第4章 邂逅 ~魔王の諜報員~ ⑤
翌日、ギリギリと言っていいほどの精神状態で、茜は収録を乗り切った。
(本当によく頑張った、私……)
帰りの電車の中で、茜は自分で自分をねぎらった。
頭の中に、速水に見せられた画像が焼き付いて離れない。そんな状態で緊張するテレビの仕事をやりきったのだ。疲れて当然だった。
収録は、成功したのかどうかは茜に判断しかねる。
終始、プロデューサーに期待されているとおりの明るい面白キャラを貫いたつもりだ。でも、昨日あんなことがあって気持ちが乗りきれていないのも事実で、傍から見れば、ムダに明るい「サムキャラ」に成り下がっているかもしれない。
(……もう、いいや。次、頑張ろ)
(……それよりも)
今最も優先するべきこと。それは、速水から告げられた芦屋の「噂」の真相をはっきりさせることだ。
茜は、プライベート用のスマホを取り出す。
電話をかけた。
――相手は、芦屋。
◇ ◇ ◇
今日は撮影はない。
学校終わり、茜は学校から少し離れたカフェで芦屋と待ち合わせ、そのまま2人でカフェ内で軽く食事をしていた。
茜は言葉少なで、いつもとは明らかにテンションが違う。芦屋はそれを敏感に察知したのか、しきりに茜に話しかけて場を盛り上げようとしていた。しかし、芦屋のそんな姿は、今の茜の目にはむしろ不審に映る。
アイスティーを一気に飲み干して、茜はストレートに切り出した。
「先輩って、私以外にも彼女いるの?」
なんの前置きもなく、けれどしっかりと芦屋を見据え、茜は彼の言葉を待つ。
対する芦屋は、あまりに突然の茜の問いにしばし驚いて硬直していたが、その後、右の眉がほんの少しだけピクリと動いた。彼の顔を凝視していた茜は、それを見逃さなかった。
「ボクに? ……いるわけないだろ。茜ちゃんに近づくのでさえ、ホントは精一杯だったんだよ」
(…………なんというか、先入観のせいもあるんだろうけど、何を言われても信じられない)
ふにゃりと困ったように笑う芦屋に、茜は切り札を出す。
「写真があるんだけど」
芦屋は、一切の動きを停止した。
強ばった顔の中心より少し上、人より大きめの二つの目だけが、スマホを取り出す茜の一挙一動を追うように動く。
スマホを操作して、速水に貰った例の画像を表示させて。茜はきゅっと唇を結びながら、かつて自分がそうされたように、芦屋の目の前にスマホを突き出した。
自身の不名誉な画像を認識して、芦屋は目を見開く。この反応は――「クロ」で間違いないだろう。
しばらく芦屋は固まったまま呆然と画面を見つめていた。ぴんと張り詰めた空気。
沈黙の中、ごくりと、芦屋が唾を嚥下した音がする。――刹那、芦屋は顔を歪めるようにして笑った。
「これ、茜ちゃんが撮った?」
突然低くなった芦屋の声に、茜はびくりとする。
「友達がくれた」
「ふーん……」
浮気の証拠写真を突きつけられて戸惑っていたはずの芦屋。だが、いつの間にやらその顔には余裕の笑みが浮かび、茜の鋭い視線をものともしない。
(なに、この、先輩の態度……? ……開き直り?)
不可解だった。
最近の芦屋はずっと分からないが、今が最も意味不明だ。
「茜ちゃんさぁ」
ただ、にやりと笑う芦屋は、不気味だった。
「志野泉美って知ってる?」
芦屋の問いに、今度は茜が硬直した。
(シノイズミ? 聞いたことある……あっ!)
「確か、美人で有名な、不登校の……」
「そうそう。なんで不登校になったか知ってる?」
「桃井先輩に目をつけられたとかなんとか……」
「そうだね。単刀直入に言えば、イジメだよ」
なぜ急に、芦屋はこんなことを話し出したのだろう。今は、茜が芦屋の浮気を問い詰めているはずなのに。もしかして話題を逸らされているのだろうか? それにしては、芦屋は落ち着いて悠々と話しているが……。
茜となんの接点もないはずの志野泉美の話を、芦屋はなおも続ける。
「でもね。泉美ちゃんは、最初からイジメられてたわけじゃない。友達間で揉めて、無視されてる程度だった」
「……先輩? 今その話、必要……?」
「泉美ちゃんがイジメられる決定的なきっかけを作ったのは、ボクだよ」
芦屋が調子を変えることなく言ったので、あやうく茜はその言葉を聞き流すところだった。
(……は!? この人、何言ってるの……!?)
