第4章 邂逅 ~魔王の諜報員~ ⑥
確かに、好きだった。好きだから付き合ったのだ。
だけど、いつの間にか。
芦屋に対する好意なんて、どこかに消え去って。代わりに茜の中に膨れていったものは――憎しみ、だった。
(悔しい。この私が、奴隷みたいにあんなやつの言うことを聞かされてるだなんて)
カフェで、芦屋の本性を知って。
それ以来、芦屋と茜の上下関係ははっきりした。――いや、上下関係というよりも、「主従関係」と言ったほうが正しいかもしれない。
芦屋は、気が向けば例のホテルや自分の家に茜を呼び出し、茜をいいように扱った。
(悔しい――)
あの日撮られたたった1枚が、もっともっと屈辱的な数十枚へと増えていく。写真が増えれば増えるほど、茜は芦屋の手中に収まっていく。
茜は、今では確信していた。
芦屋雄大は、最初からこれが目的で茜に近づいたのだ。
茜の中身なんて全く見ていない。芦屋にとってそんなものはどうでもいい。まやかしの優しさで可愛い女の子に取り入って、そして、手に入れた女の子を己の歪んだ性欲の捌け口にすることこそがあいつの快感なのだ。
特に、志野泉美に対してとった手段……。思い出すだけでも吐き気がする。志野泉美の気持ちを思うと、茜は胸が痛んで息が苦しくなる。
(私としたことが、あんな狂ったやつに騙されるだなんて)
茜は芦屋が憎かったが、少なからず自分自身を憎んでいるところもあった。
今のこの状況は、誰にも自分を理解してもらえない寂しさのあまり、必要以上に芦屋に心を許してしまったから起きたものだ。すべてあいつの思うつぼだったのだ。
芦屋と付き合いたてのころ、「幸せ」だなんてほざいていた自分を思い返すと、茜は気が狂いそうだった。
「悔しい……」
写真を消したい。だけど、茜は決して芦屋に逆らえない。
もう、どうしようもない。戻れない。
このまま一生、芦屋の「奴隷」なのだろうか?
あいつに逆らえないまま……、あいつの呪縛から逃れられないまま……、生きていくのだろうか?
茜はもはや、涙も出ないほどの絶望感を感じていた。
◇ ◇ ◇
「アカネの出てた番組、見た?」
「見た見た!」
「なんつーかさ……『頑張ってる感』すごかったよね」
「わかる! ちょっと見てて痛かったな」
「ムリしなくていいのに〜」
撮影の合間の休憩時間に、茜はトイレに来ていた。
個室から出ようとしたところで、同期のモデル2人のそんな会話が聞こえてきたので、茜はドアを開けようとしていた手を止めた。
(…………何なのよ)
茜の初めてのテレビ出演となるクイズ番組は、つい先日放送された。茜のもとには、それを視聴した人々からのたくさんのお祝いや感想の述べられたメール・LINEなどが送られてきていた。
面白かったよ、と言ってくれた人もいる。でも中には、厳しい意見の人もいた。
――それは全然気にしていない。むしろ、辛辣な意見の方が勉強になって有難い。そんなもので腹を立てるほど茜は子供ではない。
今、個室から出られないのは、茜の「悪口」に近いことを言っているモデルたちが、茜とそこそこ仲のいい2人だったからだ。
「ろくに通えてないくせに春日井学園ってだけでもてはやされてさー」
嫉妬されるのは慣れっこだ。アンチに叩かれるのも慣れっこ。
だけど茜は、裏切られた気分だった。それなりに仲良しだと思ってた子たちだからこそ、ショックなのだ。
モデル2人組は、当の本人が聞いているとはつゆ知らず、茜の陰口を続ける。
「顔だって可愛いけど、大した特徴ないじゃん? キャラだって、うるさいキャラ演じてるの丸わかりだし。なんでウケてんのか意味わかんない」
「ヤったんじゃね? プロデューサーと」
「ぎゃは、ヤッバーい!」
(…………っ!)
茜は、個室のドアを思いっきり開けた。
「文句があるなら直接言ってくれない!?」
陰口の標的が鬼の形相をして突然現れたので、モデル2人組はぎょっとして目を丸くしたまま固まった。動転して言葉も出ない様子の2人に、茜は容赦なく詰め寄る。
「あんたたち、そんなんだから売れないのよ!」
口にしてしまってすぐ、とんでもないことを言ったと後悔した。だけどもう遅い。茜の言葉に、口をあんぐり開けて硬直していた2人も、徐々に怒りの表情になっていった。
「なんだよ、調子のってんじゃねーよ!」
バツの悪さと憤りで、モデル達は顔をしかめつつそう吐き捨てる。そのまま身を翻してトイレから出ていった。
彼女達との関係はおそらく修復不可能だろう。
(ムカつく!)
茜は、目の前のゴミ箱を思いっきり蹴った。
(いつも芦屋にあんなことされて傷ついてるのに、あんな言われ方されるなんて……!)
もし、茜が芦屋の策略にまんまと嵌っていなければ。今日のようにショッキングな悪口を聞いたとしても、百歩譲ってこうやってキレることはしなかっただろう。聞かないふりをしたと思う。
(私の仕事まで邪魔しないで!)
