第4章 邂逅 ~魔王の諜報員~ ②
放課後になるとすぐ、茜は教室を飛び出した。仕事のためだ。雑誌の今月号で茜の特集ページを組むらしく、今日のスケジュールはかなり詰まっている。
遅れることは許されない。靴を履き替え、できる限り早足で駅への道を歩いた。
(――あっ、電車!)
駅まであと数十メートル、というところで、電車もすぐ近くまでやって来ていることを確認した。この電車に乗り遅れると遅刻確定。茜は思わず走り出す……が。
(あっ!)
連日の撮影による疲れと睡眠不足で、重い身体は思うように動かず、前のめりによろけ、気づいた時には派手に転んでいた。
「いっ、いった……!」
茜が悲鳴を上げるのと同時に、ホームに電車が滑り込んでいく。
擦りむけた膝小僧から血が出ている。今日の撮影のテーマは「夏服」なのだから、膝は確実に露出する。茜は泣きたい気分になった。
(いや、それよりも、電車!)
まだ走れば間に合うかもしれない。茜はすぐに立ち上がって、もう一度走り出そうとしたが、右足に走る激痛がそれを阻止した。
(いたっ――!?)
思わず立ち止まってしまう。茜は自分の右足を見た。もう一度走り出そうと試みる。しかし、できない。
そうこうしているうちに、電車が発車した。茜の遅刻が確定したということになる。だがそれよりも、痛みで悲鳴をあげる足の方が茜にとっては恐怖だった。
「嘘でしょ……」
骨折なのか捻挫なのかわからないが、一歩一歩、歩くたびに足首のほうから腿へと鋭い痛みが走った。茜はその度に思わず顔をしかめる。
重心が移らないように右足をかばいながら歩くと、どうしても変な歩き方になってしまう。ゆっくりひょこひょこ歩き、膝小僧から血が流れている茜は、傍から見ると普通ではないだろう。実際、すれ違う人たちが茜にちらちらと視線を向けていた。
(さ、最悪……)
怪我をして遅刻をして。今日はついていない日だ。茜はなんとか改札の前までたどり着き、鞄から定期券を取り出そうとするが、ふと後ろから肩を掴まれた。
「足、大丈夫ですか!?」
男子生徒の声だ。
驚いて振り向くと、そこにいたのは、あまりにもあまりにも「有名人」の、あの速水 司だった。
◇ ◇ ◇
「『走れない』って……かなり捻ったのかな。骨折じゃないか診てもらった方がいいんじゃない?」
コンビニで買ってきたガーゼと消毒液で、速水は茜の膝の消毒をしてくれる。
「あとはこれ貼って……」
「あ、自分でやるから」
そう言って茜は、速水がレジ袋から取り出した、絆創膏の入った箱を奪った。駅のすぐそばのコンビニの裏だから人通りが少ないとはいえ、こんな初対面の人に足をまじまじと見られつつお世話されるだなんて、さすがの茜も耐えられなかった。それに、よりにもよって相手はあの速水 司だ。これまで会ったたくさんのメンズモデルを遥かに凌駕するルックスの持ち主に、茜は少なからず舞い上がってもいた。
(初対面の人間にこんなことするとか……この人、性格までできあがってるな)
茜が転び、不自然な歩き方をしているのを後ろから見ていた速水は、茜に声をかけたのだ。擦りむけた彼女の膝を見て速水はすぐに茜に肩を貸し、コンビニの裏で休ませた。茜はその間にマネージャーに遅刻の旨を伝え、速水は彼自身のお金で消毒用の用品を買ってきた。
「ごめんなさい、見ず知らずのあなたに迷惑かけちゃって」
「いいよそんなの。それより、足大事にしてね。ほんとに歩きづらそうだったから。えっと……、モデルさんだっけ?」
「あ、うん。香取 茜です」
「そうだ、香取さんだ!」
ようやく名前が思い出せたのか、速水はひらめいたようにぱっと顔を明るくした。その笑顔はまさに殺人スマイルで、あまりの綺麗さに茜はため息をつきそうになる。
「えっと……速水 司くん、だよね?」
「えっ! な、なんでっ!?」
速水は目を丸くした。どうして茜が名前を知っているのか、という驚きだろう。茜は彼に単純明快な答えを教えてあげることにした。
「有名だもん」
「そんな……香取さんの方がよっぽど」
