言葉に、茜は目を見開く。
そうだ。言われてみれば確かに、2人はどこか似ている……。
「――取り引きしない?」
ふと降ってきた速水の言葉に、茜はゆっくりと顔を上げた。
すぐに目が合う。月明かりを背景にした彼は、とても――美しい。その黒い瞳は、「妖艶」と形容しても許されるかもしれない。
惹き付けられる。
志野泉美の面影を持つ、速水 司。
目が、逸らせない。
(なんで、気づいてなかったんだろう)
この人はこんなにも、隠しきれない「陰」を持っているのに――
「芦屋雄大の情報を俺にくれたら、俺があいつを罰してあげるよ」
とても衝撃的なことを要求されているはずなのに。
そんな場合じゃないのに、満月を背に微笑む彼と、その声色に、茜の背筋はぞくりとさせられる。
茜は、身震いした。
そもそも、茜の芦屋に対する不信感を確かなものにしたのも、この男だった。今だって、こんなにタイミングよくこの場所に現れるだなんて……。
「俺がここにいる、たったひとつの理由。それは、復讐だ」
(――ま、魔王が、いる)
この男は、まさに「手段を選ばない」。
この男なら、必ず、やる。
――茜は、差し出された魔王の手を、取った。