――なんだか、胸が騒ぐ。
動くことのできない茜に、芦屋がお返しとばかりにスマホの画面を突き出してきた。
「……誰……?」
知らない男女が写った写真。おそらく高校生カップルに違いないが……。浴衣を着て、夏祭りにでも来ているのだろうか? 微笑ましい写真だが、茜ははっとした。
男の子も女の子も美形だが、とくに女の子……
「これが、志野泉美……?」
「そうだね。圧倒的な顔でしょ」
そう言って、芦屋は笑む。
茜はずっと、「志野泉美」が知りたくてたまらなかった。茜を遥かに超える美貌の持ち主。
そんな志野泉美に、やっと出会えたのに。
茜はもはや、そんなことはどうでもよくなっていた。
――目の前の芦屋の笑みが、怖くてたまらなかったからだ。
「泉美ちゃんにも非がある。桃井彩女の好きな相手とこっそりこんな所に来て。だからボクがこの写真を撮って、彩女に密告してあげたんだ。あの時の彩女の怒りようと言ったら……半端じゃなかったね」
(どうしてこんなことを、私に話すの)
「泉美ちゃんは、悪者にされた。泉美ちゃんは、裁かれるべき対象になった」
再びスマホを操作しつつ、芦屋は上機嫌で言う。当時のことを回想しているのだろうか。
茜は、そんな芦屋がたまらなく不気味に思えてくる。いつの間にか冷や汗をかいて、テーブルについていた拳を握りしめていた。
もう一度、芦屋は口元だけで笑う。その目が茜を向いた瞬間、彼女はまるで凶悪な獣に狙われたような気分になり、身動きができなくなった。
「ボクは、裁いてあげたよ。友達の好きな相手に手を出すような男好きだからね。ボクが相手でもいいんじゃないかと思ってね……。写真見る?」
(え……? は……写真……?)
芦屋の手元でいじられていたスマホが、茜を向く。
そこに映し出されていたのは、信じられない光景だった。
(な、に、これ……)
多数の男子生徒に押さえつけられ、涙を流す志野泉美――。
制服ははだけ肌は露になっているし、髪も乱れている。わいせつな画像だというのは誰が見ても分かる。この画像自体が普通ではないし、さらに有り得ないのは、芦屋がこの画像を持っているということ、そして、今この瞬間に、この画像を茜に見せている、ということだった。
気持ち悪い、と思った刹那、胃の中から何かがせり上がってくる感触がする。それをなんとか飲み込み、茜は泣き叫ぶようにして芦屋の手を掴んだ。
「先輩、これ、おかしいよ。おかしい!」
「最高だと思わない? 普段は大人しいのに、追い詰めるとだんだんキツい視線になって、震えながらも激しく抵抗する姿が快感だったね」
たくさんの感情が入り交じった頭が、強く痛んでくる。もはや言葉を発するという余裕すらなく、茜は唸りながら芦屋の腕に爪をたてた。
けれど、芦屋はぴくりとも動じない。
「いいところまでいったんだけど、結局最後までできなかった。さらしな……邪魔者が入ってね……」
(わ、私……)
(とんでもない奴と、付き合ってる)
そう気づいた瞬間、頬に涙が一筋伝った。
(どうして、どうして今まで気づかなかったの! どうしてここまで来てしまったの!? こいつがおかしいと知るヒントなんて、今までにいくつも落ちてたのに! それなのに、それなのに私……!)
「こんなこと……許されると思ってるの!?」
涙の溜まった瞳で、茜は芦屋を睨めつける。鋭い視線だが、相変わらず芦屋は臆する様子はなかった。
「ボクを訴える?」
その口元に広がる……忌々しい笑み。
「できる? 茜ちゃんに」
余裕を崩さない芦屋に試されるように問いかけられて、茜は今の今まで忘れていた、あることを思い出した。
――ホテルでの、あの一枚……。
あの一枚を撮られたあの瞬間に、茜はすでに芦屋の手中に入っていたのだ。あれがあるかぎり、茜は芦屋に逆らえない。茜は俯いて歯ぎしりをした。
(悔しい! 悔しい! ……悔しいっ……!)
「それとも、茜ちゃんもこうなりたい?」
芦屋はもう一度、志野泉美の、見るに忍びない画像を見せようとしてくる。
それが視界に入る前に、茜は首を横に振っていた。
「じゃあ、これからはボクの言う事を聞いてね?」
勝ち誇った顔をした芦屋は、すでに茜の恋人なんかではなくなっている。……もっと言うなら、茜にとって、同じ人間とは思えない不気味な「怪物」だった。
茜は俯いて、声もなく涙を流し続けた。