「有名だよ、速水くんは」
困ったように微笑む速水もまた、魅力的だ。
「足、ちょっとマシになってきた」
「よかった、安心したよ」
「これ、ありがとう。全部でいくらだった? 返すよ」
速水が買ってきた消毒液や絆創膏を手に取って、茜は彼に尋ねかけた。しかし、彼は口を開こうとしない。
「あなたねぇ、どこまでお人好しなの!?」
茜は、感心を通り越して、ちょっと苛立ってきた。どうして見ず知らずの自分にこんなに優しくできるのだろう。いつか悪い人に騙されるんじゃないか、なんて考えてしまう。
速水は何も言わずに茜の頭をぽんぽんと優しく叩いて、駅の方向へ消えてしまった。
◇ ◇ ◇
「もしもし」
『茜ちゃん。お仕事お疲れ様』
体育大会から、茜のまわりの人間関係は急激に変化した。
体育大会で積極的に色んな女の子と話したおかげか、友達がぐっと増えた。もともと茜は人付き合いがそんなに苦手というわけではない。周りの子と話す機会が少なかったというだけだ。いつのまにか、学校を休みがちな茜のためにノートの写メなどを送ってくれる友達もできて、茜は感謝と安心感を感じていた。
そして、最も変化したもの。
それは、芦屋雄大との関係かもしれない。
はじめの方こそ、芦屋をよくいるストーカーっぽい気持ち悪い男だと思っていた茜。だが、体育大会の一件以来、芦屋は茜にとって親しく話せる特別な存在になっていた。
芦屋は、茜を振り向かせてみせると言った。
その言葉通り、彼はいついかなる時も茜を気遣い、特別な――、「好きな女の子」として扱ってくれる。それが茜にはくすぐったくて、心地よかった。
人生はわからない、と茜はつくづく思う。
いつの間にか、芦屋に惹かれている自分がいるのだから。
今日もいつものように、仕事終わり、家に帰ってから芦屋と電話で話していた。
彼は必ず、疲れた茜を労わってくれる。それがものすごく嬉しくて、安心できて、茜はついつい芦屋に甘えてしまう。
「今日ね、ちょっと失敗しちゃって」
『どうしたの?』
「せっかく特集記事組んでもらったのに、怪我して遅刻しちゃったの」
『怪我!? 大丈夫!?』
「あ、心配しないで! ただの擦り傷と軽い捻挫だから。遅刻も、全然責められなかった。そういうこともあるよ、って笑ってもらって。……でもね、その優しさが、痛い。申し訳ないの。完全に迷惑かけちゃってるのに、そのうえ気遣ってもらって。もっとしっかりしなくちゃなぁって、ちょっと自分が不甲斐なくなっちゃって」
芦屋には、なぜか本心がするすると言える。きっと彼は、弱音を吐く茜を優しく受け止め、労わってくれるという確信があるからかもしれない。こんなに彼に心を許してしまっている自分が、まるで今までの自分とは別人のようだ。
『茜ちゃんは、本当にしっかりしてる。ボクより年下なのに、仕事をそんなにも責任をもって捉えていて、尊敬しちゃうよ』
茜を宥めてくれる芦屋の声音は、これ以上なく優しくて、彼女の心に沁みた。
「そんなこと……」
『ボク、茜ちゃんと付き合いたいな』
茜は、息を呑んだ。
『こうやって話してるとね、いつも思うんだよ。辛いことがあって、苦しいことがあって、なんとか乗り越えようとする茜ちゃんは頼もしいけど……、やっぱりどこか脆そうで、壊れそうで。たまに、不安になる。……だからボクが、誰よりも茜ちゃんを見てるボクが、側で支えてあげたいなぁって』
その言葉に、茜は思わず涙ぐんだ。
(……そうだよ。私、欲しかった。私だって人並みに悩んだりするし、辛いときは助けてもらいたい。……そういうことを、分かってくれる人。今まで、いなかったんだよ。みんなどこか、『モデル』っていう色眼鏡をかけて私を見てた)
「芦屋先輩……私……、私……」
喉の奥が熱く詰まって、うまく言葉が出てこない。途切れ途切れに言葉を紡ぐ茜を、芦屋は辛抱強く待ってくれた。
「私……、先輩が好き…………」
『やっと言ってくれたね』
受話器の向こうから、ほっとしたような芦屋の声。
その表情は、きっと綻んでいるに違いない。茜はそう思った。