脳内に浮かんできた芦屋の顔を消し去ろうと、茜はもがいた。
◇ ◇ ◇
芦屋は、茜の人間関係すら崩壊に導く。
いつの間にか茜は、芦屋に対して、ほとんど殺意に近い感情を抱いていた。激しい憎しみは茜の中でずっと燻り続け、もはや茜の全てになっていた。
この黒いものを、いつ吐き出そうか。どうやって吐き出そうか。
そんなことばかり考えて、茜は毎日を過ごしていた。
報いを受けさせてやりたい。だけど茜は、そのための手段を探す自由を奪われている。
(どうしたらいいの……)
そんな答えの出ない思考を持て余しながら、放課後を迎えた茜は、カバンに荷物を詰めていた。もうすぐ中間テストということもあり、教科書のたくさん入ったカバンは重い。
季節はもうそろそろ秋を迎えようとしている。文化祭も無事に終了し、今年の学校行事も残すところ球技大会のみとなった。
重いカバンを肩にかけて、茜は教室を出ようとした。が、ちょうど廊下を通りかかった人物を見て、ふいにあるアイデアを閃いた。
(そうだ、その手があった!)
「あなた、ちょっといい!?」
すぐに教室を飛び出して、その人物の肩を後ろから掴む。呼び止められた女子生徒は大げさなほどびくりと肩を震わせ、そろそろと茜を振り向いた。
「え……なんですか!?」
こちらを向いた彼女と目が合う。大きな瞳に、長いまつげ。やはり――可愛い。茜の次に可愛いと言われているだけある。
「佐藤ハルカさん、よね」
速水に写真を見せてもらう前から、この女子生徒の顔も名前も知っていた。
「そうですけど……」
佐藤ハルカは、おろおろして眉根を寄せた。突如「香取 茜」に呼び止められたことがあまりにも驚きだったのかもしれない。
「話があるんだけど」
友達から聞いていたが、やはり佐藤ハルカは大人しいタイプらしい。その表情は怯えたように固くなっている。芦屋はこんな控えめな子にまで手を出しているのかと思うと、茜はさらに正義感に駆り立てられた。
「場所を移しましょう」
◇ ◇ ◇
「あなた、芦屋雄大と付き合ってるでしょ?」
学園内では比較的人通りの少ない、倉庫やごみ捨て場のある区画にまで移動する。そこに着くやいなや、茜は佐藤に単刀直入に切り出した。
佐藤は、茜から目を逸らして黙り込む。茜の剣幕に怯えているようでもあり、なんとか彼女の緊張をほぐしてあげようと、茜は佐藤の肩を優しく掴んだ。
「隠さなくていい。でも、知っておいて。あいつは変態なの。顔のいい子に取り入ってヤリまくって、写真撮りたがる変態なの!」
佐藤が驚いたように顔を上げる。その、純真そうな瞳を守ってあげたい、と強く茜は思う。彼女に届くと信じて、茜は努めて真摯に言葉を紡ぐ。
「……あなたももう、身に覚えがあるんじゃない?」
佐藤は、ゆっくりと口を開いた。
「……あります」
「だったら、力になるから! 一緒に訴え……」
そう言いかけたところで、佐藤にぐっと腕を掴まれて、口をつぐんだ。
彼女の肩に置いていた掌を、離される。
(え……?)
それがなんだか彼女の「拒絶」に思えて、茜はこわばった顔で佐藤を見た。
――やけに冷たい、木枯らしが吹いた。
あまり清掃されていない場所だから、落ち葉や砂が、風に従順に舞い上がる。
肌寒さに思わず身震いしたところで、佐藤が、木枯らしよりもはるかに冷たい笑みを浮かべながら、話し始めた。
「すべて知っていたうえで、付き合いはじめました。雄大先輩が香取さんと関係があることも、初めから知ってました。彼から言い寄られて関係が始まって、すぐに体を要求されて、すぐに許しました」
……告げられた事実は、すぐには飲み込めなかった。
純真だと思っていた瞳が、途端に、底なしの闇に見えてくる。茜をじっと見てくるそれは、先ほどとは打って変わって、逸らされる様子はない。むしろ、怖いくらいにひたすらに、茜を見つめる。
「…………はぁ……?」
やっとのことであげた抗議の声は、抗議というには頼りなさすぎるものだった。
佐藤は怖いくらいの真顔だ。「虚ろ」とも形容できる眼差しが怖くて、それに耐えかねて、茜は震えそうになる指をぎゅっと握りしめる。
「どういう、意味……? あなたは、それでいいの? もっと、まともな恋愛をしようとは、思わないの……?」
「香取さん。すべての女が、あなたと同じ価値観なわけじゃないんです。あなたこそ、写真を撮られることを生業としているくせに、雄大先輩に撮られるのは許せないんですか?」
「なっ…………!?」
カッときた茜は、思わず佐藤の頬をぶっていた。
(こんな……こんなことがあっていいの?)
信じられない。
芦屋みたいな人間を……、受け入れる女がいること……。
可愛らしくて純朴そうな子が、こんなことを言うこと……。
ぶたれた佐藤は、赤く腫れる自分の頬を押さえながら、茜をキッと睨む。それはまぎれもなく、自分とは相容れない「敵」に与えられる視線で、茜は怒りを超えて哀しみを感じてしまう。
「……正義の味方気取りかもしれませんけど、迷惑なんですよ」
そう言い捨てて、荒っぽい足取りで、佐藤はその場を後にした。
ぼんやりとその背中を見送りながら、茜はスカートの裾を握りしめる。
(だめだ。……私、あの子とは、分かり合えない)
目を閉じる。
佐藤と芦屋が、「そういう」行為をしているシーンが頭に浮かんできそうになって、茜はその場にうずくまった。
(私には……助けてくれる人がいない)
茜は、何かの糸が切れたかのように、涙を流し続けた。




